第52話、『lain』がメディア芸術祭の優秀賞をとりロフトプラスワンでイベントが開かれ翌日にはナベシンが登壇し大沢在昌がゲームの発表会で宮部みゆきと京極夏彦の出演を漏らす


【平成11年(1999年)2月の巻・下】


平成から元号が変わった令和元年(2019年)6月1日から16日まで、東京・お台場にある日本科学未来館で「第22回文化庁メディア芸術祭受賞作品展」が開催されます。昨年は六本木にある国立新美術館で開かれましたが、その前は初台にあるNTTインターコミュニケーションセンターでの開催となりました。実は、そこから遡ること18年前の平成11年(1999年)2月に、同じ初台にある新国立劇場の小劇場で、第2回文化庁メディア芸術祭が開かれていたのです。


 最先端のメディア芸術を見ようと若い人たちが押し寄せる最近のメディア芸術祭と違って、文化庁がようやく立ち上げたもののゲームだとかアニメ、マンガといったものを表彰する賞への理解がそれほど進んでいたとはいえない時代。会場も手狭な中にひっそりと開かれたような記憶があります。実はその年から、わたしは文化庁メディア芸術祭の取材を始めました。なぜか? 『serial experiments lain』が優秀賞を受賞したからです。


 「文化庁で芸術祭って言ってもドラマに映画に絵画といった有り体な『お芸術』なんかじゃない、アニメにゲームにCGに漫画の作品を表彰しちゃおうって制度で、いわば21世紀に日本が誇りうる『メディア芸術』という名目の『おたく芸術』を、今から讃えておこうって試みに権力は嫌いでも主旨には賛同いたします」と当時のウエブ日記に書きました。そして20余年が経って、メディア芸術はクールジャパンという名とも結合して、日本が率先して讃え持ち上げる分野になりました。


 そうなるまでに続けたことも大きいですが、やはり受賞作に納得のいくものが多かったことも、メディア芸術への関心を引きつけた背景にあるでしょう。メインとなる大賞はデジタルアートのインタラクティブ部門が任天堂は『ゼルダの伝説 時のオカリナ』で宮本茂。あるいはと思って授賞式の1時間前に会場に潜り込んだら展示室に佇む宮本茂本人を見つけて挨拶をしたようです。


 任天堂での先輩にあたる故・横井軍平が携わった『GUN PEY』について「ウチが作ったみたいなソフトですねえ」と喋っていたとか。面白さこそが前面に出た、アイデアのカタマリのようなゲームを評価するスタンスが、宮本茂をどこまでも世界のトップクリエイターたらしめた背景にありそうです。一方で、美麗なCG作品については「頑張っちゃうんですね」とか言っていたみたいで、そこからクリエイターの自慢に止まっていてはいけないといったニュアンスを感じ取りました。勝手な解釈かもしれませんが。


 アニメーション部門の大賞は、銀座で映画を見た『クジラの跳躍』が受賞し、制作した愛があれば大丈夫の面々とも会ったようです。20余年経った今、皆さんなにをしておられるのか気になります。会場ではあと、宮本茂と優秀賞を『メタルギアソリッド』で受賞した小島秀夫がすれ違っていたりして、当時のトップゲームクリエイターを間近に見た格好ですが取材陣はほとんどいなかった記憶。今ならゲーム系やエンタメ系メディアがずらりと並ぶ文化庁メディア芸術祭も、当時はどこかイロモノだったのでしょう。


 そんな会場にいた一団の着ていた『lain』が描かれたパーカーが気になって仕方がなく、特に「エア・ジョーダン」を履いた長髪のお兄さんの顔に見覚えがあって、やっぱりなるほどと納得しました。せっかくだからとパーティー会場へと移動が始まったところを追いかけて、お兄さんに「小中千昭さんですよね」と挨拶し、やっぱり小熊の入った名刺を頂戴しました。


 会場には中村隆太郎監督とか、絵を描いた安倍吉俊も来られていたようでしたがこちらは早々に退散。早く亡くなられた中村監督とはお話しておいた方が良かったかもと、今になって悔やまれます。ただ、お顔を見る機会は早々にやって来ました。翌日です。ロフトプラスワンで『lain』に関した大トークショーが開かれたのです。


 水民玉蘭が仕切ったイベントは、中村隆太郎監督に脚本の小中千昭、プロデューサーの上田耕行、ディレクターの中原順志、作画監督の岸田隆宏、イラストの安倍吉俊ほか大勢の関係者が入れ替わりたちかわり舞台に上がってトークを繰り広げるという、『lain』のファンにはたまらない内容でした。


 ちなみに中村監督は写真に撮られるのが嫌いで、文化庁のパンフレットにも顔出しをしなかったとか。2日にわたって姿を見られたのはその意味で幸運でした。10周年で確かイベントがあった時は、体調を崩されていたか出席がありませんでした。そして死去。20周年の時にまたお会いしたかったと残念でなりません。


 翌日もロフトプラスワンに来ました。やはりアニメのイベントで、寡黙な中村龍太郎監督とは正反対に、着ているジャケットは色がピンクでシャツは青でネクタイは黄色で髪はアフロで髭モジャモジャという、ど派手なアニメーション監督が登壇しました。ナベシンことワタナベシンイチ監督です。


 ホストの眠田直といっしょに登場したナベシンは、以前にもあったイベントと同じくらいのハイテンションで場を盛り上げました。ソニー・マガジンズの雑誌「きみとぼく」に連載されている『グラビテーションズ』アニメ化の話から始まり、誰か女性が作って来たらしい紙芝居を見せて「こういう作品なんだ」といった解説が始まりました。


 美形揃いの作品がいかにもナベシンっぽくないというてことで、イラストの上にアフロとヒゲを重ねて見せるギャグも挟んで場内は大受けでした。自分をモデルにしたアフロのキャラクターを出すことで有名なナベシン監督。『グラビテーションズ』にはと聞かれてそれはないようなことを話したのでしょうか。


 だったらと、もう1本やっている『ルパン三世 愛のダ・カーポ~FUJIKO’S Unlucky Days~』でルパンをアフロにしたらといったツッコミが入って「そんなことはしない」と答えたナベシン。でも、すぐに「敵キャラはアフロです」と言ってファンを喜ばせました。最近は監督作品がなくて残念です。


 イベントでは、『はれときどきぶた』が再放送されていることに関して、黄色いネズミがテレビでピカピカしまくったことによる影響があって、最初と最近の放映に大きな違いが出ていたことを教えてもらいました。分析ビデオによれば、オープニングでザザザザッと登場人物が切り替わる場面で数人が間引かれていました。本編はキャラをカメラが回り込む場面で動画が間引かれていて、動きがギクギクしていました。


 エンディングパカパカが完全に外されて、スタッフのテロップまで抜かれていました。監督に言わずにこれだけの改変を加えてしまう制作会社も制作会社ですが、再放送にまで手を加えなくてはいけないとなると、黄色いネズミの影響以前に作られた作品の中には、作りなおしが出来ずに2度と再放送されないまま、消えてしまうアニメも出ていたかもしれません。社会現象になるとリアクションも大きい。そんな教訓を得ました。

 

 市川昆に黒澤明に小林正樹に木下恵介の監督4人が作った「四騎の会」が、練りに練り上げ4人で撮ると言われながら、実現叶わずお蔵入りしたファンには幻の脚本が、黒澤監督の死に加ええ、木下監督も亡くなったこの時期、市川監督によって日の目を見ることになりました。『どら平太』です。その記者会見が東京會舘で開かれました。


 キャストは主役に役所広司で、脇に宇崎竜童、片岡鶴太郎、菅原文太、石橋蓮二、石倉三郎らがズラリ。先だって『鉄道員(ぽっぽや)で高倉健を目にしていましたから、菅原文太というもう1人の昭和の有名俳優も続けて目にしていた形です。


 当初、黒澤監督が亡くなった直後に「『どら平太』を撮るぞ」とブチ上げていたのは、奥山和由プロデューサーが率いるチーム・オクヤマでしたが、その姿も名前も影も消えていました。何かあったのか。それについては、が日活の会長でナムコを率いる中村雅哉が会見で、誰も聞かないうちから奥山和由プロデューサーは、戦場カメラマンの一ノ瀬泰造を主人公にした『地雷を踏んだらサヨウナラ』を作る準備が忙しく、『どら平太』から外れたとのことでした。


 何か別の“地雷”でも踏んでいたのか、なんて思ったりもしましたが、そちらの映画もしっかり撮られて公開されていますから、本当にかかりきりだったのでしょう。


 「ドリームキャスト」向け新作ソフトの『アンダーカバー A.D.2025 kei』の発表もありました。パルス・インタラクティブという会社が、『新宿鮫』の大沢在昌による演出や脚本を使い作ったアドベンチャーゲームです。主人公の名前は「鮫島ケイ」で、小説『新宿鮫』の鮫島と関係がある人物とのこと。こうなると、『新宿鮫』の鮫島が、同じ系譜に属する未来のお話の登場によって、「何年に何した」と書き込める人間として、歴史年表の上に固定されてしまったように思えて奇妙に感じたみたいです。だったらいっそ、パラレルワールドの女鮫島にしてしまえばとも思いました。


 この会見では、大沢オフィスから直木賞作家の宮部みゆき、泉鏡花賞受賞作家の京極夏彦が登場。大沢在昌から「2人は声で出演している」といった言葉が出て、社長の人が「それは言わないことになってたんじゃ」と慌てる一幕がありました。情報の解禁が細かく設定されている現在なら、事前に打ち合わせもあったかもしれませんが、当時はまだおおらかだったのでしょうか。

 

 幕張メッセで開催の「マックワールド・エキスポ/東京’99」にスティーブ・ジョブズが来ていたようです。会場で直接は見なかったのですが、聞くと日本では初という基調講演の席上で、プレイステーションEMUの話はしてもノート型「iMac」については話が出なかったそうです。そして、登壇したジョブスに「iCEO」との肩書きがついいたそうで、ギークな人らしいお茶目さを感じました。ここからアップルの復活劇が始まって、今に至ると想像できた人がどれだけいたでしょう。そしてこれからのアップルは。考えてみたいと思います。


平成11年(1999年)2月のダイジェスト・下編でした。

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