ショウキバライ
桐央琴巳
ショウキバライ
暑い……。
夏が来ると、毎年、毎年、毎年、毎年、去年の夏はこんなに暑かったかって気持ちになる。
今年の夏は、特別、暑い。暑いというより、熱い、かもしれない。とにかくアツイ。アツイ。アツイ。焼けるような夏。うだるような夏。もだえるような――夏。
ピンポーン。
インターホンの音で目が覚めた。
昼寝をする前に、アラームをセットしておいたスマホから、電子音がうるさく鳴っている。それに混じって母さんの、普段より高くなった声が聞こえる。
――いらっしゃい、みなもちゃん、ごめんね。部活の練習でバテたって、
電話に出る時みたいな、余所行きの声にうんざりする。俺に家を行き来するような関係の女の子ができるなんて、幼稚園以来ってはしゃぎすぎなんだ。
けど、もうそんな時間なのか。みなもが来てしまったなら、ダルいけど起きなきゃいけないな。高校生にもなって、クラスの女子に母親から叩き起こされる図を見られるとか、想像だけでも恥ずかしくて死ねる。
畳の上にもぞもぞと起き出してあくびをしていると、背後にそうっとやってきた人物に、首筋にピタッと何かを当てられた。
「冷たっ!」
「暑気払い」
飛びあがって振り向いた俺に、ポニーテールの髪を揺らし、はじけるような笑顔を広げて、みなもは青い袋に入ったソーダ味の棒アイスを差し出した。
今年の五月、兄貴が結婚した。
人生初めての結婚式への参列だ。男子高校生の礼服はこれでいいって、俺は親に言われるがままに制服で出席。
チャペルで挙式が始まる前に、親族顔合わせっていうのがあって、式場の人に連れられてぞろぞろと移動した先で、
「あっ、伊藤君だ!」
と水色のワンピースを着た、くりっとした瞳の可愛い子に声を上げられた。
それが、虹川みなもだ。
みなもは理香さん――
それから俺とみなもは、休み時間に話したり、グループ活動を一緒にしたり、部活終わりに声を掛け合ったりするような仲になった。
クラスの友達や、互いの部活仲間からからかわれると、みなもは、
「あたしとけーくん、親戚になったんだよー」
と言って、天真爛漫に笑った。
何で俺の呼び名がけーくんになっているかって? それは。
「理香ちゃんがそう呼んでるから、移っちゃった」
なんだってさ。
だから俺も、下の名前で呼んでやることにした。理香さんも兄貴も俺の両親も、彼女のことをみなもちゃんと呼ぶけど、女の子をちゃん付けするとか俺のキャラじゃない。んな甘ったるいこと、できるかっ……!
みなもが俺を訪ねて来るのは、一緒に夏休みの宿題をするためだ。みなもと俺とは得意科目が違うから、補い合えていい感じではある。
リビング脇の和室に、俺とみなもを二人で残して、お菓子や飲み物がいるなら適当にやんなさいよと言って、母さんは買い物に出掛けて行った。兄貴の新婚生活を壊すような真似はしないだろってくらいには、俺は親から信用されているらしい。
溶けかけのアイスを大急ぎで食ってから、みなもは数学の問題集を開き、俺は座布団を枕にごろごろしながら、読書感想文用の文庫本を捲っている。みなもが貸してくれた、みなもお勧めの、みなもがわんわん泣いたという青春小説だ。
寝っ転がってしまったのは、失敗というべきか成功というべきか……。目の端にちらちら飛び込んでくる、白いショートパンツからすらりと伸びた、少し日焼けした生足が眩しい。
見たいけど、見ちゃいけない。悶々とした思春期の葛藤に読書を邪魔されていると、カリカリとシャーペンを走らせる音が止まった。
「あっ、解けてる! ねえねえけーくん、さっきの問題、教えてもらった公式使ってあたし自力で解けちゃったよ。あたしまた一つ賢くなりました!」
伏せておいた俺のノートと答え合わせを済ませると、みなもはそれを突き出しながら自画自賛した。
「そうかよ、偉い偉い」
「偉いかあ、それじゃあ――」
座卓の脚の間から、不意にみなもの顔が覗いた。
「ねえ、どっか、連れてってよ」
「どっかってどこだよ?」
チラ見がばれた視線を宙に泳がせながら、文庫本を閉じて起き上がった俺の正面に、みなもは赤ちゃんみたいに這い寄って来た。
「んー……、うーんと夏っぽくて、涼しくなれるところがいいな。海が見える場所とか、誰もいない夜のプールとか、蛍が飛んでる川辺とか、お化けが出そうな廃墟とか。あっ、そうだ! ビアガーデンって高校生でも入れるのかな?」
「知らねーよ。てか行くか! 海と蛍はともかくとして、後の三つはヤバいって。それに、うーんと夏っぽくて、涼しくなれる――なら、塾の夏期講習、一緒に通ってやっているだろ? 冷房効いてて快適快適」
「優等生な発言するなあ、けーくんは。高二の夏休みは、部活と勉強だけじゃ終われないよ。来年は受験生で、ほんと勉強ばっかりになりそうだから、今年の夏はけーくんと、夏らしいことしておきたいなあ」
けーくんと、って、みなもはそういうこと、さらっと口にしてくれるから困る。ぺたんと座った足の間に両手をついた、無造作なポーズも上目遣いも、ノースリーブにショートパンツの私服姿だって、すっげえ可愛いから困る。
「夏らしいことって、例えば?」
「スイカ割り」
「食いきれねえ」
「流し素麺」
「冷やしで十分」
「線香花火」
「しょぼくね?」
「キャンプファイアー」
「豪快すぎ」
「バンジージャンプ」
「どこから?」
「百物語」
「怪談知らね」
「お墓参り」
「誰のだよ」
「それじゃああたしとひと夏の恋」
「するか馬鹿」
「何でー!?」
そこでみなもは、プンとむくれた。そんなみなもに、俺は呆れた。
「何でって、ひと夏の恋なんてチャラいもん、秋以降も顔合わせなきゃなんない相手とするだなんてイカれてる。正気の人間だったらやらないって――みなも?」
不満げに口を引き結んでいたみなもが、俺に向かって伸びるように腰を上げた。かと思うと。
右目の下に、柔らかいものが触れ、ふっと吐息が撫ぜていった。いたずらな風のように一瞬だけ。
「みなっ……! 今何っ!」
「たまにはね、正気なんて取っ払っちゃおうよ。それで経験してみようよ、あたしと熱ぅいひと夏の恋」
「……しない」
みなもの感触が残る頬が熱い。どっどっどっと心臓がうるさい。だけどそんなひどい誘惑に、乗れるわけがないじゃないか!
「あーあ、駄目かあ。一生忘れられない夏にしたかったのにな。大好きなけーくんにふられちゃったあ」
「違う!」
みなもの大きな勘違いに、自分でも驚くほど鋭い声が出た。みなもはきょとんとしてから、まん丸い目を三角にして、さっきから俺を翻弄しているぷるんとした唇を尖らせた。
「違うって? 何が違うの? それだけハッキリ断っといて意味分かんない」
「だからっ、そういうのはっ、勝手にたったひと夏だけで済まそうとかすんなっ! 俺だってみなものこと好きなのに、前からむちゃくちゃ好きなのに、ひと夏なんかで終われるか! ああもう……、みなもは俺のクラスメイトで親戚で、身内でごちゃごちゃすんの面倒だから我慢してたのに……、俺の正気をぶっちぎった責任取れよっ!!」
「取る取る、責任。けーくんが取って欲しいだけいっぱい取るね。あたしもけーくんと、ひと夏だけじゃ終われない恋したい――」
やぶれかぶれな俺の告白に、みなもは全開の笑顔で応えてくれた。愛しくて苦しくてたまらなくなって、衝動的に引き寄せてしまったのは炎夏のせいだ。
触れるとか重ねるとかっていうよりも、ぶつける感じになってしまったファーストキスは、みなもがくれたソーダアイスの味がした。年中コンビニで見かけるあのアイスをガリガリ齧るたび、俺はこの日の狂気と歓喜を思い出すだろう。
「……なんか恥ずかしいね」
俺が身体を離すと、顎を引いて俯いたみなもは、指を大きく広げた両手で火照った自分をぱたぱた扇いだ。
「そっちから来といて、よく言うよ」
「今が夏休みでよかった。けーくんの顔、まともに見れない。こんなドキドキしてたら、何かあったってバレバレで、絶対周りから冷やかされる」
「ちょっ……、みなも、頼むから早く慣れて」
なんて言ってる俺だって、どうしようもなく照れ臭くて落ち着かない。母さんが帰って来て勘付かれる前に、今日はみなもを家まで送ってしまおう。
「うん。だからけーくん、塾と宿題の会以外でも、夏休みの間二人で逢って、夏しかできないことを色々しようね」
「しょうがねえなあ」
目元を覆う前髪の下で、みなもの口元が嬉しそうにほころんでいる。なんかもうすっかりこの小悪魔に、振り回されている気がする。
「ちゃんとけーくんの希望も聞くから。夏といえば、けーくんは何したい?」
今は七月の終わりで、大好きな子と付き合い始めで――とくれば、俺にはぜひともやってみたいことがある。
「浴衣の彼女とデートがしたい」
「ベタだね」
「ベタで悪いか。浴衣で祭り、まずはそれからだ。初デートは、来週末の納涼花火大会に決定な」
「無理」
これまでの会話と大きく矛盾した、みなもの短い即答に、俺は冷や水を浴びせられた心地がした。
「何でっ? 浴衣だぞ? 夜店だぞ? 打ち上げ花火だぞ? 納涼って付いてる夏祭りなんだぞ? うーんと夏らしくて、涼しくなれるかもしれないのに!?」
ショックを露わにみなもの顔を覗き込むと、みなもはくすぐったそうに肩をすくめながら、きらきらした黒い目で悪戯っぽく俺を見返した。
「だってあたし、浴衣は理香ちゃんのお下がりがあるけれど、下駄は持ってないんだもん。だからけーくん、お祭りに行くより先に、お買い物に付き合ってね」
「……おう」
今年の夏は去年より、暑い、熱い、アツイ――。
みなもに正気払いをされた俺の夏は、恐ろしくアツくなりそうだ。
ショウキバライ 桐央琴巳 @kiriokotomi
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