君は甘い卵焼きがお好き。
夏祈
君は甘い卵焼きがお好き。
目が悪くなったので眼鏡をかけるようになったら、幽霊の女の子が見えるようになった、と言ったなら、果たしてどれほどの人が信じるだろうか。
昼休みの屋上で、弁当を広げる僕の隣に座る女の子は、幽霊の西本さん。腰の辺りまで伸びるさらさらとした黒髪と、ぱっちり大きな目が印象的な綺麗な子。でも彼女は、僕以外の人には見えない。もっと言えば、僕も眼鏡をかけ始めたひと月前までは見えなかった。視力が下がった自覚はあっても放置していた僕だったが、四月にあった健康診断で、あまりに下がった数値を突き付けられては流石に放ってもおけず、先延ばしにしていた矯正器具の購入に踏み切った。そして着用してみれば、教室の中をふよふよと浮かぶ一人の女の子の姿。驚きすぎて椅子ごとひっくり返ったあの時は、人生でトップレベルに恥ずかしかった。それに驚いたその子と目が合って、会話が出来ると気付いたのが、その日の昼休みのこと。今と同じように、屋上で弁当を広げて、向かい合って座った無言の空間。それを切り裂いたのは、彼女だった。“……その眼鏡、絶望的に似合ってなくない?”
「君んちの唐揚げ今日も美味しいね」
「……ずっと思ってたんだけどさ、幽霊ってもの食べれるの」
いつの間にか隣から手を伸ばし、僕の弁当箱に入っていた唐揚げを奪っていたらしい彼女が、口をもごもごさせながらそう言う。幽霊って普通食事とか要らないんじゃないのか。
「わかんない。食べてみたら食べられたから食べるだけだよ」
この世の幽霊の定義を正して欲しい。それなら日本人がよくやる、おかずの最後の一個だけ余す譲り合いの精神は幽霊が掻っ攫っていけば万事解決しそうじゃないか。
お腹は空かないから食事は全然必要無いんだけどね、と彼女は笑うが、食事の必要な幽霊などなんて地獄だろう。
「でも君のおうちの唐揚げ、美味しいから食べたくなっちゃう」
まだ一つも手を付けていない弁当箱に、出来た少しの空白。消えた唐揚げは一体どこにいったのだろう。何の栄養にもならないそれが、少しだけ不毛に思えた。笑む彼女は春の柔らかな日差しを受けても、影すら作らない。屋上の床に伸びる黒は、僕のものただひとつだけ。この高校の制服を纏った彼女は、こうして見れば普通の女の子でしかないのに。
「……卵焼きもあげる」
「いいの! やったぁ!」
箸に刺した卵焼きを一切れ、彼女の前に差し出す。上手く巻けていない不格好なそれを、彼女は嬉しそうに口にした。箸先からそれが消えたことを視認するまで、気付かない。刺さった卵焼きを取るにもそのまま口にするにも、生まれるであろう微かな振動は、一切伝わってこなかった。それが、本当に彼女が幽霊であると、世界に告げられているようで。
「甘い卵焼きだ! 美味しいね。君のおうちは卵焼きに砂糖入れる派?」
「……ううん。醤油とか入れる、しょっぱいのしか作らない」
僕の返答を聞いて、彼女が首を傾げる。その動きに合わせて肩口から零れ落ちた髪が、僕の手に触れる。感触は、無い。
「なんかわかんないけど好きなんだよね。甘い卵焼き。家で出たことは無いのに」
彼女が少しだけ驚いた顔をする。澄み切った瞳が光に溶けてしまいそうで、そっと手を伸ばしたかった。出来なかったけど。
「──だから、僕が作ったんだ、それ」
瞬き、ひとつ。暗く透明な瞳から、ころりと星粒が転がりそうに、緩慢な動作で。
「そうなんだ。だからなんだか独創的な味がしたんだね!」
さっき褒めてくれただろ。なんでネタばらししたらその反応なんだ。
「うそうそ、冗談だよ。美味しかった。私の大好きな味だよ」
「──……幽霊でも、そんな味とかわかるんだ」
素直に褒められたことが照れくさくて、突っかかるように返してしまう。そんな僕の言葉に、いつものようにふざけて返してくれると思っていた。だから逃げるように、彼女から視線を逸らして、アルミホイルに包まれたおにぎりを食む。
──なかなか来ない返事を不審に思って彼女を見れば、今にも泣きそうな顔をしていた。
「……えっ、あの、えっと…西本、さん、」
「えへへ、ごめんね、なんでもないの」
彼女は笑う。そうして僕の顔に手を伸ばして、すっと眼鏡を奪っていく。視界がぼやけて、たった今まで隣にいた女の子はどこにもいなくなる。声も聞こえなくて、急に僕はひとりぼっちになる。
実体も無く、何にも触れられないはずの西本さんが、唯一触れられる僕の眼鏡。僕と彼女を繋ぐただ一つの手段を彼女の手で断ち切ったということは、今はどうしても触れられたくないのだろう。一切れ減った卵焼きを口に運んで、噛む。独創的な味──よくわからないけど、特別美味しくないことは確かだ。
「ただいま! いやぁごめんね、びっくりしたでしょ?」
あっけらかんと、何も無かったかのように、彼女は只管に笑う。初めて彼女を見つけた時のように、ふわりふわりと宙を漂いながら。生きている者には決して出来ない動作を。
「ねぇ西本さん」
僕は、禁忌に触れようと思う。
「君は、どうして死んだの」
文字通り宙返りをして遊んでいた彼女の、翻る紺色のスカートが網膜に焼き付く。長い睫毛に縁どられた目が、泳ぐのが見える。薄い桜色の唇が、淡く、動い、て、
「──それ訊いちゃう? 君も大概デリカシー無いよねぇ」
わざとらしい明るい声が、嫌に明瞭に耳を通る。
「殺されたの」
挑戦的な視線と弧を描く唇。それは、真実を見抜けるかの心理戦。
「大好きだった人に。憎まれていたならそれで良かった。でも違った、泣きながら、私のことを──」
「──いいよ、ごめん、軽率に訊いた僕が馬鹿だった」
「あの人も、甘い卵焼きが好きだったの」
俯いた視線が、引っ張られるみたいに。その言葉に奪われた僕の目は、西本さんの姿を真正面から映す。この世界から干渉を受けない彼女は、春の強い風が吹こうとも揺らがない。
「料理が苦手なりに作ってくれたこともあったけど、味は壊滅的だったな」
空間を滑って、彼女が近づく。それに合わせて動く黒髪が、まるで翼のようにはためく。彼女は僕と同じように屋上の床に足を付けて、同じ目線に立って。
「君とは大違い」
僕の眼鏡へと、そっと手を伸ばす。
「本当は、こんなもの無くても見えるんだよ。私たちが、それを信じられなかっただけで」
ぼやけた視界に、その女の子は、いた。
「……ねぇ、もう一回。私のこと、好きになってよ」
それが、勝手なことだってわかってるけど。
震えた声がそう紡いで、俯いた顔からきらりと雫が零れる。それは地面を濡らすことも無い。僕の手が、震える彼女の肩を掴むことも無い。
「もうとっくに、好きでいるよ」
あぁ、この恋が、今も前も制限付きじゃなければ良かったのに。
君は甘い卵焼きがお好き。 夏祈 @ntk10mh86
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