達人に恋は、むずかしい。(花の秘剣2KAC3版)

石束

達人に恋は、むずかしい。

 目に染みるほどの青葉。

 皐月の木漏れ日と


「あ、……れ」



……そして、おくれ毛を真っ白い額に張り付かせ、得意げにこちらを見下ろす少女の笑顔。


 その記憶を最後に。

 矢倉新之丞は、意識を失った。


◇ ◇ ◇


「大事ない。たまたま当たり所が悪かっただけであろう」

 ひっく。えっぐ。

 庭の見える明るい座敷、客用の布団に一人の少年が眠っている。

「だから、そろそろ泣き止め。加代」

 えっぐ。えええっぐ。

 小菅甚助は腕を組んで、右隣、すなわち少年の枕元に正座する娘のつむじを見下ろした。

 彼の娘は、膝上にこぶしを握って、嗚咽を耐えて……耐え切れずに、泣いていた。

「し、しんのじょうが、しんのじょうを、わたし、わ、たし……」

「竹刀で死にはせん。躓いたお前が押し倒す格好になって、新之丞が庇おうとしたはずみで一緒に転んで、松の根に頭をぶつけた――のだろう?」


 こくり、と、彼の娘、加代が頷いた。自分よりも大きい男の子を(偶然ながら)いざ組み打ちと抑え込んだ(とその時は思った)。そして、得意満面で(ほめてもらいたくて)彼の顔を覗き込んだら、彼がそのまま意識を失った……らしい。


「しんのじょうも、しんでしまったら、どうしよう……」


 新之丞も、か……。と心中に呟いて、甚助は庭に視線を漂わせた。


 月浜藩剣術指南役を預かる彼、小菅甚助は数年前、連れ添った妻を亡くした。一剣を頼みに諸国を放浪していた彼を支えてくれた糟糠の妻だった。月浜藩に仕官が叶い、玉のような赤子を授かり、開いた道場も目途がつき、赤子――加代も元気に育って、これからようやく――と、そんな折。

 甚助の妻、そして加代の母は、ふとした病で、旅立ってしまった。

 加代は武士の娘。幼くとも人の生死を偽るまいと、親子で妻の看病をし最後をみとった。  

 だが、近しいものが病み衰えていく様は、さだめし、つらかったろう。


 仕官の折に親交を結んだ矢倉家の先代から、三男新之丞の事を相談され世話を引き受けたのは、母を失った加代の、同世代の家族になってくれるのでは、と思ったからだ。


「父上……しんのじょうは、母上のように、いなくなったりしませんよね……」


 甚助は黙って、布団にくるまれている少年を見やった。

 矢倉家の三男坊は体が弱かった。二つ下の加代はともかく、同世代の少年に比べれば、頭ひとつも小さく、手足も細い。青年になり成人しても、人並みの体格にはなれぬかもしれぬ。

 それでも、剣の修行をすることで、人並みの健康を手にしてくれれば。

 矢倉の先代は神仏に祈るように、甚助に頭を下げたのだ。

 甚助の胸にある覚悟が定まった。


「加代。わしは、新之丞に晴願流の『稽古』をつけようと思う」


 加代が目を見開いた。この娘は、その言葉の意味をわかっている。

『わかるように』育ててきた。

 だから、加代の声が震えているのは、当然だった。


「それは、道場のようにとか、わたしの相手とか、ではなく……ですか?」

「そうだ」と頷くと、加代は甚助の袖にすがった。

「父上!やめてください!こんなにつらそうなのに『本当の稽古』をさせたら、しんのじょうは!」


「この子の体は、たしかに弱い」


 晴願流には『本稽古』なる秘伝がある。一子相伝。藩にすら秘密の稽古法だ。


 晴願流は初心者にきめ細かい指導する。だが、だからといって、けっして「甘い流派」ではない。人の中にある、小さな才能を見出し育て上げる。否、存在しなければ「芽」を植え付けることすら、行う。才能を選別するのではなく、何もない一から作り上げることに特化している剣術流儀――それが晴願流だ。

『本稽古』とはその究極。物心つくかつかぬかの年令から、厳格に定めた稽古を課し、何の変哲もない子供を流派のすべてを受け継ぐ「剣士」へと作り上げることをいう。

 加代には、その秘伝を、物心つく前から施してきた。少しずつ強度と質量を上げる稽古法を続けて、加代は現在の稽古に耐えられるようになったのだ。


 それを普通の少年よりも体力が劣る新之丞に今から強いるのは、無理がある。


「だが、誰かがそばにいて、ともに学び、同じように歩み、ゆっくり成果を積み重ねていけるなら、あるいはその過程で、人並みの体を手に入れることができるかもしれぬ」


 ゆっくりと、急がず。重ねた無理が無理にならぬよう。行きつ戻りつを繰り返しながら、日々の業を修めて行けたなら。


「何より新之丞には『見』の才がある」


 性格とも資質とも言い難いが、この子はよく人の話を聞く。物事を観察し、人の動作をそっくり真似ることができる。何より、教えを虚心に受け取る素直さがある。これは、教えて学べるものではない。一種の才能だ。


 この天稟。この天賦。人より弱い体と引き換えに、神仏が与えたかもしれぬこの子の才。

 このささやかな灯(ともしび)を消さずに、守り続けたなら。


 もしかすれば。あるいは。——そして、そのためには


「新之丞には目標が必要だ。身近な手本が、目印が、しるべが、必要だ」


 白皙のほほ。静脈が浮き上がった生白い腕。なのに息ばかりが熱い。安静にしながらも苦吟する少年を見ながら「加代」と、甚助は娘に問う。


「できるか? お前に」

「できます!」


 間髪入れず、打てば響くかのように、答えがある。

 その声に、最早、涙の気配はなかった。


「加代は……加代は、しんのじょうの『しるべ』になりますっ」


 そして、月日は流れた。


 新之丞は、『本当の稽古』に入ったが、そのことには気づかない。実は、晴願流の秘伝は、年齢や体の成長成熟の度合いで、細かく練習方法や目的を変更することにその妙味があった。

 七歳なら七歳の、五歳なら五歳の、三歳なら三歳の、修めるべき『行』がある、とそんな具合だ。甚助が自らを手本をするのではなく、加代を間に介したのも、この修行の効果を高めるためだった。

 新之丞はよく耐えた。自らの虚弱と闘いながら自分にできることをひとつづつ積み重ねていった。そして彼にはまさに天稟があった。砂が水を吸い込むように、教えと技に習熟した。

 進境著しい彼が、誰もが認める第一人者となったその日。

 彼は、師と、家族どうぜんに育った幼馴染から、秘伝『本稽古』の真実を知らされる。

 そして、心技体ともに道場の筆頭たるべし認められ、印可をうけた。

 小菅道場の若き師範代、矢倉新之丞の誕生である。

 

 ◇◇◇


「……ああああ」


 小菅甚助は黙って、縁側に座って茶をすすり、そして。

 自分の右隣、濡れ縁に手をつき、泣き伏す娘の背を見下ろした。

「よかったではないか、新之丞が元気になって」

 もちろん。それは、何よりもうれしかったのですけれども、と、加代はぼそぼそとつぶやく。


 新之丞は頑張った。彼女はそれを誰より近くで見ていた。

 力があるものが強いのは当たり前。心にせよ体にせよ、己の弱さと直面し、克服し前に進むことにこそ、芸道の意味がある。

 それが人の生死にかかわる剣の道において、克己はすなわち命懸け。

 だが、新之丞はそれをやり通した。

 

 それを、加代はすべて見ていた。見ていたばかりか、苛烈な修行を共に越えてきた。

 意識をなくすまで稽古する新之丞をしがみついて止めたことがある。ケガをおして起きようとした彼と喧嘩をしたこともあった。逆に熱を出して寝込んだ彼女を、彼が寝ずに看病してくれたこともあった。


 稽古の場を離れた彼は、加代にとっては二つ年上の聡明な『兄』だった。そして同時に、主筋の娘として丁寧に接しながらも、優しくいたわってくれる『年上の男の人』だった。


 そこに、淡い思慕がなかったとは、いわない。


 否。だからこそ。


 彼女は彼の前に、『壁』として『障害』として、『敵』として立った。


 甚助の稽古も激しさを増した。「そんな有様で、新之丞の『しるべ』となれるか!」と叱咤され、歯を食いしばって、立ち上がった。

 彼女は必死に戦って、戦って、新之丞の一歩先を歩き続け、そして、ついに運命のその日。

 これを生涯最後の真剣勝負と定めた試合において。

 彼女、小菅加代は、終生の好敵手たる、矢倉新之丞を一刀のもとにたたき伏せるに、至る。


 ……至って、しまった。


 なお、この試合は、新之丞に免許皆伝の印可を与え道場の師範代とするにあたって、新之丞と加代、甚助のみで行った。いわば新之丞への「はなむけ」だったので、加代が勝つ必要はなかった。

 笑顔で「強く、なりましたね」と、告げればよいだけだった。

 ついでに「もう、稽古相手の必要は、ないのですね」と、寂しげにうつむいてもよかったかもしれない。

 でも……


「……勝ってしまったのう」

「……うううう」


 あまりに鋭い踏み込みに、思わず体が反応したのだ。それくらい、新之丞は強かった。

 そして、

「……いやでした」

「……」

「新之丞より強くなりたくないけれど、新之丞に負けるのはもっと嫌でした!」

 加代は負けず嫌いに育っていた。煽った甚助にも責任があるかもしれない。

 でもそれ以上に加代も剣に一途だった。自分の全力で彼に応じたことに後悔はない。

 だが、しかし。


「嫁にもらってくれ、とは、言いにくくなったのう」

「……ああああ」

 加代は、再び、頭を伏せて低く嗚咽した。

 二人はひそかに両想いなのではないか、と甚助は思っていたのだが、どうも困った方向へ拗れていたらしい。

「とはいえ、このままではまずかろ? 道場(うち)に稽古に来ている武家の娘のうち何人かは新之丞に懸想しておるようだし」

「父上違います」

「何が違う」

 矢倉家は上士の家柄。新之丞は部屋住みの三男だが、だからこそ婿としては申し分ない。

 そのはずだが……

「違うのです全部です。一人残らず全部、新之丞狙いです。あの子たちは!」

「……そうか」

 言葉もない。いつの間にか彼の道場は戦場になっていた。

「何が『師範代に教えてもらったら、私、もっと上手になれるようなきがします』ですかっ」

 しばらく道場に行ってないはずの加代が、まるで見てきたように言った。

「ああ、いっそ晴願流を全部忘れてしまいたい。そうしたら、私も一から教われるのに……」

 新之丞が教えていることは、お前も知っておるのだがな。

 あと、冗談でも忘れるとかいうな。お前が晴願流の継承者だ。

 というか。そこまで、わかっておるなら何故に全部ぶっちゃけぬ。

「もう、いっそお前の方からもらってくれと、言ってもよいのではないか」

「それも、なんか負けた気がするから、嫌ですっ」

「……お前は、何と闘っておるのだ」


 小菅甚助は、ふかく、ため息をついた。


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達人に恋は、むずかしい。(花の秘剣2KAC3版) 石束 @ishizuka-yugo

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