第3話、庵野秀明監督がエヴァ最終話を自ら語ったり月刊KITANが休刊したり

【1996年(平成8年)4月の巻】


 実は日本SF作家クラブの会員です。特に著書もなく、SFと言えば「SFマガジン」で2001年ごろからライトノベルのSFやファンタジーを紹介するコーナーを担当している程度で、あとは「SFが読みたい!」の年間総括を書いているくらいでしょうか。それでも、満遍なく読んでいるからという理由で推挙をいただき、一般社団法人化された日本SF作家クラブに入れていただきました。そんな自分が、SFという分野で活動をする人たちの姿を直接見たのが、この平成8年(1996年)4月28日に水道橋の全逓会館で開かれたSFセミナーの会場でした。


 「SFマガジン」は中学生のころから本屋で立ち読みをしていましたし、高校生になってからはずっと買っていましたから、そこで紹介されるSFセミナーのことも知っていました。日本SF大会の存在もDAICON3に行ったという友人が高校にいたこともあって、いつか自分でも行けたらとは思っていましたが、なかなか参加する機会を得ないままこの年まで来てしまいました。それがどうして行くことになったかといえば、もちろん「エヴァ」でした。『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督が登壇することになったのです。これは見ておかなくてはと予約して駆けつけました。


 そうした人が多かったのでしょう。会場の賑わいは、SFセミナーになれたSF者にとっても衝撃だったようです。この年は、庵野監督らとともにGAINAXを立ち上げた岡田斗司夫が登壇して、SF乱学者の大宮信光と対談する企画も行われました。その際に、会場を埋め尽くす聴衆を見て「エヴァだな」と言ったことを記憶してします。ただし大宮との対談は「想像力という名のシヴァ」というテーマで、「オウム事件」に関する話題になることが決まっていたため、エヴァについての話題は出ませんでした。そこはしっかりとわきまえていたようでした。


 そしてやって来た4時限目の「『新世紀エヴァンゲリオン』の世界」には、観客も耳をそばだてて聞き入っていたのではないでしょうか。登壇したのは庵野監督のほかに、今では“アニメ様”という名前が定着したアニメ誌編集者の小黒祐一郎、そして説明無用の大森望で、もっぱら大森のリードで庵野監督が答えていくパターンで進んだようです。ウェブ日記にはこうあります。


引用始まり。


 ハタで見ていると「腫れ物」に触るようなトークの進め方に、隔靴掻痒の気分を味わっていた聴衆も多かっただろー。だが、開始30分を過ぎたあたりから問題の第弐拾五話、第弐拾六話へと話が及び、時間と人材があまりにも不足していたこと、精神的に追いつめられていたこと、そのなかで可能な限りの表現をしようと模索したことが、ラジオも活字も通さない生身の監督の口から語られると、「ようし解った。次はガンバレ」とゆー気持ちになってくるから不思議な(いー加減な)ものだ。


引用終わり。


 自殺しようとすら思ったことも、確かこの場で語られたのではないかと思います。後に編集家の竹熊健太郎が『スキゾ・エヴァンゲリオン』『パラノ・エヴァンゲリオン』という2冊の本で庵野秀明に迫り、当時の心境などを紹介していましたが、放送が終わって1カ月という時点で監督本人から“真意”が語られたことは、とても貴重な体験でした。今のようにネットメディアが発達していたら、その言動も即座にアップされ拡散されて、ポジティブ・ネガティブの両面からさまざまな意見がついてもみくちゃにされていたかもしれません。庵野監督のダメージも強まったか逆に弱まったか。いずれにしてもここでいったんぶちまけたことが、劇場版へと歩を進めさせる決意につながったのかもしれません。そう考えると、とても貴重な現場に居合わせた嬉しさを感じます。現場第一。読み返して改めて感じると同時に、これからも引きこもっていないで可能な限り何かを見ようと思います。


 この月は、読売新聞社から出ていた「月刊KITAN」という雑誌が休刊となったことを話題にしています。そんな雑誌があったことを覚えている人の方が少ないかもしれないけれど、小説誌などと同じA5サイズで「本の雑誌」ほどの厚さの中に記事がありコラムがあって対談がありました。創刊号は平成7年(1995年)10月号で「いま!プロデューサー」というタイトルで小室哲哉や酒井政利らを取りあげていました。そんな雑誌をなぜ買っていたかというと、SF作家の大原まり子が対談をしていたからです。


 わずか8号で休刊が決まった時、せっかくだからと目次を拾って「KITAN’S BOX」というページを作って自分のサイトに載せました。そこには「SFクロストーク」というタイトルで、大原まり子が誰と対談をしていたかという記載もあります。こんな感じです。


SFボーダーレス・トーク  大原まり子

 95年10月号 大原まり子×小谷真理×巽孝之

 95年11月号 大原まり子×今岡清×岬兄悟

 95年12月号 大原まり子×山藍紫姫子×阿久津典子

 96年1月号  大原まり子×三枝和子×神川亜矢

 96年2月号  大原まり子×宮崎友好×鹿野司

 96年3月号  大原まり子×松浦理英子


 SFですねえ。SFのファンで大原まり子お好きが見れば一目瞭然と言えそうなラインナップですが、そうでないとどうしてこの人たちなの? といった思いも抱くかもしれませんし、そもそもどうして大原まり子なのか? と考えるでしょう。そこは今も不思議です。もしかしたら、今は編集委員としてポップカルチャーの記事を多く書いている石田汗太記者が担当する形で、読売新聞が本紙で行っていたマルチメディア読書というコーナーで、大原まり子と何か関わりを持ったことがあったのかもしれません。自身のサイトを早くに立ち上げた人でしたから、大原まり子は。


 そんな「月刊KITAN」がニフティサーブとYOMINETに専用のコーナーを設けて、書き込みを募集していこともあって、8号中4号もわたしの投稿が載っているそうです。休刊までの3号は立て続けに載っていたそうですから、持っている方は探してみて下さい。そんな人が存在したら、ですが。ちなみに我が家の狭い部屋のどこかに、筑摩書房から刊行されていた、これもA5サイズの「頓智」という雑誌とともに積んであるはずです。いつか探し出して思い出に浸りたいものです。


 IT関係ですが、小学館に行って電子ブック版の「日本大百科全書」が売れている話しを聞いたという記録があります。相手はたぶん鈴木雄介でしょう。小学館のインターメディア部というところで電子出版を引っ張り、独立してイーブックイニシアティブジャパンを立ち上げ電子出版の土壌を日本に作った人です。そういう人に取材しておきながら、いつまでも紙メディアの牙城に居座り続けた挙げ句に放り出されるという苦渋を味わうとは。読み返すほどに機を見て乗り換える才の無さに呆れます。こればかりは一生治らないでしょう。


 マンガのCD-ROM化についても記述があって、「マンガロム」が今ひとつだという話、そして扶桑社がCD-ROMコミック「DiGi4」を発売するといった話に触れられています。「Digi4」は簡単なインタラクティブ性、ゲーム性を持っていて、マルチメディアに近い雰囲気のものだったようです。「既成の紙のメディアを拡張していくアプローチと、何でもありのマルチメディアをブレークダウンするアプローチのどちらが受け入れられやすいのか。答えは簡単に出せないけど、CD-ROMというメディアの可能性を探る意味からも、興味はつきない」と当時は書きました。結果は……Kindleにしてもマンガサイトにしても、マンガはマンガとして続いている感じでしょうか。「新聞だけがデジタル化の波に置いていかれる可能性も、決して小さくないのだが…」。これは当たってしまったなあ。


 あと、慶応大学の当時は助教授だった村井純が会見をして「インターネット1996ワールドエクスポジション」というネット上の万博めいたものを開催するという発表を行った記述もあります。後に「インターネット博覧会」ことインパクが日本で開かれますが、その前駆的なイベントであり、また参加した企業のパビリオンが当時のインターネット技術、ウェブサイト構築技術を駆使して新しい試みをやろうとしたものでした。大日本印刷はオノ・ヨーコのインタラクションをネットで展開して言葉を集めていました。どこかに記録は残っていないのでしょうか。


 あと、4月25日から26日にかけて「伊勢戦国時代村」を見に行ったようです。今は伊勢安土桃山城下街からともいきの国伊勢忍者キングダムへと名前を変えた時代テーマパークには、安土城が再現されて天守閣の黄金の間も作られてと、それはそれは豪華なものでした。『映画刀剣乱舞』に登場している安土城がまさしくそれです。ウエスタン村のように廃れるものもあれば、運営会社や名前が変わっても20年近くを経てなお健在なものもあってと、テーマパークも明暗いろいろとあるようです。その存在を改めて見つめ直すことで、何が時代を超え得るかを探れるかもしれません。


平成8年(1996年)4月のダイジェストでした。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます