紙とペンとミステリー作家
美澄 そら
紙とペンとミステリー作家
「いつまで寝てるんですか、先生。もうお昼ですよ」
「はぇ……ああ、本当だ……」
――いい年したオジサンが「はぇ」って。
狛江は電話を当てていない右のコメカミを押さえた。
「人形シリーズ、増刷決まりましたよ。あとでお伺いしますね」
「狛ちゃん、流星堂のシュークリームおねが」
言い切る前にプツリと通話を切った狛江は、人目を憚らず大きくため息をついた。
最近は十代でも作家デビューする者もいる中で、御年三十五歳は決して若手とは言い難いのだが、ミステリー界では新人として期待されている。
ミステリー界をもっと盛り上げようと、ビジュアル付きであちこちの雑誌に取り上げられているほどだ。
正直、先生の見た目は清潔感のある普通のオジサンだと狛江は思っている。
けれど、魅力的なのはその頭脳だ。
今までに無いトリック、犯人にまでファンが付くほどの個性的なキャラクター。そして、最後まで読者を引き込んで離さない文章力。
どこを取っても天才作家なのは間違いない。
狛江は出来上がった原稿を読むたびに舌を巻く。
自分も一読者だったときは、小金澤の脳を覗いてみたいとさえ思うほど陶酔していた。
だから、小金澤の担当になったときは、小躍りして喜んだ。神様仏様編集長様、なんて浮かれてたこともあった。
しかし、担当になって二年。
もし、今、彼の思考回路を覗けるツールがあっても、狛江は全力で拒否をすることだろう。
――相変わらず小金澤が天才だということは否定しないが。
小金澤は都心の色んな意味で高いマンションの七階に住んでいる。ラッキーセブンがいいというどうでもいい理由のせいで、高層ビルの壁しか見えず、景色はそれほどよろしくない。
手ぶらでもよかったけれど、どうせ行く道で買えるから、と流星堂のシュークリームを買ってきた。
一階にあるインターホンで、小金澤の部屋番号を入力して呼び出す。
「狛江くん? はいはーい、開けますよっ!」
鍵を開けてもらって、建物の中に入る。
エレベーターを使って七階の一番奥の部屋へ向かうと、すでに小金澤がドアから顔だけ覗かせていた。
「狛江くーん!」
「近所迷惑なんでやめてもらっていいですか」
「ちぇっ、折角お出迎えしてあげたのにー」
そう言って口を尖らせる。何やってんだ、オジサン。と心で突っ込んだ。
今日小金澤の着ているものをチェックする。
どっかの海外のお土産のTシャツに、膝下のだぼだぼした短パン。
――まだ、マシか。
いつぞや、パンツ一丁だったときは本当にキレそうになった。
まったく、このオジサンは羞恥心とかないのだろうか。
上がらせてもらうと、勝手知ったる様子で適当にキッチンを漁り、紅茶を淹れて、買ってきたシュークリームといっしょに差し出す。
「狛江くん、こういう気遣いができて偉いよね」
「そりゃあ、二年も担当させてもらってますからね。ところで、昨日夕方に居酒屋さんの前にいらっしゃいましたが」
増刷の話もするつもりだが、狛江が昨日の会社帰りに見かけた、めったに一人で歩き回らない小金澤が、ふらふらと飲み屋街を歩いていたのが気になった。
「あぐ?」
「……先生、クリーム垂れてますよ。」
指に付いたカスタードクリームをべろりと舐め取ると、小金澤が「思い出した!」と両手を叩いた。
「そうそう、お腹空いて彷徨っていたら、いい匂いがしてさ。焼き鳥の。それでそのお店に入ったらさ、俺の顔知ってるファンの子がいたんだよね」
その点は最近のメディアへの露出が成功していると思う。
「それで、サインをくださいってなって――」
「あ、あの! 小金澤先生ですよね! わたし大ファンなんです! 人形シリーズも全部持ってて……あの、あの、サインを頂けませんか?」
「いいですよ」
大学生くらいだろうか。顔を真っ赤にさせながら、訴えている姿が可愛らしい。
小金澤がにこっと笑って、手を差し出すと、箸袋を乗せられた。
――え? これに書けってこと?
くしゃっとシワの寄った箸袋を見つめて、一瞬固まる。
「ごめんなさい。今、紙とかなくて」
「あ、ああ……大丈夫ですよ。ペンとかあります?」
「それならお店から借りてきました!」
極太マーカーだった。
はみ出ないように慎重に書くと、「はい」と彼女に手渡した。
「ありがとうございます、一生大事にします!」
二人目は、ちょっと遊んでいそうなお姉さんだった。
「マジの小金澤じゃん! やばーい! 写真いいですか?」
「ごめんね、プライベートだから」
「あ、じゃあ、サインだけでもください!」
今日はよくサインをねだられるなぁと思っていると、彼女はバッグを散々漁ってからスティックタイプの口紅を取り出した。
「……これでもいいっすか?」
――俺は試されているのかな?
しかも手元にあるペンは、先程の女の子が置いていった極太マーカーである。
「……いいっすよ」
平らでない上に、書けるスペースも狭い。それでも極太マーカーの細い部分を探して、なんとか書いて渡すと、彼女は「やばーい! これめっちゃいいね貰えるやつじゃん!」とご機嫌に去っていった。
三人目は子供を連れたお母さんだった。
「あ、あの……サインを頂けませんか」
「いいですよ」
正直、前の二人でだいぶ疲弊していたけれど、ファンのためなら仕方ない。
「すみません。今紙とか持ち合わせがなくて」
おずおずと差し出されたのは、紙おむつだった。
「いやぁ、紙おむつにサインしたミステリー作家は俺くらいだと思うよ。これからはなんにでもサインが出来るようにもっとサインの技術を極めようかと思ってさ」
自慢気に語っているけれど、狛江の目にはただのおバカさんにしか見えない。
「……先生、サインの技術を極めなくても、先生が紙とペンを持ち歩けばいいんじゃないですかね」
「え? あ、ああー! その手があったね」
さすが狛江くん!と褒める先生の前で、狛江は頭を抱えた。
――この先生、本当に大丈夫か?
おわり。
紙とペンとミステリー作家 美澄 そら @sora_msm
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