第13話 女子高生だけどゾンビの蔓延る世界になった。

 山本紘太やまもと こうたがピカピカの30歳の誕生日を迎える約二週間前。七瀬さん親子がコンビニへ向かったのと同じ頃。

 彼らの住んでいた地区から少し離れた場所で、ゾンビパンデミックが発生しすべてが崩壊した日にまで時間は遡る。





 子供の頃はまだ明るく元気な、いわゆる女の子らしい女の子だった……と思う。友達だっていたし親友と呼べる子もいた。

 しかし母親の借金が発覚してから生活は一変。毎日怒鳴り罵り合う両親に、まだ幼かった私はただひとり耳を塞いで耐えるしかなく。その後はあっけなかった。母は私を連れて逃げるように引っ越したのだ。



 古い木造アパートの一室で目覚ましのアラームが鳴り響く。私、草加秋月くさか あづきは隣室からクレームがくる前に時計を止めてうんと身体を伸ばした。

 古い折りたたみ式の携帯電話には、現在海外で仕事をしている父親からのメールが届いている。


『生活費は足りてるか? いつでもこっちにきていいからな』


「大丈夫だよー」


 私はそう返信してから起き上がると、テレビをつけて台所で今日の分のお弁当を作る。二人分だ。しかし片方は男を作って勝手に出て行った母親の分ではない。



『先週都内◯◯病院で発生した集団暴行事件はさらに広がりを見せ、多くの犠牲が〜……』


「まだ落ち着いてないんだ……」


 テレビから聞こえてくるニュースはここ最近ずっと同じものだ。

「よしできたっと」



 お弁当を持って向かうのは高校へ行く途中にある一軒家で。

「おじいちゃんおはよう」

 縁側でお茶を飲んでいた老人が私の方を見る。

「……またきたんか」

「また来ましたよっと。はい今日の分のお弁当」

 そう言って先程作ったものを渡す。

 老人はやれやれと肩を落としながらも「いつもすまんな」と弁当を受け取った。

「ちゃんと食べてくださいね。じゃなきゃおばあちゃんに頼まれた私が」

「わあっとるわあっとる」




 この家の老夫婦と初めて出会ったのは、私が高校一年生の夏頃だった。周りとのいざこざから陸上部を辞めたばかりだった私は当時ますます孤立していて、毎日ひとりで過ごしていた。

 その日は雨が降っていて、傘を忘れてひとり走って帰っている途中だった。


「……嘘」


 道端にダンボールに入れられた大型犬がいた。

 もう一度言うが、大型犬だ。

 捨てること自体許せないが、こういうシチュエーションは普通子犬か小型犬ではないか?

 雨の中でその茶色と黒模様の大型犬は私の方をじっと見つめている。

「…………」

 どうしよう。

 うちアパートだし、小型犬ならまだしも連れていけないし。

 かといって見捨てられずに困っていたら


「うちに連れておいで」


 すぐ側の玄関の門が開き、ひょっこりとおばあさんが顔を出した。



「どうしてこんな酷いことができるんだろう」

 おばあさんの家で、私はおばあさんに借りたタオルを手に呟く。

「……どうしてだろうねえ」

 おばあさんはその大型犬の身体を丁寧に拭いてあげている。大型犬は目を細め「きゅうん」と図体の割にか細い声で鳴いた。

「寂しかったんだねえ」

 よしよしと頭を撫でる。


「あ、あの、おばあさん。その子……!」

「うん?」

「ここに……おいてあげてもらえませんか!? 世話なら私がしますから! あの、私の家……アパートで……その」


 絶対に無理なお願いだと思ったが、おばあさんは信じられないことにあっさりと了承してくれた。

「ただい……うわあなんやお前らは!」

 たまたま家を出ていたおじいさんも最初こそ驚いていたが、おばあさんに反対はしなかった。


 その日から私は朝と夕方から夜まで、老夫婦の家で過ごす事が多くなっていった。

「チョコ太郎〜〜ただいま〜〜っ」

「わん!」

 いつもの縁側でチョコ太郎と名付けられた大型犬に抱きつく。チョコ太郎はおばあさんの家にきてからさらに大きくなり、立てば今や私と同じくらいの大きさだ。


 幸せだった。



 高校二年の冬、おばあさんは亡くなった。病気というわけではなく、老衰だ。眠るように逝ったのだとおじいさんは話してくれた。

「きゅうん……」

 おばあさんのいなくなった縁側でチョコ太郎が鳴くと、おじいさんは黙ってチョコ太郎の頭を撫でていた。





「それじゃあ今日も学校終わったら来ますから」

「わんわん!」

「あはは、チョコ太郎もまたあとでね」


 父さんからは高校を出たら私も海外で暮らさないかと誘われているけれど……まだ私は行かないだろう。

「今年受験なんやろ? ええんか?」

「いいんですよ。うちお金ないし……卒業したら働くつもりです」


 そう。私はこのままでいい。

 これからもこのままで……



『いまだ収束しない集団暴徒による被害は全国に広がりを見せ、専門家によれば新種の狂犬病の可能性も視野に……』


 室内からはラジオの音声が流れている。

 本当に最近はずっとこの話題だなあ……



『なお今回の集団暴徒事件は国内だけではなく、海外からも……』


ドンッ!!!!


 でもその音声は突然外から聞こえてきた衝突音にかき消された。

 続いて車のクラクションが鳴り渡る。

 そして人の悲鳴。叫び声。悲鳴だ。


「な、なに?」

「事故でもあったか……」


 どれ見てくるかとおじいさんが腰を上げ、玄関の門から出ようとして……その動きが止まった。





 その瞬間、老人の目には長年生きてきた中で何よりも信じがたい光景が映っていた。斜め向かいの家の塀には車が衝突していて、その車にはすでに多くの血がべっとりと付着している。そしてそれに乗っていた運転手らしき男は、今目の前で人間に噛みついていた。

 まるで肉食動物が捕食しているかのように首の肉を喰らい引きちぎって、ぶちぶちと繊維の切れる音がする。

 そこでようやく捕食されているのが近所に住んでいた若い男だと気がついた。

 男は恐怖に染まった目で「いたいいたい」と繰り返している。

 目が、合った。

 全身の血がどっと逆流したかのような感覚。

 そこでようやく、今この場で喰われているのが彼一人ではない事に気がついた。





「おじいちゃん?」

 玄関の門で呆然と立ち尽くしたままのおじいさんを不思議に思い、私は首を傾げる。外の道の事故がかなり酷いのだろうか?

「どうしたの」

「きちゃいかん」

「え?」

「家の中へ入りなさい!」

 そう言いながらおじいさんがこちらを振り向いたのと同時に、何かがその後ろから飛びかかるようにしておじいさんの肩に噛み付いた。

「ぐあああっ!?」

「いだィいいたいイタいイタイ……」

 その何かはおじいさんの肩に歯を食い込ませながら同じ言葉を繰り返す。

 この飛びかかってきた男に、私は見覚えがあった。たしかこのあたりに住んでた大学生で……会う度に元気に挨拶してくれて……それで……

「はっ、えっ」

 何が起こったのか。なぜ目の前でおじいさんは噛みつかれているのか。どうして大学生の男は首半分が千切れているのに生きているのか。頭は理解を拒否していて、私はぽかんと口を開けたまま立ち尽くす。

「わん!」

 だがチョコ太郎が私の服を咥え家の中へと引きずりこんだ。

 おじいさんもなんとかそいつを振りほどくと縁側から部屋へ上がり、窓を閉める。 幸い一箇所しか開けていなかったためそいつが入ってくる前に閉める事ができた。 だけど


「おじいちゃん! おじいちゃん大丈夫!?」

「ううっ……」

 おじいさんの肩からは大量の血が流れていた。

 肩を噛みちぎられたのだろうか。まさかそんな。いきなりあんなことをするなんて……!


『もし新種の狂犬病にかかっている疑いのある人には絶対に近づかないよう政府は呼びかけを……』


 ラジオから聞こえてきた言葉に、私ははっとする。

 まさか……さっき襲ってきた人は……

 でも今朝までは暴徒って……それに被害の中心はもっと都心部のはずじゃ……


 バンッ!


「ひっ」

 音のした方を見て、私は絶句した。

 縁側の窓一面に先程襲ってきた男と、同じような奴らが張り付き窓ガラスを叩いている。

「イタいよーいたィいたィイタい……」

「パァ、ぱァァ……マア……マア」

「あ゛ぁ、あ゛お゛お゛……」

「はなシてクだサァィ……ハナしテクだサあい……」

「ぉ゛ぉ……お゛ぉぉ……」

 そいつらは壊れたマリオネットのように腕を大きく振り上げガラスを叩く。顔の皮膚が剥がれているやつ、頭蓋骨があらわになって中からブヨブヨとしたものを垂らしているやつ、目は赤黒に染まり眼球だけがぎょろぎょろと動いていて、呻き、叫び、同じ言葉を繰り返しているやつもいた。

 その光景は狂気や恐怖という言葉では言い表せないほどおぞましくて

「あっ……あっ……」

 なんだ。なんなんだあれは。

 暴徒? 狂犬病? そんなわけがない。あれを実際に見て、そんな馬鹿みたいな間違いするわけがない!


 化け物だ。


「あわっはっ」

 震えた足がもつれ、私は大きく尻餅をついた。



「……秋月ちゃん、ええか」

「お、おじいちゃ……だめだよ、安静にして、今救急車を……」

 しかしそれを止めるようにおじいちゃんは首を振り、玄関を指差すと

「今すぐ靴を履いて、チョコ太郎と一緒に裏口から逃げなさい」

 そう言った。

「な、なに、なにいって」

「ええから行きなさい。チョコ太郎」

 今度はゆっくりとチョコ太郎の方を向く。

 チョコ太郎は黙ってその場におすわりをした。

「ええこや。お前はばあさんの方によう懐いとったけど……」

 おじいさんが噛まれていない方の手でチョコ太郎の頭を撫でる。

「頼むで、ええな?」

 チョコ太郎が「わん」と鳴いた。


 ガシャアアン!


 窓ガラスが割れる。

「ほら行かんか!」

 おじいさんが叫んだ。

「いやっいや……っ」

 それでも私はその場に座り込んだままで


「チョコ太郎!」

「わん!」

 おじいさんの声でチョコ太郎が私の後ろ襟を咥え身を翻す。

「いやあっいやああっ!」

 引きずられながら私が見たのは、おじいさんが化け物たちの渦に飲まれ沈んでいく姿だった。





「いやあああっ! やめて! やめてええっ!」

「痛い痛い痛い痛い痛い!」

「はなして――っ! お願いやめてえええ!」

 昨日までが嘘のように、町中が悲鳴と血に溢れていた。

 その中を私は一心不乱に走った。

 隣では私の足に合わせるようにチョコ太郎も走っている。

「どけ――っ!」

「ひいいっ」

 クラクションを鳴らしながら車が突っ込んできて電柱に激突する。運転席から転がり出てきた男に化け物たちが飛びかかる。

 私とチョコ太郎はそれを横目に見ながら車のボンネットを乗り越え、走った。

 家から血だらけの全裸の女性が飛び出してきて、そのまま私の前を走っていた男に飛びかかる。

「なんなんだよテメエエッいってええええ! 」

 男を追い越し私とチョコ太郎は走った。

「お願い助けて!」

 女の人が泣きながら地面に這いつくばり私の方を向き叫ぶ。

「ごめんなさい……っ」

 それを無視して走ぅた。

「だれか――っだれかあ――っ!」

 正面では小さな赤ん坊を抱いた母親が必死に叫んでいる。彼女から顔を逸らし、私は走った。



 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!



 私は走った。

 とにかく走った。

 どの道を通ってどこを曲がったのかすらわからずひたすらに走った。

 自分たちがどこに向かっていいのかもわからずに、走り続けた。





 いつのまにか住宅街を抜け、町の境まで来ていた。ここまで無事だったのは運が良かった。それだけだろう。

 そして私の目の前には、最近できたばかりの大きな商業施設があった。

「ショッピングモール……」

 前に一度だけ……散歩も兼ねてチョコ太郎と一緒に一階にあるペットショップに買い物へ行ったっけ……


 同じように逃げている周りの人達が「あそこだ!」「はやくしろ!」と叫んでいる。


「チョコ太郎っ」

 走りながらチョコ太郎を呼ぶと、私に応えるようにチョコ太郎は「わんっ」と鳴いた。

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