第19話、ウテナの「絶対運命黙示録」にだんだん馴れSFクズ論争が続き京都で「情網寺」を取材する

【平成9年(1997年)4月の巻】


 『少女革命ウテナ』といえば、『さらざんまい』が平成31年(2019年)4月カラスタートする幾原邦彦監督が手がけた伝説のアニメーションとして、今に語り継がれています。平成9年(1997年)の4月2日に始まった放送を、購入済みとなっていたビデオテープレコーダーに録画して見た時、奥井雅美が歌うオープニングの格好良さにしびれ、本編には「予想どーりにタカラヅカも吃驚の展開で、薔薇の花をバックに超絶美少女と超絶美少年(長髪)が会話し、闘い、愛し合う光景に、次第にクラクラと目眩がしてくる」といった感想を持ったようです。


 当時は、寺山修司や月蝕歌劇団、J.A.シーザーのこともあまり知らず、「主人公のウテナが螺旋階段を登っていくシーンでバックに流れていた『黙示録がどーした』とかゆー歌のキモチわるさも超絶的」といった印象を抱きましたが、これがだんだんと変わっていくから人間の感性は不思議です。あるいは変えさせる幾原邦彦監督の演出力であり映像美の凄さがそこにあったのかもしれません。


 数週間で「絵は相変わらず動かなかったけど、今回はその分シナリオで魅せる内容となっていて、畳み掛けるような繰り返しのお約束ギャグに、喉から吹き上がる笑いをこらえながら、画面を食い入るように見つめていた」ようです。そして「馴れたのか改善されたのか絵がぜんぜん気にならなくなり、薔薇がくるくるまわるギミックにも、違和感を感じるどころか好感さえ持つようになっている自分に気が付いた」みたいです。


 「苦手だった決闘シーンで登場する『絶対運命黙示録』の歌も、あの場面に相応しいと感じるようになってしまったから、そのハマリ度はなかなかの粘度。もはや抜けられない所まで来てしまったよーだ」。それから20余年も抜けられない状態が続くとは幾原邦彦監督、恐るべき演出家です。『さらざんまい』でも20年に及ぶ熱中を生み出すことでしょう。


 この頃はまだ、東京ゲームショウが春と秋の2回開かれていて、4月4日に東京ビッグサイトで開幕した回に足を運んだようです。「もちろんコンパニオンのお姉さんたちが目当てである」というのは半分冗談で大半真実ですが、そうした美女巡りの目を吹き飛ばすかのように、飯野賢治率いるWARPが開場早々から関係者以外のブースへの立ち入りを禁止して、柵で囲って茣蓙(ござ)を敷いて、樽酒の鏡割りと酒盛りと花見を始めていたのに驚きました。


 「舞台の上では和服姿の飯野賢治さんが『パーマン』をカラオケして大はしゃぎ、床では茣蓙の上に浴衣姿のお姉ちゃんやバンダナをまいた兄ちゃんたちが、升酒をかっくらいながら飯野さんに拍手喝采を送っていた」そうですから、目立つことに関しては大成功でした。ブースには入れず、WARPが何を展示していたか分からずじまいで、それで良いのかと訝りましたが、「ワープの展示物は、唄う飯野賢治さん自身だったのかもしれない。自らを宣伝媒体と変えて来場者にアピールする」といった可能性もあったと言えます。


 WARPの場合は、実際にトップのパーソナリティが1番のPRポイントだという側面もあったので、本人は目立ちたくなくても率先して頑張っていたのかもしれません。そうした心痛が重なっての晩年だったとしたらもったいない話です。もっと創造に力を入れて欲しかった。そんな気がします。


 「SFクズ論争」が続いています。「SFマガジン」誌上で論争の第2弾が繰り出され、森下一仁や高野史緒といったところが意見を寄せていたようです。SFとしての価値付けと、文学作品としての価値付けで起こりそうなズレについてどう考えるか、といったあたりが論争の的になっていたようで、「SF度を測るモノサシを持って読んだ上で、『たいしたことのないSF』と評するSF業界側よりも、文学的モノサシで測ることなく『くだらないSF』と決めつけて鼻も引っかけない主流文学の方が、よほど罪が深いと思う」とウェブ日記に書いてあります。


 どういった文脈から出た考えなのかは、論争に直接触れてみないと分かりませんが、SF側はSFかどうかという基準を持ってジャッジしていたのに対して、主流文学側はSFをカテゴライズして眺めていると感じていたのかもしれません。「たとえ文学のレッテルが貼ってあっても、SF業界の側でSFのモノサシで測らせて頂くだけのことで、文学の側ではそんな異次元のモノサシなんか気にしないで、文学のモノサシで測って評価して下さい」とも書いてあります。


 互いに牽制し合っていたような、そんな時代から見て今は、SF的な発想やSFから出て来た作家たちが、文学賞の一線で大活躍している、という話は前にも書きました。クズ論争のその後の検証、どう変化してこうなったかはやはり必要な気がします。


 帝国ホテルで大々的に発表された「週刊アスキー」の見本ができ上がって来たようです。表紙が広末涼子で、そのセレクト時代は旬を捕まえたものだったのですが、アスキーの元役員が脱藩して設立した会社、アクセラから出た新雑誌の「週刊TV gamer」といっしょだったということで、妙な因縁を感じたようです。中身の方はオタキングこと岡田斗司夫がコラムを寄せていて、ほかにウォルフレンに古川亨に飯野賢治に村崎百郎に森村泰昌あたりを紹介。硬軟剛柔オモテウラを取り混ぜたアセンブルに渡邊テイストを感じたようです。これは見本誌。本番はどうだったのでしょう。家を探せば全部出てくるはずなのですが……。


 セットトップボックスという言葉も、すっかり死語化しつつあるようで、テレビの上なり下なりに置かれて、テレビからネットにアクセスできるようにした機器ですが、テレビ局に遠慮してテレビ受像器がネットにつながらないようにしていた時代が終わり、テレビからNetflixやAmazon Primeが見られるようになった時代に、存在は消え去った感じです。そんなセットトップボックスの「ウェブTV」を扱うウェブTVコミュニケーションのスティーブ・パールマン社長が来日して、何か話したようです。


 「通信料の関係で、なかなかインターネット自体が普及せず、結果コンテンツも充実していない日本では、まだまだ先が見えないが、有線テレビの感覚で、さまざまなデータをインタラクティブに仕入れることができるウェブTVの存在価値は、いずれきっと認められていくことだろー」とウェブ日記には書きました。


 現実は、ADSLによるブロードバンドが一気に普及し、携帯端末からのアクセスが中心になる中、ウェブTVの端末ではなくあらゆる場所からネットにアクセスできるようになる状況が生まれ、セットトップボックスは過去に遺物になっていきます。とはいえ、こうした食い込みがテレビへのネットの浸透を生み出したのだとしたら、ステップとして必要なものだったと言えるでしょう。変化は一夜では生まれないものなのです。


 この月は、京都に行って中西印刷をのぞいたようです。SF界隈、小松左京界隈では知られた会社ですが、この時はSFでもミステリでもなく活字の電子化という話を聞きました。ついでに京都では、臨済宗妙心寺派塔頭「大雄院」に立ち寄りました。インターネットの中に情報を供養する寺院「情網寺」を建立したいうことで、その目的を聞いたものです。


 言ってバーチャル寺院で、VRMLで記述された空間の中を進んでいく、といったものだったように記憶しています。宗教的なものがネットと結びついた時、カルト的なものが生まれる可能性もありましたが、ここは「大雄院」がバックにあって格式を保ちつつ、バーチャルな「情網寺」に興味を示した人がリアルな「大雄院」、ひいては仏教へと興味を持つ窓口になっていくと考えました。


 今となってはリアルもバーチャルも等価で、どちらが危険で安全かを意識することなどできません。「情網寺」も消滅してしまったようで、そこで供養された情報はどこに行ってしまったのかが少し気になるところですが、こうした試みもまた、ネットのフラット化に貢献していたのでしょう。「情網寺」そのものを供養してあげたい気持です。


 「週刊SPA!」が『新世紀エヴァンゲリオン』特集をしていて、東浩紀という名を見かけたようです。当時は「ユリイカ」あたりからアニメの評を活発にやり始めた人だと認識していましたが、この後に哲学社会学サブカル時評SF執筆等々で活躍し、時代の寵児になっていくと予想していたでしょうか。ただ興味は持っていて、2000年から始まった「TINAMIX」というウェブマガジンで一緒することになった時は、なかなか嬉しく思いました。大晦日に見かけた東浩紀は格好良かった。それは断言します。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』をどう見るのかが今は気になります。語るかな?


平成9年(1997年)4月のダイジェストでした。

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