第43話、20年目のガンダムに新作が登場し、横浜にシド・ミードが現れ、東京キャラクターショーで桃天使のビジュアルに惚れ、村山聖九段が没する

【平成10年(1998年)8月の巻・上】


 ひとつの時代が生まれて、ひとつの時代が終わった月だったのかもしれません。それも10日ほどの間に。


 平成10年(1998年)8月1日、パシフィコ横浜で「ガンダム ビッグバン宣言」という名のイベントが開かれました。昭和57年(1982年)2月2日に新宿東口で開かれたという「アニメ新世紀宣言」が、まだアニメ好きを公然と語ることに引け目を覚えるような環境で挙行されたこと比べると、企業が主催しゴージャスな会場で開催された「ガンダム ビッグバン宣言」は、下からの改革とは言えないかもしれません。


 それでも、『機動戦士ガンダム』が復活する、それも富野由悠季監督の手によって復活すると告げられた時の感動は、熱狂的なトミノコでなくても目頭を抑えたくなるだけのものがありました。


 昭和54年(1979年)年に放送された『機動戦士ガンダム』から20年目に向けて動き出したプロジェクトの幕開けを告げる「ガンダムビッグバン宣言」は、初代のシーンを振り返る場面から始まりました。サイド7へのザクの侵入があり、アムロのガンダムへの搭乗があって、そしてガンダムが大地に立つシーンが投影され、以降は大気圏突入から地上での戦闘、ランバ・ラルとの邂逅とリュウ、マチルダ、ミハル、ララアとの死別へとつながり目頭を濡らします。


 一転して「赤い彗星」ことシャア・アズナブルが登場し、3倍のスピードでザクを操縦し、ガルマを陥れたりララアをキスしたりアムロと刺し合ったりキシリアを吹っ飛ばしたりする名場面を経て、ア・バオア・クーから脱出するアムロをホワイトベースから退避した仲間が迎えるラストシーンで上映が終了。そこからはタイトルを見せて主題歌を聞かせ、抗ガン剤を投与して生きるか死ぬかの境目にあった池田貴族を招いてのトークがあって、さらにフォウ・ムラサメ役の島津冴子による可愛い声を聞け、マスター・アジア東方不敗とドモン・カッシュの決めセリフを生で聞けるコーナーがありました。


 とはいえ、いずれも過去を振り返る企画であって、「ビッグバン宣言」いったいどこにあるのかと苛立ち始めた時、富野監督が登壇して次なるガンダムの構想を語り、スタッフを呼び込んで、ようやくこの日最大の衝撃を、というより歴史に残るかもしれない事件を壇上で繰り広げました。


 キャラクター・デザインにカプコンの安田朗を起用し、メカデザインにあのシド・ミードを起用するというアナウンスには、ゲームファンも『ブレードランナー』を始めとしたミードデザインのファンも仰天しました。とりわけシド・ミードの起用は、今に至るまでガンダム史上でもトップ級のサプライズとして掲げられています。


 驚くべきことイベントでは、シド・ミード自身が壇上に現れて、「ガンダム」にかける熱意を語りました。イベント会場でお目にかかった「アニメック」の小牧雅伸編集局長によると、何日か前にサンライズのある上井草の蕎麦屋でシド・ミードらしき人物を見掛け、けれどもまさかシド・ミードが銀座でも新宿でもない上井草で蕎麦屋から出てくるのか理解できず、きっと他人のそら似か目の迷いと思ったそうでした。


 結果は小牧編集局長の目が正しかった事になります。平成のトリを飾るべく、4月27日から開催の「シド・ミード展」を盛り上げようと4月12日に開かれたイベントでは、シド・ミード起用に関わった元サンライズの植田益朗やバンダイビジュアルの渡辺繁らから、シド・ミードは料亭の懐石よりも居酒屋を好むといった話が打ち明けられました。蕎麦屋もだから大いにあり得る話です。


 とはいえ、世界に冠たるインダストリアルデザイナーであるシド・ミード本人を前にして、写真も撮り握手までしてもらってもなお、信じられない気持ちで当時はいっぱいでした。起用の経緯などは後日、『MEED GUNDAM』などさまざまな書籍や雑誌などで語られ、「シド・ミード展」の公式サイト(https://sydmead.skyfall.me/)にもスペシャルコンテンツとして綴られているので、読んで驚きと感動の経緯に触れてください。


 「ガンダム ビッグバン宣言」では、実写とCGの合成による米国製ガンダム『G-Saver』が作られているという話が紹介されました。『AKIRA』の大友克洋が監督し自身がデザインしたガンダムが登場する『Mission to the Rise』の映像も流されました。


 この映像で岡部淳也さん率いるビルドアップ・エンターテインメントが制作したCGは、冒頭の筋肉質なザクが浮かび上がるシーンから質感重量感ともグリグリで、爆発シーンも含めて現在の日本でよくぞここまでやるといった迫力だったとウエブ日記で振り返られています。歴史に埋もれがちな映像ですが、3DCGアニメーションが全盛の今、20余年前でこれだけやられていたことを知ってもらいたいと思います。


 以前に発表会が開かれた話を紹介した、ニッポン放送が仕掛ける「東京キャラクターショー」が東京ビッグサイトで開かれました。角川書店の角川歴彦社長と、今も『この世界の片隅に』などをプロデュースしているジェンコの真木太郎プロデューサーらが出席してテープカットが行われました。


 オープンと同時に角川書店の物販ブースとデータイーストのブースとゲーマーズのブースにはすぐさま長蛇の列ができ、そのまま1日途絶えることがありませんでした。コナミの「こなみるく」も「ときメモ」関係のスタンプシートやテレホンカード、ピンズなどが売れていました。


 そうした中、ゲームソフトでアニメーションパートを京都アニメーションが手がけていた『dancingblade かってに桃天使』のグッズも本格的なお披露目が行われたようでした。1980年代のOVAのようとも指摘された、顔立ちや衣装設定、ボディラインのもろもろが先鋭とは正反対のオーソドックスさを持ったキャラクター。そこそこの売れ行きを見せていたようで、次週のワンダーフェスティバルで開かれる完成披露の模様と、ワンフェスで売るとゆー200体限定のガレージキットの売れ行きがどうなるかに刮目と、日記には記してあります。どうなったのかな?


 劇場版の『スレイヤーズ』と『機動戦艦ナデシコ』の前売り券がついたポスターなどを買って、角川のブースを歩いていた時に角川歴彦社長が歩いていたので、当時はまだ記者だと個体認識されていたこともあって、「劇ナデできたんですか」と話しかけて、「今晩完成試写をやるよ」と聞かされ、「ちょっと難しいんだけど面白いよ」と言われました。


 難しい、というのはなるほど見て分かりました。テンカワ・アキトがまさかあんなことに……。ともあれ当時のように、角川歴彦社長に顔を覚えていてもらえたら、この無職状態も天の声によってどうにかなっていたかもしれないと、妄想だけはしてしまいます。言っても詮ないので自力更生自力更生。とはいえ世間は厳しい……。


 ひとつ思ったのは、「キャラクター」というカテゴリーの全てを扱うイベントでありながら、出展している角川をのぞいてどこもゲームがベースのキャラで、物販コーナーに長蛇の列が出来るのも大半はゲーム関係のキャラクターグッズを買うためだった、といったことらしいです。これがゲーム屋さんが言うところの、総合芸術であるゲームがすべてのエンターテインメントの中心になっていることの現れなのかとも感じました。今はどうでしょう。グッズも人気の『Fate/Grand Order』はゲームですが、アニメの「Fate」シリーズも人気で、けれども元は「Fate」はゲームだったと考えるなら、垣根はなくなっているのかもしれません。


 「ワンダーフェスティバル」にも顔を出しました。小さなフィギュアが入場券代わりになっていたようです。ここでは、あの『フォトン』からフォトン・アースとキーネ・アクア、アウン・フレイア、ポ・チーニの4人がガレージキットとして並んでいました。足下にはコロちゃんまで付いてお値段は1万2000円。売っていたのは「すたじおガッシュ」で、これは買わねばと3人のセットを引き取り、ポチ3号(若しくは8号、12号、43号、87号のどれか)用にもう1体、ポ・チーニもを購入して主要メンバーが揃いました。


 とはいえ、購入しても作るスキルも時間もなく、ずっと積んであった『フォトン』のガレージキットは、映画『宇宙ショーへようこそ』の公開時、舛成孝二監督にインタビューする機会があったので、持っていって無理矢理置いてきてしまいました。どこかに仕舞われているのか、余計と処分されてしまったのかは分かりませんが、手元にあっても倉庫でほこりに埋もれていただけですから、生みの親にお目にかけられてそれはそれで良かったと思っています。


 そんな8月上旬の終盤に、将棋の村山聖九段(死後に昇段)が亡くなったとの報が飛び込んで来ました。日記には「哀しい、というより寧ろ悔しい。『怪童丸』として名を馳せ、ヴェテランの棋士をして『終盤は村山に聞け』とまで言わしめた将棋界の俊英・村山聖(さとし)8段が8日に死去していたという。享年29歳はかの天才・羽生善治4冠王より1歳上で佐藤康光竜王、屋敷伸之棋聖らとも同世代で、括って10年ほど前に『恐るべき10代』『チャイルドブランド』と呼ばれた一群に、当然の事ながら村山8段もその筆頭クラスで顔を並べる」とその実力を惜しみっつ紹介しています。


 「実力たるやかの羽生4冠王を相手に6勝8敗うち1つは今年4月の入院後の大局であったために不戦敗と、およそ5分の成績を残しており、幼くして腎臓を悪くして以来、病気がちで体力的に厳しい中での羽生相手の差し訳は、まさに羽生以上の天才、という称号すら相応しいかもしれない」。そんな村山九段でしたが、病魔には勝てずに死去。後に大崎善生が『聖の青春』という評伝に生涯を書き、松山ケンイチ主演で映画にもなったので、どういた棋士だったかは広く知られています。神童とは彼は羽生善治九段のためにあるような言葉でした。


 だからでしょうか、小説界の「神童」として、先に「新潮」8月号に掲載された「日蝕」でデビューした平野啓一郎を「三島由紀夫の再来ともいうべき神童」として持ち上げようとしている風潮に、違和感も感じていたようです。内容に比して騒ぎすぎだとも思いましたが、2作目の『一月物語』が良い出来で見直してから以降、今に至るまで活動を続けていることをもって、神童かは別にして立派なクリエイターであったと思うようになりました。評判だけでは20余年は生きられない世界で立ち続けている。もう遅いかもしれませんが、見習いたいと思います。


やはり長くなりますので上下に分けます。


平成10年(1998年)8月のダイジェスト・上編でした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る