ひひんと埠頭の馬

千羽稲穂

ひひん、ひひん

茜さす日暮れの中、埠頭は潮を浴びていた。

 その上で、彼女は一人丸まっていた。


 8月31日と9月1日の境い目。


 今日もまた日が暮れる。

 明日にもまたいつもの日暮れが続く。

 彼女はそう思い、茜に目を細めた。


 そこへ一人ぱかぱかと歩いてくる人影があった。

 ぱかぱかぱかぱか、きゅーっと彼女の隣で急停止し、寂しそうな彼女から一人分の距離をあけて座る。


 彼女はそっけなく、人影と海とを一緒に眺めた。


「なんでそんなもの被ってんの?」


 隣にいる彼を見ず、彼女は無愛想に近づいてきた学生服の馬頭を罵る。


「ハマってるんだ。馬に」


 馬の被り物をしている彼は親指を立てる。今、彼を見たら、きらーんと親指は光っているに違いない。だが、彼女は彼を見ず、ただ海の波の行く末を見ていた。


 遠くから茜日で照らされた海の水面は、短い光の線を引いたようにてらてらと輝く。水面に浮かぶは赤い色の光の粒達。そこに靡くは彼女のセーラー服の赤いタイ。


 横にいるのは馬。頭を覆う馬のマスクに対して半袖のカッターシャツに黒い長ズボンはアンバランスな組み合わせだ。馬の口は穴が空いており、そこから眼が覗く。点々と海の光とはまた違う、消えてしまいそうな光がそこにはあった。


 彼女は一層背中を丸めて、足を抱える。汗ばんだ脇。透明な粒がにじりよる首筋。焦げた肌の色。ピンクに染まる唇が開く。


「あんたって、いつもそう。要領よく次へいける」

「君はそうじゃないんだな」

「うん。そうじゃない」


 彼女は腕に力を込めて、また体を丸くする。


「あんたみたいに、毎年違った変な被り物して、こんなところに来ない」


 彼女は思い出す。彼は寂しそうな彼女を見かけてか、今日という日になると決まって変な被り物をして、彼女の隣に来た。去年は猫、その前は犬。その前の前はイルカだった。その前の前の前は………と、とにかくいろんなものになり、彼女の横に座った。


 彼女に自身の正体を明かさずに。時に薄れていく感情を彼とともに嘆きあった。時に共感し、去っていく夏の終わりをずっと一緒に見てきた。


 彼女は寂しくため息を漏らす。


「そうだよ。いつも私はあんたに『さよなら』さえ言わせてもらえないじゃない」

「さよなら」

「今言ってどーすんのよ。てか、私から言わせてよ」


 ひひんひひんと馬は被り物を震えさせる。被り物の鬣が舞った。


「今日はどうしたんだいひひん」


 手を招き猫のように形作り馬は尋ねる。


「可愛くないし」

「そっか」


 すぐに馬は手を下ろした。


「嘘だし」

「そっか」


 ひひんひひんと馬は横に頭を振った。


 横顔は変わらず馬で、無表情なのに対し、馬が笑っているように彼女は見えた。すると彼女はふふんどんなもんだいと得意げになる。


「で、何があったんだ」と馬が首を傾げる。

「何もないよ」途端に彼女はつっぱねる。

「そうか。何もないかあ」


「嘘。ある」


 そうして彼女はぽつりぽつりと話し始めた。

 最近熱中症になってしまったこと。そこで病院行ったら悲しいことに亡くなった方がいたこと。でも自分は何にも出来なかったこと。無力で悲しかったこと。


「まだ、あるんだ」彼女は一息つき、苦しそうに次の言葉を探した。


 隣の彼は彼女に一歩だけ近づく。地面に当てた彼の掌がひりひりと熱せられ、汗ばむ。


「最近そういう夏が嫌なの」


 にじり寄る彼の手がすぐに引き下がった。

 彼女は顔を上げて、目の前に広がる大海原を目に写す。きらきらと輝くその光景に目を細め、頬を痛ませた。からからに喉が乾いていたが、彼女はめいっぱいに潮風を吸い込む。


「みんな夏が終わったら、大人になったって顔して学校に来るんだ。

 でも私はそんなことない。いつまでも子ども。

 ううん。多分私は子どもでいたいんだ。だから毎年夏は、同じように同じ時間に同じ動画を見てたり、同じように駄菓子屋でアイス買って、今日こうして此処に座ってあんたを待ってる。

 みんなだんだんそういうことをしなくなるのが嫌になったり、そういうことに薄らいでいって関心がなくなったりして私とずれる。

 私もみんなみたいに大人にならなくちゃ無力なことに変わりがないことを知っていても、今は子どもでありたいって思っちゃうんだ。するとね、胸がきゅーってするんだ」


 ぎゅっと彼女は目をつむる。


「無力が嫌で大人になりたいのに、子どもでいたいっ思うって矛盾してるよね」


 小さな波が押し寄せる。夕日がもうじき沈む。暗闇を背負い、雲は消えていく。きらきらした海も光を抑えて、赤を連れ消え失せていく。透明な海の水色に濁った藍色が塗られる。


 彼はその光景を見て暫く考え込む。そして彼女へと距離を縮めた。あついものをその身に纏い彼はそっと、とんとん、と彼女の肩を叩いた。

 片方の手で彼は馬の頭に手をやる。


「なに?」

 彼女はようやく彼の方を向く。


「なにそれ」

 彼女の口が震える。


「そう言うのが嫌なの」

 彼女の瞳が鋭くなる。


「全然嬉しくないんだから」


 頭を覆う馬の被り物は剥がれ、彼の手の内にすっぽりと収まっていた。彼は彼自身の顔で涼し気に彼女を見つめ、照れくさく笑った。


「そうやって、私を置いていくんだ」


 彼女は自身の一部が剥がれ落ちたように感じた。毎年同じように彼は彼女の夢と夏と終わりを知らせた。彼は自身の正体を現さず、彼女の夢であり続けた。しかし、それは今、なくなった。


「なぁ」と彼は彼女にまた笑いかける。


 彼のこめかみから流れる汗が弾けて、暗闇に輝いた。


「てか、私、被り物している正体知ってたし、あんたが私のクラスの学級委員だって知ってたし、知ってたけど、言わなかったんだし」

「なあ」

「なんで取っちゃうの」

「なあ」

「うるさいうるさい」


 ぽかぽかと彼女は彼に叩く。痛い痛いと彼は笑顔で答える。なかなか止まらないぽかぽかに、彼は馬の被り物を盾に突き出した。しかし彼女はぐーぱんで馬を殴り、海まで吹っ飛ばす。水面に落ちた馬は流され、海岸まで戻る。


 彼女は肩で息をした。

 彼と彼女の激闘の末の汗は宝石のようにきらめいた。


 彼は一息つき、彼女に苦笑する。


「置いていかないよ」


 ぶんぶんと彼女は大きく頭をふる。

 君は聞き分けがないなあと彼は心の中でぼやき彼女の手を握りしめた。


 鳥が大きな音をたてて、二人の頭上を通り過ぎる。

 すっかり日も落ちてじりじりとした熱さが引けていく。

 ただ彼のぬくもりは彼女の手からは離れなかった。


「君は夏が嫌いだけどね……」


 ごくりと彼の喉元が揺れる。



「僕は君と会える夏が大好きだ」



 彼女の目が揺れる。くるくると渦巻き状に揺れて揺れて、頭も回って、がっくんと頭が擡げられた。

 いいやそんなことはない、なんて思って、彼女は夏が過ぎ去った彼に対して、手を握ったまま、睨みつけた。


「私、あんたをふるからね」


 ぎゅっと彼の手は強く握られた。


「ふるったら、ふるからね」


 ぎゅーっと彼女は手を離さない。


「手、痛いんだけど」

「これは……何かの間違い」

「さよなら」と彼が手を離そうとする。

「いやいや、待って待って言わないで、離さないで」

「嘘だってば」


 彼は、にかっと歯を見せる。彼女は恥ずかしくなって、また蹲る。彼は彼女にくっつく。


 海沿いのコンクリート。

 二つの丸い背中は重なる。


 薄れゆく感情を潮に乗せて。

 波打ち際には馬のくたびれた被り物。潮風に吹かれ、萎れていた。


 8月31日と9月1日の境目。


 彼女は不本意にも大人になっていく。


「ゆっくり大人になろう。ゆっくり子供から遠ざかろう。一緒に」


 彼と彼女は夜の常闇の中、寄り添いあった。

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