第8話、産経の「電子新聞」が始まりミュージック・ジェイピーのルーツが登場し矢野徹のリレー小説が登場して今

【平成8年(1996年)9月の巻】


 「電子新聞」を覚えているでしょうか。


 え、「電子新聞」ってネットでスマートフォンとかPCとかに新聞各社が提供しているニュースサイトのことでしょ? そう言われて今なら不思議はありませんが、時代は平成8年(1996年)9月のこと。ニュースをネットで配信したら紙の新聞の売り上げが落ちるといったカニバリを気にして、たいていの新聞社が二の足を踏んでいた時代です。


 そこに産経新聞社が出してきたのが「電子新聞」でした。これ、サービスの名前でそしてデバイスの名前です。専用の端末を家に置いておくと、衛星の電波の隙間を使って朝には新聞と同じニュースが送り込まれるというもので、それを持って電車に乗れば、あとは新聞を広げなくてもニュースを読むことができました。


 何て画期的なサービスだ! と思われたかというとそこは専用端末故の壁があったのか今ひとつ訴求せず、記憶では他のPDAに対象を広げたものの、やはり伸び悩んで結局は長続きしませんでした。新聞だけでは情報が薄いと考えたのか、フロッピーディスク(!)に入った30万字程度の電子文庫本を、「電子新聞」のターミナルを経由して端末に読み込ませておき、読めるようにするサービスも始めたようでした。


 こちらは、富士通のベンチャーとして誕生し、今も続いている「電子書店パピレス」から、売れている作品をピックアップしてそのデータを移植した作品で、夏目漱石とか宮沢賢治とかいった定番のほかに、小松左京、眉村卓、矢野徹、川又千秋とかいったSFが結構揃っていたいようです。SF者として心惹かれたかというと……。スマートフォンとか携帯電話だったら良かったのにと今さらながらに思います。そこに時代や思惑もズレがあったのでしょう。


 同じ月、データベース系の展示会では読売新聞社、朝日新聞社、日本経済新聞社が出展をしていて、そこで日経が次年度に商用化を目指して、インターネット新聞の提案を行ってたいようでした。日経本紙に加えて日経産業新聞、日経金融新聞、日経流通新聞といった4紙と、日経BP社の雑誌記事をDB化できるものだったようです。


 ウェブ日記には、「結局のところネットワークサービスは情報量が命ってことで、量あるところに客は集まり、客あるところに広告も集まり、広告の集まるところに情報もまた集まるとゆー上向きのスパイラル効果に乗って、相当なところまでいきそーな気がする」と書きました。今、新聞業界で日経が最も電子新聞を成功させているのを見ると、それなりに炯眼だったと自賛したくなります。そうした波に乗れないところも相変わらずですが。泣きません。


 この月は、音楽配信でも動きがあったようです。エム・シー・エスという会社が中心になって、NTTとかインプレスとか第一興商とかフジパシフィック音楽出版とかが参加して、「ミュージック・シーオー・ジェーピー」という会社が設立されました。今のミュージック・ジェイピーの元となったサービスです。会見にはホリプロや渡辺プロダクションが参加したりして、相当に気合いが入っていたようです。


 感想はといえば、ウェブ日記には「現状では回線の太さとか音の品質とかいった問題があって大変だと思うけど、将来は放送メディアなんかに互して台頭してくる可能性はある。CDが売れなくなっちゃうとかいった、パッケージメディアとの競合を心配する向きもあるけれど、人間って所有欲ってゆーか独占欲ってゆーか、とにかく手元に置いて愛でたがる性向があるから、パッケージってなかなかなくならないよーな気がする。ただ世代が変われば性向も変わるから、20年後、30年後にどーなってるかは正直言って解らない」と書いてあります。


 今の音楽配信市場の隆盛を見ると、半分外しつつ保険はかけてあったといったところでしょうか。一方で、握手券だとかライブ応募券の“おまけ”として、あるいはキャラクターグッズとしてパッケージは売れています。それらがなくてもCDを作品として購入する音楽ファンは日本には大勢います。物理メディアを手元に置いておくことで、配信の仕組み方針が変わっても音楽を聞き続けられるといった“利点”も改めてささやかれるようになりました。未来予測は難しい。そんな感想です。


 「電子書店パピレス」では、新しいリレー小説のプロジェクトが始まったようでした。プロの作家が最初を書いて、あとを一般の人が続けていくというもので、白羽の矢が立ったのがSF作家の矢野徹でした。その名も『FS(フライト・シミュレーション)』という小説の登場人物とか設定とかに合致してさえいれば、何を書いてもいいいてことになっていたそうです。


 その後、ウォッチはしていませんでしたが、今、パピレスのサイトを見たら何と電子書籍として売られているではありませんか。矢野徹と他の作家による合作として何冊か。そこに参加している嬉野泉監修によって電撃文庫から紙の書籍も刊行されたそうで、試みとしてひとまず成功だったと言えそうです。一方で、ベネッセから出ていた文芸誌の『海燕』は休刊に。電子と入れ替わっていった時代だったのかもしれません。


 電子出版では、東芝EMIで発表会があって、『きまぐれオレンジロード』で有名なまつもと泉がプロデュースしたデジタルコミックマガジン『COMIC ON Vol.2』が紹介されました。執筆していた平井和正の出席も予定されていたようですが、体調を崩して欠席に。お目にかかっていたら、亡くなるまでにご尊顔を排せた最後の機会になっていたでしょう。残念です。


 ただ、この『Vol.2』から参加することになった『BOOM TOWN』の内田美奈子は出席していて、お目にかかって「チリチリとパーマのかかった長いヘアーにフチの太いメガネをかけたお顔は、『BOOM TOWN』のあとがき漫画に登場する自画キャラそっくり」という感想を抱きました。もしかしたら、この後もSF関係の会合ですれ違っていたかもしれませんが、記憶にある体面はこれ1度きり。20余年が経った今もネット上で華麗な人物像を発表されている内田に頭が下がります。


 読書では、講談社ノベルズからの清涼院流水の『コズミック 世紀末探偵神話』を読み、太田忠司の『摩天楼の悪夢 新宿少年探偵団』を読み、森博嗣の『笑わない数学者』も読んでとミステリばかりだったようです。ゴーストライターの仕事について書かれた、半自伝的な作品と言えそうな中原一浩『幽霊作家は慶應ボーイ』も読んでいました。学生時代の無茶苦茶さとか、それに輪をかけてのハチャメチャぶりだった「週刊プレイボーイ」時代のことが、巧みな筆致で書かれていた本だったようです。自衛隊朝霞駐屯地での自衛官刺殺事件に絡んで、「朝日ジャーナル」の記者をしていた川本三郎とともに逮捕された「週刊プレイボーイ」の編集者だったことも書かれてありました。川本の『マイ・バック・ページ』程に知られていないのは何故でしょう。気になります。


 有楽町マリオン朝日ホールで開かれた「パスカル文学フェスティバル」に行ったという記述もあります。「パスカル短篇文学新人賞」の公開選考会があって、筒井康隆、小林恭二、堀晃、薄井ゆうじ、佐藤亜紀が選考委員になって、最終候補になった14編を次々と褒めちぎっては切って捨てていったようです。最後の最後に選考委員が推した3作品のなかから、岡本賢一の「父の背中」が大賞に輝きました。朝日ソノラマからSF作品を刊行していたプロの作家が応募するほどに、「パスカル短篇文学新人賞」は強い力を持っていたのでしょうか。何しろ第1回の受賞者が、直前に芥川賞を受賞した川上弘美でしたから。面白い文学賞でした。


 平成8年(1996年)9月のダイジェストでした。

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