第8話

 ――くん

 ――…ぐちくん


溝口みぞぐち君、もう放課後だよ!」


 誰かが小太郎こたろうを呼ぶ。気がつけば景色は先程と打って変わって、普段彼がいる教室だに戻っていた。黒板の上に掛けられた時計は五時を指しており、教室には生徒が帰り支度をしたり部活の準備をしていた。

 先程の少年はどこにいったのだろう。いや、そもそもあれは夢だったんじゃないか。

 思考を駆け巡らす中、自分の席の前に心配そうに見つめる人物がいることに気付く。記憶を失った、古賀凛花こが りんかだ。


「大丈夫? 具合悪い?」

「……え?」

「本当に大丈夫? ホームルーム中、ずっと声をかけているのに気付かないから無視されているのかと思った」

「そうじゃないけど……俺、寝てた?」

「寝て……たのかな? ボーッとしてどこか見ていたよ?」

「……そう。無視していた訳じゃなくて、具合が悪いとかでもないから。ごめん」


 自分が寝ていた、という感覚はない。確かに少年と話している時、急に場面が変わったりあの時のことを思い出したりしたが、たった数分のことで起きたことにしては不思議な点が多い。


『彼女にはね、秘密があったんだ。それは幼馴染のキミにも両親にも話していない悩み事があった。』

『キミが直接聞いて。自ら命を断とうとした彼女が信じられないのなら、キミが本当の彼女を見つければいい。』


 少年の言葉が頭から離れない。

 もし本当のことならば、彼女は悩みを抱えていて、大切な人がいて――その人のために命を惜しまなかった。しかし今、目の前にいる彼女はそれを知らない可能性がある。問い詰めても無駄だと言うことは目に見えていた。


「古賀、なにか用事でもあったの?」

「あ、うん。今日、一緒に帰ってもいい?」

「え?」

「私の家、溝口君の隣なんでしょう? 方向が一緒なら、一緒に帰ってたのかなって思って」


 思いがけない提案に小太郎は困惑した。

 高校に入学した頃は時々一緒に帰ることもあったが、この状況で誘われるとは予想外だった。事故から約一ヶ月程経ったが、未だに彼女の母親は小太郎と一緒にいることをあまりよく思っておらず、家を出る時に会うと挨拶どころか、最近では会釈さえもなくなった。


「おばさんに何か言われるよ」

「何かって?」

「事故から一ヶ月経ったとはいえ、『貴女を突き飛ばしたかもしれない相手と一緒にいるなんて』って、怒られる」

「もう言われたよ。でも私が一緒に帰りたいって思ったから誘ったんだけど、ダメかな?」


 普段の凛花であれば強引に腕を掴んで引きずられていくところを、彼女は一歩引いて問いかけた。根本的に頑固な部分は変わっていないが、どうも調子が狂う。小太郎は面倒臭そうに頭を掻きながらも、机の横にかけたリュックに教科書やノートを詰め始めた。


「えっと、溝口君?」

「……帰る準備して」

「へ?」

「帰るよって、言ってんの」


 そう言って席を立って教室の出口ヘゆっくり向かう。待って、と凛花が鞄を持ってついてくるのを確認して教室を出ると廊下で話していた佐山さやま森田もりたが小太郎に気付いた。


「お、溝口! やっと起きたか!」

「……ああ、うん。寝てたわけじゃないんだけど」

「ボーッとしすぎだろー! もう帰るのか?」

「ああ。お先」


 軽く手を振りながら昇降口の方へ向かう。隣を歩く凛花との後ろ姿を見て、佐山と森田は不思議そうに呟いた。


「あの二人、なんかぎこちないよなあ。古賀が事故に遭う前から変わらないけど」

「そう言われて見ればそうだな。溝口は自分から話しかけにいくタイプじゃないだろうけど、古賀は誰にでも同じ対応してた割には、溝口に話しかける時はタイミング見計らってたし……」

「そうそう、ぎこちない感じ! 端から見てたら甘酸っぱいって感じがした!」

「意味がわからん。俺は、話しかけにくいのかと思ってた」


 え?


 彼らの会話が聞こえていた小太郎は耳を疑った。

 確かに小太郎は用がない限り自分から話しかけにいかないが、凛花は違う。自分から話しかけて色んな人と仲良くなる。躊躇いもない彼女が、なぜ幼馴染である自分に声をかけることに躊躇っていたのか。

 階段に差し掛かったところで隣を歩く凛花を見ると、真っ直ぐ前を向いて歩いているものの、何か考え事をしているようだった。


「どうかした?」

「な、なんでもない! ただ何の話をしようかなーって」

「思い出話?」

「そう! 私、ここでどんな生活してたのかとか……」

「いいけど、俺じゃなくて女子の方が知っているんじゃない? それよりちゃんと前を見て歩かないと、何もないところで――」


 ――転ぶよ。と小太郎が言いかけた途端、凛花は階段を踏み外した。

 残像を残して下の段にそのまま落ちていく最中、咄嗟に小太郎が手を出して彼女を抱える形で腕を掴んで自分の方へ引っ張った。よろけた凛花は小太郎に身体を預けて踏み留まる。

 たった階段一段分の落下で済んだことに、お互い胸を撫で下ろした。凛花にいたっては腰を抜かしてその場に座り込んでしまう。


「び……っくりしたあ……あ、ごめんね? 溝口君大丈夫?」

「――っバカか、自分の心配しろ! 怪我は!?」

「な、なんともないよ」

「マジでもう……ああ、クソッ!」

 

 言っている傍から、とブツブツ言いながら小太郎は彼女と同じ目線になるようにその場にしゃがむと、キョトンとしている彼女の額を軽く指で弾いた。


「頼むから、急に俺の前から消えるなよ」


 はあ、と大きく息を吐く。それは溜め息ではなく、安堵したからだ。

 一瞬でも目の前から彼女が消えたその光景は、あの日凛花が飛び出した時のことを思い出す。あんな思いはもうしたくない。それこそ、また彼女を失うのが怖い。

 ――自分が死ぬより、恐ろしい。

 小太郎に弾かれた額を擦りながら、凛花は申し訳なさそうに小さくごめん、と呟いた。


「……お前ら、二人の世界に入るのはいいけど流石に廊下は危ないぞ」

「っ!? お前ら、いつからいたの?」

「ずっと居たわボケ! さっきまた明日なって言ったし俺!」


 階段に座り込んでいると、上から森田の呆れた声が聞こえてきた。辺りを見ると他の生徒や教師も空気を読んでいるのか、見て見ぬふりをしている。

 二人はすぐ立ち上がり、赤くなった顔を隠すように下を向きながら昇降口へ向かった。

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