第15話、渡邊直樹編集長の「週刊アスキー」が発表され水野震治編集長の「週刊TV Gamer」が創刊されアイドルのデビュー支援CD-ROMが発売され

【平成9年(1997年)2月の巻・上】


 「週刊アスキー」と言われて思い出すのはどんな雑誌でしょうか。PCの情報が満載で、サブカルチックなコラムも満載だった福岡俊弘編集長による「週刊アスキー」だよと言う人が、圧倒的に多そうな気がしますが、実は「週刊アスキー」は創刊の時、一般週刊誌として登場しました。


 平成9年(1997年)2月5日に帝国ホテルでその「週刊アスキー」の創刊発表記者会見が開かれました。この年の5月で創立20周年を迎えるコンピューター関連出版大手のアスキーが、いよいよ一般週刊誌の分野に打って出るということで、西和彦社長が出席して大々的に行われました。編集長を務めることになったのは、「ドリブ」「SPA!」「PANjA」といった雑誌の編集長を歴任した渡邊直樹。ポップなセンスを持った雑誌作りが出来そうな人だけに期待も膨らみました。


 時事通信が刊行した週刊誌が10号を待たずに潰れ、当時はまだ週刊誌だった「テーミス」も苦戦した様子で、紙のメディアへの苦境がそろそろと出始めている時代でした。とはいえ渡邊編集長には人脈があり、アスキーには持つデジタル分野に関する知識とノウハウがあるのだから、融合させれば新しいものが生まれるのでは、といった可能性も取り沙汰されました。


 キャッチフレーズは「デジタル時代のメタ・ジャーナリズム・ウィークリー」。左開きの縦書きページと右開きの横書きページを1つの雑誌に共存させ体裁が驚きを誘いました。インターネットも連携して、デジタルとアナログが混在する今の世の中をナナメに斬っていく。そんな雑誌になると想像しましたが結果はご存じのとおり、5月26日に創刊されて9月29日発売号ともって休刊と短命に終わりました。


 縦書き横書きの両面表紙が冒険的過ぎたといった声もありますが、毎週刊行される週刊誌が必要とする資金と、売れなかった場合の赤字の大きさにアスキーが耐えられなかったといった声もあります。深層はいかに。渡邊編集長に改めて聞いてみたいところです。今は何をされているのでしょう。何かお仕事くれないかなあ。


 「週刊アスキー」はその後、間髪を入れず11月20日に「EYE-CON」を週刊誌する形で“復活”します。その際にしばらくの間、コラムを執筆していたような記憶があります。何を書いていたんだろう。まるで覚えていません。この新生「週刊アスキー」は、ここから紙の雑誌として18年、「EYE-CON」時代から1000号を越える雑誌になるのですから、出版の世界は面白い。そう言えます。


 一方で、アスキーを抜けた人たちが立ち上げたアクセラから、こちらも待望のゲーム情報誌が登場しようとしていました。「週刊TV Gamer」です。当時、水野震治編集長にインタビューしていたようで、ガリバーの「週刊ファミ通」を追撃する体制も十分な内容かと思ってお目にかかったら、開口一番「めちゃくちゃな雑誌でしょ」と言われていました。どんな中身だったのでしょう?


 ウェブ日記にはこうあります。「見本誌を見ると、『ファミ通』どころか既存のあらゆるゲーム情報誌とはまったく違った雑誌になっていて驚いた。特集こそゲームを取り上げた内容となっているが、冒頭には広末涼子ちゃんのグラビアがデイーン、中程には沢渡朔さんの美少女グラビアがバイーン、巻末にはNIKEをはじめとするスニーカーの特集がガイーンってな具合に、まるで『BOON』とか『COOL』のような若者向けグッズ情報誌が、その号に限ってゲームを大特集したよーな作りになっていた」。


 おまけにテレビ番組表まで載るとあって、水野編集長自身が話す「めちゃくちゃ」という言葉がズバリ特徴をとらえていました。ゲームもファッションもアイドルもテレビ番組もフラットに楽しむ世代の雑誌、だったのかもしれません。それは今、ゲームが日常になってしまっている状況にこそ相応しいのかもしれませんが、当時はやはり早すぎました。こちらも年末に休刊。平成9年(1997年)は週刊誌にいろいろと動きがありました。


 有楽町の東京都庁跡地に開館して間もなかった東京国際フォーラムに行ったようです。翌年の2月7日に迫った長野オリンピック冬季競技大会の開会式の概要発表が開かれたのですが、今もそうであるように構造が複雑で、どこから入ってどこから上ったらいいのかさんざん迷った挙げ句に、這々の体で発表会場にたどり着いたようです。


 長野五輪の開会式はとても有名です。力士の土俵入りがあり、フィギュアスケートの伊藤みどりが登場して天女ともアマテラスともとれそうな衣装で聖火台に火を灯したシーンが、今もよく振り返られます。実はそうした開会式の展開が、早くもこの日に発表されていたのです。


 「善光寺の鐘が鳴ってそれに世界の5大陸の鐘が呼応して鳴る。次に毎年何人か死者を出す雄壮な祭、諏訪の『御柱建て』を開会式でも再現して、東西南北に2本づつ柱を建てて門を作り、そこから相撲取りがぞろぞろと入場してくることになる。お約束の横綱の土俵入り、地元の子供演じる『雪ん子』の踊りと続いて、いよいよ入場行進と聖火入場・点火だ。モハメド・アリで話題を呼んだアトランタ大会みたく、有名人をランナーに起用する可能性は高いけど、流石にそこはまだ教えてくれなかった」。その有名人が伊藤みどりでした。


 「締めくくりは世界のオザワこと小澤征爾指揮による『第9合唱 歓喜の歌』の大コーラス。衛星を中継して世界5大陸にいる合唱団が日本の合唱隊と揃って歌う壮大なもので、電波を送受信するタイムラグを吸収する仕組みを、これからNHKが必死になって作るんだとか」。そう書いてある当時の日記には、「オリンピックで裸のでぶちんを見せられるってのも、その方面に趣味のない人には相当な苦痛かもしれない。どうせ日本の伝統を世界に見せつけよーとするなら、古事記にのっとってアメノウズメの踊りでも再現すれば良かったのにねー」と酷いことも書かれています。


 実際の開会式を見ていた時は、寒さをものともせず土俵入りを行う力士の静謐さ、力強さに感じ入った記憶があります。この開会式をそれほど嫌いではないのも、こうして事前に情報を聞いて、それが意外な方へと展開したことで印象が上書きされたからなのかもしれません。情報を隠しに隠していきなり出して驚かせるのも考えものだと言えそうです。


 IT関係では、フォーカスシステムズという割と真面目なことをやっていた会社に行って、アイドル育成プロジェクトと銘打たれた「デビュタント」のことを取材していたようです。東芝EMIとサン・ミュージックが、若手アイドル予備群の情報をCD-ROMとCD-EXTRAに収録して見てもらい、そこからインターネットにアクセスして好きな娘に投票してもらうという仕組みの企画で、人気の高い娘からデビューすることができるようになっていました。


 どんなアイドルが入っていたか、そしてデビューできたのかを調べたら、安田美香、香沙里奈、佐藤千世子、藤谷ひとみ、小林友美、船越水咲といった名前が挙がっていました。うーん。その意味ではプロジェクトとしては今ひとつだったのかもしれませんが、モーニング娘。が登場して、厳しい条件の中をファンの支えでデビューしていくプロセスが喜ばれ、AKB48が登場して、ファンの押しや投票の結果で人気者になっていく展開が楽しまれているのを見ると、時代を先取りしていた企画だったと言えそうです。


 この月も長くなりそうなので上下に分割します。


平成9年(1997年)3月のダイジェスト・上編でした。

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