第1話、ウェブ日記を立ち上げエヴァを見てマルチメディアに触れた平成8年2月

【平成8年(1996年)2月の巻】


 「マルチメディア」って言葉、覚えているでしょうか。CD-ROMタイトルと言い換えていいかもしれません。パソコンに入れて再生すると画像が出たり映像が出たりして、鑑賞したり遊んだりできるソフトウェアのことです。それってプレイステーションのゲームことじゃないって、今なら言われてしまいそうですが、平成に入って何年か過ぎた平成7年(1995年)からしばらくの間、マルチメディアという言葉とともにCD-ROMタイトルが、映画だとかテレビといったエンターテインメントの次に来る新しい表現媒体だといった期待が持たれていたのでした。


 その結果は今、マルチメディアという言葉も使われていなければ、マルチメディアグランプリという賞もなくなってしまって“死語”になっています。時間があればそんなマルチメディアの一時代を掘り返してみたい気もしますが、今は平成8年(1996年)2月に開かれたマックワールドエキスポ/トーキョーというアップルコンピュータ(今のアップルですね)のハードやソフトが並ぶ展示会に、そんなマルチメディアの会社がずらりと並んでいたという記録をウェブ日記から掘り返して、そういう時代があったことを指摘しておきたいと思います。


 ウェブ日記には、マックワールドの一画にデジタローグやシナジー幾何学、ボイジャー、オラシオン、インフォシティ、F2といった会社がブースを固めて出展していて、「パブリッシャーズフロント」というチーム名でマルチメディアタイトルを広めようとしていたという記載があります。デジタローグというのは女性の裸体を淡々と撮り続けた写真家、五味彬の「Yellows」という写真集が紙では出せなくなって、それならとグラフィックデザイナーの江並直美が立ち上げ、CD-ROMで出版した会社です。そういう“自由”な出版の波を、デジタルが担うんだという意識があったのでしょう。これもまた懐かしい思い出です。


 そんな記載だけではなく、平成8年(1996年)2月は実は今のこの状況につながる出来事がいろいろ起こっていました。2月13日の朝に放送されていた「やじうまワイド」が小説家、司馬遼太郎の訃報を伝えていました。2月15日には、勤めていた産業専門紙の社長が急逝したという記述もあります。産業専門紙の親会社にあたる全国紙で文化部長まで務めた司馬遼太郎は、独特の史観でそれほど注目を集めてはいなかった歴史上の人物たちに脚光を浴びせて表舞台に引っ張り出し、今につながる人気者にしました。


 そうした筆を讃えるのは良いのですが、讃えすぎた挙げ句に他の国々をネガティブな視点で見てしまうような風潮が、この10年ばかり強まっています。司馬遼太郎存命ならば何を言ったか。その意味で訃報はある種の転機だったのかもしれません。産業専門紙の社長の訃報も、後を継ぐ新社長が行ったさまざまな施策がもたらした結果を考えた時、今の自分の境遇にもつながる大きな転機だったと言えますが、それはまた後に語ることになるでしょう。


 アニメでは、『新世紀エヴァンゲリオン』の放送がいよいよ佳境に入っていたようです。もっとも、当時はまだ部屋にビデオがなく録画して見ることはかなわず、ネット上で流れる情報からどういった展開になっているかを、その喧噪とともに想像するより他ありませんでした。仕方なくフィルムブックを買って最初の頃のエピソードを追いかけ、そういう話しだったのかと驚きこれは見たいと熱を高めていた感じ。今はもうないヤマギワのソフトショップでマルチメディアタイトルの「コレクターズ・ディスク・VOL1」を買ったようですが、メモリーが足りず開かなかったと日記にあります。後、1MBのメモリを買ってマッキントッシュのLC575に指したのですが、単位がGBではなくMBというところに時代を感じます。


 そのマッキントッシュLC575でホームページを作ったのが2月12日のことでした。日記を書き書評のページを作ってアートの鑑賞記録も載せました。凝っていた荒木経惟のページを作ったのはももうちょっと後だったでしょうか。1日がかりでテキストエディタに他のサイトのソースをコピーし、手直ししながらタグを打って作ったHTMLファイルを作り、アップしていったという記憶。実は、今の日記の更新でもそうした作業が変わらずに続けられているのです。我ながら辛抱強いというか、成長が止まっているというか。早くにblogに移行していれば、アルファなんとかとして注目を集めたかもしれませんが、手打ちの面倒さを美しさと勘違いした結果が、ネットの辺境で追い続けるだけというこの身。決断が必要だったと今さらながらに思います。


 ほか、幾つかトピックを拾うと、「WIRED」という雑誌が刊行され始めていて、4月号は表紙がロッカーの格好をした村井純だったようです。後に寺沢武一の版権を扱うエイガアル・ライツへと移行するエイガアルや、コンサルティングを意識してウェブサイト構築を行う企業として発展していくキノトロープといった、ウェブなりマルチメディアの草創期に名を馳せた会社の人とも関係していました。


 ハイパークラフトという社名の記述もあります。CD-ROMタイトルをいち早く売っていたショップで、そこで出会った人たちがウェブサイト構築の会社を作りそこからいろいろな人が巣立っていって、今のIT業界が出来上がった、なんてこともあったようです。その波のどこかに乗っていれば億万長者になれたかというと、今となっては良く分かりません。勿体ないけれどもそれも人生。参考にはなりませんが、とりあえず決断はするべき時にしておきましょうと改めて言っておきます。


 平成8年(1996年)2月のダイジェストでした。

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