第11話、ナベプロを取材し池澤春菜を見て筒井康隆の講演を聴きアクセラの誕生を眺めた日々

【平成8年(1996年)11月の巻・下】


 改めて触れておきます。この当時に所属していたのは日本工業新聞という産業専門紙です。日刊工業新聞というものが全国的に刊行されていて、日本経済新聞が出している日経産業新聞というものもあって、そうした新聞と並んで産業3紙と呼ばれていました。


 産業経済新聞社の子会社か刊行していた日本工業新聞は、21世紀初頭にいろいろあってフジサンケイビジネスアイとなり、そうなってからもいろいろとあって今にいたり、そしてわたしの最近のあれやこれやにも関わってくるのですが、平成8年(1996年)当時はまだ産業3紙として鉄鋼・自動車といった産業からエレクトロニクス、電力、金融といった産業まで広くカバーし存在感を見せていました。


 そうしたメジャーでメインストリームとも言える分野とは違う領域、エンターテインメントという分野で起こっている出来事を、産業的ビジネス的に紹介していきたいと考え、同時にITでありインターネットでありマルチメディアといったこれからの産業についても紹介していくことが、将来の媒体としての価値向上に繋がるといった思いで記事を書いてきました。


 現在、コンテンツ立国であるとかクールジャパンといったお題目の下、エンターテインメントをビジネス的に捉える媒体も現れ、記事も読まれているようですが当時はあまりにマイナー過ぎたか世に目立てず、存在を示せないまま20余年が立ってしまいました。半歩先なら先見性を尊ばれても、30歩先だとフシギなヤツだと内外に思われてそれっきり。結果はご覧のアリサマです。でもまあ、好きでやっていたのだから仕方がないのかもしれません。


 さて、平成8年(1996年)11月の続きです。『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版に関する話が長くなってしまいましたが、この月は芸能と呼ばれる分野にもいろいろと足を運んでいたようでした。例えば渡辺プロダクション。長く日本の芸能界をリードしてきた芸能事務所ですが、そこの創業者の渡辺晋と渡辺美佐の間に生まれ、当時は渡辺プロダクション副社長を勤めていた渡辺ミキが、社長となって手がけたワタナベ・デジタルメディア・コミュニケーションズへと出かけていきました。


 ナベプロのマルチメディア戦略を一手に担う戦略子会社という位置づけで、出版社のインプレスといっしょになって、インターネットで音楽やアニメ番組を放送する事業を始めると発表したことを受け、話しを聞きにいったようです。表参道の交差点近くにあったオフィスでお目にかかった渡辺ミキさんは、明るいお姉さんといった感じの人で、話す言葉もわかりやすくて丁寧で、これまで1度もお目にかかったことのないわたしにも、親切にいろいろと教えてくれました。それから20余年、ワタナベエンターテインメント社長であり渡辺プロダクション会長として芸能界、お笑い界を引っ張る重鎮に。一期一会は良い思い出です。


 その日は、続いてまだ四谷にあった文化放送にも出向いたようです。開局45周年を記念して、ボトムアップというソフト会社といっしょになってラジオ番組を制作し、聴取率を競うという内容のシミュレーションゲームを作る発表会が行われたのです。会場には出演する声優として小森まなみ、丹下桜、池澤春奈が座っていて、いずれもその見目麗しさから「これだけの容姿を持った人たちが、どーして顔の出ない声優さんなんかやってるんだろーと、まずは不思議に思った」と感じました。


 そして、挨拶の段になって、発せられた声質に「きゃぴきゃぴ、きゃんきゃんとした声は、まさしくしっかり声優さんだった」と考えを改めたようです。もちろん、そうした声優らしさに溢れた声も出せるということで、演技の広さに今さらながら感心しています。ちなみにゲームは『ドキドキ ON AIR』というタイトルで、1998年に発売されました。「3人の声優さんがパーソナリティーを務める架空のラジオ番組をプロデュースして、成功すれば番組続行が決まるとゆーハッピーなエンディング、聴取率が悪いと最短期間(13週間)で打ち切りになってしまうアンハッピーなエンディングを迎えることになる」という内容に、ちょっとやってみたい気が浮かんで来ました。探せば見つかるのかな?


 ゲームでは、モデルが所属することで知られるオスカープロモーションとNECインターチャネルが手を組んで作った大作ソフト『オベリスク』の発表会も、この月に開かれたようです。発表会には藤谷美紀が出席していたとウェブ日記には書いてあります。ゲームにしてもネットにしても、コア層なりマニア層のものから一般化して、ツールでありメディアとして日常的になってきたことで、テレビやレコードといった場所から芸能の人たちが入ってきてくれるようになった。そんな時代だったのかもしれません。


 11月19日には、高輪プリンスホテルで筒井康隆の講演を聴いたようです。演目は「執筆の新領域」。インターネットで執筆活動を始めるに至った経緯として、まずは断筆宣言に至った経緯を話しました。そこでは、断筆の原因を自らの自主規制体質に求めることをせず、筒井に抗議して後に和解したてんかん協会に求めたがるマスコミの態度に、重ねて怒りを表明していたようでした。


 後半には、ワープロを経てパソコンを使うようになった経緯が話されたようです。そこでは、言葉がだんだんと消えていく「残像に口紅を」という作品を書いた際に、一語一語消えていく言葉に合わせて、キーボードに画鋲を張り付けたという話はファンの考えたデマで、実は赤丸を付けていっただけだったということが話されました。調べると、今でも画鋲説というな流布されています。本当はどうだったのでしょう。いつかご本人に聞いてみたいものです。


 出版業界では、いろいろと騒動が持ち上がったアスキーを抜け、アクセラという会社が立ち上がったことがウェブ日記に記録されています。ファミ通の編集長も務めたことがある小島文隆という人が、幾人かのメンバーを引き連れ独立し、スクウェア創業に関わった宮本雅史のバックアップなども受け設立した会社で、渋谷駅から道玄坂を越えた青葉台にある瀟洒な建物にオフィスに行ったことを覚えています。


 社員も役員から契約やアルバイトも含めて100人くらいいたそうで、発展への相当な期待があったようです。ただ、ゲーム誌は他誌の分厚い壁になかなか割って入れず、競馬雑誌「クリゲ」も創刊しましたが、期待していた『ダービースタリオン』を持ってこれなかったこともあってか、次第に規模を縮小してそして今、アクセラは存在していません。


 西和彦が創業者としていろいろと動かし、またPC系の雑誌「アスキー」を旗艦としているアスキーから、ゲーム関連部門が独立した形となったアクセラの動きは、図らずもアスキーの経営が厳しくなる中、エンターブレインという会社が立ち上がることで実現しました。今はKADOKAWAの一部門にはなっていますが、レーベル的なものとして存在は保っています。


 一方のアスキーは、電撃文庫などを刊行していたメディアワークスと合併をし、そして同様にKADOKAWAの中に吸収されて今に至ります。中にいた人たちには激動の20余年だったのかもしれません。そして当方は今まさに激流のただ中へ。だからどうだという訳ではありませんが、宮本雅史のような大金持ちも、KADOKAWAのようなビッグカンパニーも手を差し伸べてくれないところに、一介のウェブ日記者の小ささを感じます。


 平成8年(1996年)11月のダイジェスト、下編でした。

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