猫の額ほどの陽だまり

石上あさ

第1話

 昼下がりの空。春の柔らかな光が縁側を優しくあたためている。

 孫が生まれたときに植えた桜の木も、今では見事な枝ぶりとなって縁側から見える風景に美しい彩りを添えてくれている。

 その縁側と隣接した部屋の布団で、ひとりのおじいさんが青い顔をして横になっている。

 そしてその枕元には、おじいさんの顔をのぞきこむおばあさんの姿があった。

「あなた、具合はどうですか」

「うう……ちょっと動けんほどしんどいわい」

 青息吐息で、汗をたらすおじいさん。

「そんなに辛いなら病院でも行ったらいいんじゃありませんか」

「……今日は行かん」

「なにか用事がおありなんですか?」

「用事は、別にはいっとらんが」

 バツが悪そうにおじいさんがそっぽを向くと、おばあさんが呆れたように、でもすっかり習慣となって染みついた様子でため息をつく。

「はあ。またワガママを言って……」

「だ、大丈夫じゃよ。このくらい、すこし休めばじきよくなる。人間には自然治癒力ちゅうものがあるんじゃ」

「それがミカンの食べ過ぎでお腹を壊した人の言うことですか」

 子どもを叱る母親のようにおばあさんが言う。おじいさんも、母親に叱られる子どものような口ぶりで、

「だって医者がビタミン取れって言うんじゃもん」

「そこだけ言うこと聞くんでしたら、お医者さんの言うこと全部きいてビタミン剤まで飲めばいいじゃありませんか」

「あんなもんでマシになるわけないわい」

「あんなものでマシになるから、お薬っていうんですよ」

 おじいさんの戯言を軽く受け流して、おばあさんがすっと立ち上がる。

 お茶でも淹れてくるつもりなのだろう。

 そして去り際に一言ちくりと残していく。

「まあ、でもそれだけ文句が言えるなら大丈夫そうですね。憎まれっ子世にはばかると言いますし」

 おじいさんも負けじと、

「そりゃあ悪いことを聞いた。ちゅうことは、どうやらこのばあさんもまだまだ先が長そうじゃの」

 腕枕して天井を見ながら、おじいさんも憎まれ口で返す。

 しかしおばあさんも負けていない。

「当たり前でしょう。定年退職してからは盆栽に話しかけるか、入る墓の値段をご近所に自慢するくらいしかしてない誰かさんと違ってわたくしはずっと家事、を――」

 突然、おばあさんが言葉を切って胸をおさえる。

 強気な顔から余裕が消えて、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す。

「ば、ばあさん――!?」

 それを見たおじいさん、自分の苦しみも忘れてたまらず布団から飛び起きる。

「う……」

「どうした、大丈夫か!!」

 おじいさんは駈けよって、うずくまるおばあさんの背中を骨張った手で労りぶかくさすってあげる。

 ――すると、おばあさんはすっと立ち上がって、あっけらかんとした様子で

「はい、別に」

 けろっと言ってのける。罠と知っておじいさん、盛大にずっこける。

「なんもあらへんのかい!なんじゃ、ばあさんいつのまに新喜劇にハマったんじゃ」

 ついおじいさんがツッコミをかます。おばあさんは平然と、

「あら、ご存じなかったんですか?わたくしこう見えても結構お笑いにはうるさいんですよ。たとえば――」

 そういうと、ふいにあたりをきょろきょろ見渡して、

「……あれ、わたくしたちなんの話してましたっけ」

「ばあさん、それ笑えんほうのボケじゃぞ」

 おじいさんは真顔で返す。おばあさんもいつものつんとした顔のまま、

「まあいいじゃありませんか。人生なにごとも楽しんだもの勝ちですよ」

 という。どうやらこれでもおばあさんなりに楽しんでいるということらしい。

 それから、布団から飛び出してきたおじいさんに向き直って、

「ところで、あなた、もう元気になったんですか?」

「ん?あ、そういえば」

 おじいさん、言われて我が身を顧みる。

 その、自分でも不思議そうな顔を見てまたおばあさんがため息をつく。

「ほんと単純な人ですねえ」

「あ、あは、あはははは」

 返す言葉がないおじいさん、とりあえず笑って誤魔化そうとしてみる。

 それから話題を転じて、

「じゃがばあさんや、お前の方こそ大丈夫なのか?ボケだけじゃなくて、身体のこととか」

 本心から出た心配だったが、これもおばあさんのからかいの種となった。

「なんですか急に殊勝なことおっしゃって。もうすぐ死ぬんですか?」

「まだ長生きするつもりじゃが……。じゃがの、お前さんの言うとおり、わし、今まで家のこと任せっきりにしとったじゃろ。お前さんに何かあったら生きていけるんじゃろうかと、ふと怖くなったんじゃ」

 先ほど、おばあさんが胸をおさえてうずくまったとき。おばあさんの苦しみは結局嘘だったけれど、おじいさんの胸に浮かんだ焦りと心配、そしておばあさんを失ってしまうかもしれない恐怖は本物だったのだ。

 が、おばあさんはそれを世話係がいなくなることと受け取ったらしく、

「ほら、結局自分の都合じゃないですか。ご心配いりませんよ。わたくし、あなたより先にくたばることもボケることもいたしません。しっかりしたなんでもできる女ですから」

「そうじゃのう、わしにはもったいないくらいのいい女じゃ」

 ツンとそっぽを向かれても、おじいさん、しみじみと真面目に返す。 

 それを見たおばあさんも、さすがに気がかりになったらしく、

「……もう、どうしたんですか、本当に。気味が悪いですよ」

 まじまじと見つめると、そこでおじいさんがにやりと笑った。

「じゃがの、一個だけ間違えとることがある。わしの方が物覚えはいい」

 そう言うと、箪笥のほうへ歩いて行って、何か取って戻ってくる。

「今日はわしらの六〇回目の結婚記念日じゃろ?」

 おじいさんの手に握られていたのは、おばあさんへのプレゼントだった。

「あなた……」

「さあ、受け取ってくれ」

 するとおばあさんは至極冷静に、

「今日は五九回目ですよ?」

「え、そ、そうじゃっけ」

 ドヤ顔の決めゼリフが突き崩されて、途端に狼狽えるおじいさん。

 おばあさんは、しかし、そのおじいさんの手から大切そうにプレゼントを受け取って、

「ですが、そうですね。お気持ちは嬉しいです」

 少しだけ照れくさそうに微笑むと、

「ただまあ、あなたはもうひとつ間違えていましたが」

 そう言って先ほどのおじいさんのようにニヤリと笑った。

 やがて台所へと去っていって戻ってきたときには細長く、大きな包みを手にしていた。

「わたくしだって全然ボケちゃいませんもの」

 おじいさんに負けないドヤ顔で、プレゼントをおじいさんに手渡す。

「ばあさん」

「さ、どうぞ」

「開けていいかの?」

「いいに決まってるでしょう。そのために差し上げるんです」

 そうして丁寧に包みをほどいて、お互いの贈り物を確かめあう。

 おじいさんが送ったのは、琥珀みたいにきらきらしてて、蜂蜜みたいに鮮やかに透き通った色をした可愛らしいべっこうの櫛。

 おばあさんが送ったのは、手にしっくりと馴染んでくれそうな、木の質感が味わい深い杖。

 二人ともそれをほくほくと嬉しそうに触ってみたり、撫でたりしてみる。

「ほう、これはいいのう。毎日の散歩が楽しくなるわい。どうじゃ、わしのプレゼントの方は?」

 無邪気に喜ぶおじいさんに聞かれ、おばあさんも年頃の娘に戻ったみたいにはにかみながら、

「これも、そ、そうですね。まあ悪くはないんじゃないですか?」

「じゃろう?わし、一週間前からあちこち散歩ついでに探しまわっとったんじゃよ。間違いなくお前さんに似合う」

 そう言って、自信満々ににこっと笑う。

 それは、好青年だったころのように、白くて並びのいい歯が光るわけえはない。

 けれど、その頃の面影もありながら、今のおじいさん、おばあさんと長年連れ添ったこのおじいさんにしかない可愛らしさ、そうして、そんな風に暮らしてきたおばあさんだからこそ見いだせる、このしょうもない人の素敵なところがにじみ出ているのであった。

 おばあさんは、だから、たぶん照れを隠そうとしたのだろう、

「――ただまあ、二三回目のときも櫛をいただきましたけど」

 と、そっぽを向きながら言った。

「そ、そうじゃったけ」

「まあ、いいです。ありがたく頂戴します」

「お前さん、よく覚えとるのう」

「当たり前ですよ。たとえボケたって忘れるわけありませんよ。わたくしを誰だとお思いなんです?」

 そうして、気恥ずかしそうにおじいさんから顔を背けたまま、

「五十九年連れ添った、あなたの妻ですよ?」

 その後ろ姿に、かつてプロポーズしたのとまったく変わらないものがあるのが、おじいさんの目にははっきりと見えた。

「ばあさん……」

 おじいさんは、そのおばあさんに手を触れようとして――


「――は」

 目覚めると、布団で仰向けになっていた。

 そしてなんだかお腹の具合もよろしくない。

(……なんだ、夢じゃったか)

 まあ、たしかにできすぎた話ではあったがのう、とおじいさんは苦笑いしながら、もう髪の少ない頭を掻く。

 だが、たとえあれが夢や幻であったとしても――

「なあ、ばあさん」

 おじいさんは、傍らのおばあさんに話しかける。

「なんですか」

 おばあさんは、別におじいさんの方を見るでもなく返事をする。

 そこへ、

「いつも、ありがとうな」

 夢の中と変わらない、素朴な真心をこめておじいさんは言葉を伝える。

「……なんですか、気味悪い。もうすぐ死ぬんですか?」

 おばあさんの反応も、やっぱり夢の中と変わらなかった。

「いやいや、わしはお前さんを置いてったりはせんよ。ただまあ、たまにはきちんと伝えなきゃいけんかのうと思っただけじゃ」

「そう、ですか」

「ああ」

 それだけ言っておじいさんが言葉を切る。おばあさんは、湯飲みの茶柱を眺めながら、

「まあ、わたくしのありがたみが分かるようになっただけ成長したんじゃないですか?」

 呆れたように、でもどこか嬉しそうに言う。

 まったくもってその通りだ。おじいさんとて、決して完璧な夫ではなかった。むしろ反対で、だらしなくて、バカで、よく調子に乗って、そのたびにおばあさんに迷惑をかけたり、助けられたりしながら、二人でなんとか子どもを育て、孫を見守りここまできたのだ。

「そうじゃのう。若い頃は苦労ばっかりかけてしまったからのう」

 この家に刻まれた無数の傷のように、互いに傷つけ合った過去だってある。けれど、この家のすべてがそうであるように、それらさえ過ぎ去れば愛おしく、間違いを許し合った雨上がりの後には、なにもかもがただただ、何物にも代えがたい懐かしい思い出へと変わるのだ。

「なあ、婆さんや」

 おじいさんは、立派に育った桜の木を見ながら呟く。

「なんです」

 おばあさんも、おじいさんではなく、桜の木を見ながら返事をする。

「これからも、ずっと、わしのそばにおってくれ」

 あの桜の木も、いつか枯れて、朽ちる日が来るのだろう。

 そのことに、花も人も変わらりはい。けれど大事なことはそこじゃないように思う。

 いつか終わる日が来てしまうのだとしても、それまでの時間を分かち合い、ともに歩むことができるということだ。たぶんすごく大切なことは、今自分の隣には、それをすることができる人がいるということを忘れないことだ……おじいさんには、なんとなくそんな気がするのだった。

「……ちゃんと聞きましたよ。もうそれ、なかったことにできませんからね」

 湯気の出るあたたかいお茶をすすりながら、おばあさんは自分の掌の中に、どうしようもなく温かいものを感じていた。それはたぶん、お茶のおかげだけじゃなかった。

「出て行けって言われたって、出て行ってあげまませんからね」

 そう言うと、また、ずずず、とお茶をすする。

 年金暮らしの質素な生活の、その中でも一等彼らが気に入っているのは、いつもは顔をつきあわせるだけで嫌になる生涯の伴侶と、ときどきこうして膝を並べて縁側の景色を眺めることだった。

「ああ。わしも、ちゃんと聞いたぞ」

 おばあさんの言葉をおじいさんもしっかりと焼き付ける。自分の耳に、心に。

 目の前では、風に乗って踊るように桜の花びらが舞う。

 まばたきをする間に、春はあっというまに去って行く。

 けれど、この一瞬。

 この一瞬だけは、この猫の額ほどの小さな庭に、なんてことないありふれたささやかな暮らしに、桜の花びらみたいに淡く美しい彩りが、ほんの少しだけ流れていた。

 どこか遠くで、ウグイスの鳴く声が聞こえたような気がした。

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