第16話、SFクズ論争が始まりエヴァの上映が分割されドリーム・ピクチュアズ・スタジオが設立され

【平成9年(1997年)2月の巻・下】


 日本のSF界にとってこの月は、ある意味で歴史に刻まれるべき出来事が起こった月だと言えます。「SFクズ論争」が勃発したのです。


 SFと帯につければ売れなくなるといった話が飛び交い、SFプロパーからの出版があまりなく、ヒット作も出ていない状態をSF氷河期ととらえて発せられたさまざまな言説に対し、SFマガジンの編集長だった(今もですが)塩澤快浩が反論し、SF作家らも入って論戦が繰り広げられました。後に刊行された巽孝之による編著『日本SF論争史』でも触れられているようで、概要はそこで掴めます。


 発端は、本の雑誌社から出ている「本の雑誌」の平成9年(1997年)3月号に掲載された特集「この10年のSFはみんなクズだ!」でした。高橋良平と鏡明の対談が掲載されていましたが、当時、読んだ印象では「具体的な作品名をあげて、だからこのSFはクズで、だからこのSFはクズじゃないんだとゆーことをしておらず、見出しの迫力の割には、全体に真面目とゆーか淡々とした対談になってしまっている」といったもので、ここから半年近く盛り上がるものになるとは思いませんでした。


 直前の2月9日に日本経済新聞が文化面で「国内SF氷河期の様相」という特集を行い話題になっていましたから、さぞや論争の火種になるような言葉が並んでいるのかと思い、いつかのSFマガジン匿名座談会のように、激しい喧嘩が起こるような事態も想像していましたから、特集を読んでちょっとだけ肩すかしを食らった気持でいました。


 一方で、「大論争をする意味がないほどに、SFというジャンルがメディアや文壇や知識人たちから軽く見られてしまっているのかもしれず、あえて問題を提起した『本の雑誌』の英断と、その問題提起を報道してくれた日経には、SFファンとして深く感謝する」と書いています。どこかにSFをSFとして盛り上げることに、諦めを抱いていたのかもしれません。そこに波風を立ててくれたことに喜びつつ、SFの中でだけ盛り上がっても意味がないとも思っていたようです。


 「SF関係者一同集めて、護国寺桂昌殿とか青山葬儀場とかで『SFのお葬式』でも開いて、夜通しどんちゃん騒ぎでもしたら、おもしろがって取りあげるメディアが出るかもしれないよ」とは酷い言い様ですが、それだけもっと世間がSFに目を向けて欲しいと感じていたのでしょう。


 「欲を言えば、かつてSFを支えた星新一、小松左京、筒井康隆の御三家や平井和正、半村良、眉村卓、光瀬龍らが現状についてどう思っていて、これからどうしたいのかを伝えて欲しかった」。一般にも広く知られたSF作家たちが日本のSFについて積極的に触れてくれていたら、こういう事態も起こらなかったかもしれないという愚痴です。そしてこの頃、星新一はまだ存命だったことに気づきました。亡くなるのはこの年の12月30日。SF御三家の下で繰り広げられたSFクズ論争を、だからこそ御三家がどう感じていたかが知りたいです。今、ご存命は筒井康隆おひとり。恐れ多くて聞けません。


 さて、「SFクズ論争」は「SFマガジン4月号」の後書きに、塩澤快浩編集長の日経記事に対する反論が掲載され、その次の号でさらに詳しく書かれたとのことでした。何号か続く緊急フォーラムがそれに当たるのでしょう。そこに書かれた問題意識は今、どれだけ解消されているのでしょうか。


 小松左京賞に応募していたこともある円城塔が芥川龍之介賞を受賞し、創元SF短編賞山田正紀賞の「盤上の夜」で注目され、『あとは野となれ大和撫子』で星雲賞を受賞する宮内悠介は三島由起夫賞を受賞し、SFクズ論争の頃は休止されていて、冬の時代の原因のように言われたSFコンテストを早川書房が復活させ、そこから出て来た小川哲が『ゲームの王国』で山本周五郎賞を受賞と、ここのところ“SF作家”が大活躍しています。日本SF作家クラブの会長も務めた藤井太洋は、『ハロー・ワールド』で吉川英治文学新人賞を受賞しました。


 つまりは夏真っ盛り。そうなった背景に「SFクズ論争」があり、読み手たちの危機意識があり、逆の意味での作家たちによる自信もあって、それぞれがSFを突き詰めていった結果の隆盛なのだとしたら、平成9年(1997年)2月に勃発したこの事態は、やはり歴史を変えたとも言えます。どうしてこうなったのか。『日本SF論争史』の“その後”を読んで見たい気がします。


 この頃、テレビで『新世紀エヴァンゲリオン』の再放送が始まって、ようやく本格的にエヴァというアニメを映像として見るようになりました。英語で喋らないシンジやミサト感動というのも順序が逆ですが、フロリダで買ってきた英語版を先に見ていたから仕方がありません。そんなエヴァを見て、さあ劇場版だとなっていたところに飛び込んで来たのが、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の上映に関する話題でした。本来は50分の予定だった新作の「リバース」部分が、春の公開では30分弱しか公開されないことになったという、アレです。


 会見には出ませんでしたが、「イメージが膨らんで、尺が会わなくなった」と言っていたそうです。日記には「クリエーターが最良の作品を目指して頑張るのは良いことだし、無理して辻褄をあわせた中途半端な作品なんか見たくない。その意味で夏の映画には大いに期待する。だが、お金を払って見せるのが、総集編プラス夏の映画の予告編と決まった以上、それを挙行する東映や角川書店といった製作者側は、何らかのペナルティを負うべき」と厳しいことを書いています。


 今にして思えば、憤りつつおこうした段階を踏んだ公開について、ある種のイベントとして楽しんでいたようです。エヴァなら、庵野秀明監督ならなにがあっても不思議はない。そんな覚悟をさせられたからこそ新劇場版の完成が滞ろうと、途中であっさりと完璧な『シン・ゴジラ』を出してきて驚かせようと気になりません。『シン・ウルトラマン』? 大歓迎です。とりあえず『シン・エヴァンゲリオン新劇場版』の完成を公開を祈っています。大丈夫ですよね?


 東京會舘でナムコとポリゴン・ピクチュアズとソニー・コンピュータエンタテインメントの3社が共同で「ドリーム・ピクチュアズ・スタジオ」を設立する、という記者発表にも行きました。平成11年(1999年)の秋だか冬だかを目標に、とりあえずフルCGの映画を1本制作するという計画で、会見では河原敏文が、ILMにもピクサーにも負けない作品を撮るんだと意気盛んなところを見せていて、今後作るフルCG映画にも実に6000万ドル、日本円で60億とか70億とかの大金をかけると話していました。


 これも結末はプロジェクトの中断に終わりましたが、ここで集まった人材や培われた技術が、苦境を乗り越えたポリゴン・ピクチュアズの今に繋がり、世界に冠たるCGアニメーションのスタジオにしたのだとしたら、ある意味で歴史を目撃したとも言えます。そこで興味を抱き夢を持って飛び込んでいったら今は……と考えてしまうのも毎度のことですが、当時は記事として伝えることが大事と思っていたのです。伝えるメディアがこうなって、そこに居られなくなってしまうとは……。人生はいろいろです。


平成9年(1997年)2月のダイジェスト・下編でした。

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