第9話

 学校から家まで、電車で三十分と徒歩二十分。あわせて五十分という時間の中で何を話せばいいんだろう。

 電車に揺られながら、小太郎こたろうは隣で中吊り広告を見上げる凛花りんかを横目で見ながら考える。その視線に気付いたのか、凛花は彼の方を向いて言う。


「ねえ、私は溝口みぞぐち君のことなんて呼んでいたの?」

「俺のこと?」

「うん。だって保育園からってことは小学校とかも一緒だったんだよね。小さい頃だったら名前とかニックネームで呼ぶことが多いから、きっと私もそうだったのかなって。……あ、でも溝口君は私のこと名字で呼んでるよね。じゃあこのままでもいいのか」


 凛花は独り言のように、自問自答をして納得してしまう。小太郎は何も言わなかった。記憶が戻る可能性は百パーセントではない。それならば、今のままでもいいと思ってしまったのだ。

 ――生きていれば、それでいい。

 自分が抱いた感情がこれほど皮肉で残酷なものだと自覚する。ああ、醜い。

 それから沈黙が続いていたが少しずつ話し始める。

 記憶を失う前の彼女が好きな食べ物、嫌いなもの。家族と、近所に住む自分とその家族のこと。進学した学校が偶然で、入学式の日に掲示板に貼り出されたクラス表を見て知ったこと。クラスではムードメーカーで、皆から慕われてたこと。

 彼が知っている全てを話したが、彼女が思い出すものはあまりなかった。


「……そうだ。コンビニ寄っていい?」


 最寄りの駅で電車を降りて徒歩で家に向かう途中、小太郎は今日の授業中にシャープペンシルの替芯が無くなっていたことを思い出すと、近くにあったコンビニを見て凛花に言う。もう少し商店街の奥へ行けば文房具の専門店があるが、喉も渇いていたこともあってコンビニで用を済ませることにした。

 店内に入るとひんやりとした空気が流れ込んできた。クーラーがここまで効いていると風邪を引いていしまいそうなくらいだ。小太郎はシャープペンシルの替芯を見つけると、凛花に声をかける。


、買ってくるけどなにか――」

「え?」


 しまった。――言った後で気付いた小太郎は固まってしまった。

 彼女が記憶を失ってからずっと『古賀』と名字で呼んできたにも関わらず、あの時と同じように二人で買い物をしている雰囲気に流されたのか、彼女のことを名前で呼んでしまったのだ。

 別にそれが悪いわけではない。他人から見れば。

 しかし小太郎にとって彼女は幼馴染で、大切な人物だ。高校に入って名前で呼び遭うのが照れ臭く感じた彼の、彼女に対する反抗的なものが今になって口が滑ってしまった。名前を呼ばれた彼女はキョトンとした表情で小太郎を見つめていたが、次第に頬を赤らめて嬉しそうに小太郎に問う。


「今、名前で呼んでくれた? 呼んでくれたよね? そっかぁ……私、名前で呼ばれていたんだね!」

「え、えっとこれは……」

「ねえ、もしかして私も名前で呼んでたりとかする? そうだったら私も名前で呼んでもいい?」

「ちょ、落ち着いて」

「小太郎君……いっそのことこーちゃんとか、太郎くんとか……あ、みっくんとかどう?」

「お前のネーミングセンスは記憶が無くなっても壊滅的か」

「そんなに酷い?」

「小学校の頃、お前ん家が飼ってたハムスターの名前が『こしあん』と『つぶあん』だったんだよ」


 丸まった時の格好が大福に見えたんだと。小太郎が小さく笑いながら教えると、凛花は頬を赤くして反論する。


「そ、それ本当? 溝口君のセンスじゃなくて?」

「なんで人様ん家のハムスターを俺が名付けるんだよ……丁度その時食べてたおやつが大福だったんだろ」

「わ、私のセンスって……」


 思っていた以上に自分のネーミングセンスが絶望的だったのか、凛花はその場で項垂れた。少し茶化しすぎたか、と小太郎が小さく溜め息をつくと、近くにあったアイスコーナーを指さした。


「アイス、食べる人ー?」

「アイス……?」

「そう。今なら俺の奢りだけど」

「食べます!」


 即答だった。沈んでいた凛花は顔を上げてすぐアイスコーナーに行くと、迷うことなくアイスを二本取って小太郎の前に差し出す。それはあの日、あの事故の日に凛花が食べていたバニラアイスだった。


「……一人で二本も食べるの?」

「え……あ! ご、ごめん! なんか、溝口君も食べそうな感じだったから……つい」

「いや、いいよ」


 バニラアイスを戻そうとする凛花の手から奪うと、小太郎はそのままレジへ向かった。会計を済ませてコンビニから出ると、商店街を抜けて近くの日陰のベンチに腰かける。レジ袋からバニラアイスを取り出すと、一本を凛花に渡した。


「いいの?」

「むしろ一本貰っていい?」

「だから違うって! あれは勝手に……っていうか、それでよかったの?」

「うん。俺、昔からこれしか食べてない」


 そう言いながらバニラアイスを取りだして一口かじる。夕方ともあって少し涼しいのか、アイスはまだ形を崩さず凍ったままだった。シャリっと音がすると、バニラの濃厚な香りとミルクの甘さが口の中に広がった。


「もしかして、私もこれしか食べてなかった?」

「そう……かもしれない。この間はラムネと迷っていたけど、結局バニラにしてた」


 そういえばあの日もアイス奢ったよな――と、事故に遭う数十分前を思い出す。

 あの日は確か、小太郎がミックスフルーツアイスバーという、彼的にハズレだったアイスを食べた後、凛花から一口貰ってバニラにすればよかったと小さな後悔をしていた。

 よくよく思い出してみれば、小さい頃から小太郎はバニラアイスしか食べなくて、凛花がそれを羨ましそうに見ていたような気がする。小学校に上がってからは二人とも同じアイスを食べるようになっていたような。あまり気にしていなかったことでもあり、記憶が曖昧だ。


「この間っていうのは、事故に遭う前のこと?」

「……ああ、うん。まあ」

「あ、大丈夫。思い出すために聞いているんじゃないから。ただ、少しだけ私には大切なことなんじゃないかって思って……よかったら教えてくれない? 溝口君が一緒にいてくれたんだよね?」

「……思い出したいの?」

「全部じゃなくてもいい。それだけは思い出したいの」


 凛花は小太郎の目を真っ直ぐ見据えて言う。何を根拠に、と口を開きかけるが小太郎は黙ってまたバニラアイスを一口かじった。

 彼の個人的な願いとしては、思い出してほしくないのだ。謎の少年の話が本当ならば、彼女には「秘密の悩み事」があった。それが原因で道路に飛び出したのなら、また苦しむことになってしまう。


「その重要なことって、どんなこと?」

「それがあやふやだから思い出したいんだけど……」

「なんとなくでいいから」

「うーん……す、すきな人……って感じ?」


 頬を赤らめながら言う彼女を見て、口に含んだアイスが喉に詰まりそうになる。

 ――聞きたくなかった。なんだこの言ってもないのに振られた気分は。

 心臓が急に重くなって息苦しい感覚に陥る小太郎の隣で、凛花は楽しそうに話を続けた。


「何となく、何となくなんだけど――小さい頃、誰かからアイスをもらって、嬉しくて持ったまま走って転んじゃったことがあるの。当然アイスは砂まみれで食べれる状態じゃなくなっちゃって、人目も気にせず大泣きしてた。そしたら男の子が私に泣き止めって言いながら、デコピンしてきたの! あ、痛くはなかったよ? 小さい頃の話だし、でも普通泣いてる子にデコピンなんてちょっとしたいじめだよね! ――まあ、そんな感じでビックリして泣き止んだら、食べかけのアイスをくれたの。『半分こしたアイスだっておいしいから溶けないうちに食べて』なんて、可愛いじゃない? 思えばあれがファースト間接キスだったのかなーなんて! ……って、大丈夫? なんでそっち向いてるの?」


 なんでもない、大丈夫。ちょっとアイスでむせただけ。――と、片言で答える。凛花がいない方向へ体ごと向けながら、小太郎は自覚ができるほど真っ赤に染まった頬を隠すように顔を手で覆った。

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