第106話 船室

 棒の先に布を取り付けたような箒で床の掃除をしながら、イフレニィは昼休憩時の遭遇について考え込んでいた。

 やはり女騎士と、軍――国の思惑は別なのだろうと思わせる内容だった。髭面はアィビッド帝国の立場から、この件はさして気に留めていないと言ったようなものだ。用はなくもないが、優先順位は高くないのだ。それも、いざとなれば強硬手段を取れるからと考えれば、ありがたくない余裕ではある。

 しかし、その決断の元となる理由は、女騎士の言い分を元にしているからということなのだろうが。当然、国が個人の言葉だけで動くはずはない。全てが動きだしたのは、元老院の宣託によるもの。ならば、女騎士の言い分を担保するものが、元老院にある。

 ふと、彼女の話を聞けというのは具体的に、どういった意図なのかと気にかかっていた。わざわざ一人で来てまでとなれば、まるで忠告のようでもある。しかし、そんなことをする義理はないはずだった。

「ぼけっとしてると、樽に詰めて流すぞ」

 突然の声に、意識を目の前のことに向けた。

 鋭いことに、考え込んでいるのを相棒に察知されていたようだ。知らず動作が鈍っていたのだろう。頭から余計な考えを払いのけ、目の前の仕事に集中した。


 晩飯時の休憩時間は、セラの泊まる船室を訪れた。あることを思い出したイフレニィは、臨時作業員用の共用寝所へ立ち寄った。壁沿いに棚のように作りつけられた幾つもの寝台の内、自分に割り当てられた場所の側に立ち仕切り布を捲り上げる。これまで時間がなく、隅に置いたままだった箱を開けた。独特の臭いが漂う。干物の箱だ。漁ったところ、例の得体の知れない魚らしきものが入っていた。干からびて変色している状態だが、形状的に間違いないだろう。非常に硬く、このままでは手で千切るどころか小刀でさえ切れそうにもない。火を通してもらうため厨房に持ち込むついでに、箱ごと渡そうと決めた。

 バルジーとの話を覚えていたから持っていったのだが、失敗だった。

「おおぉ、その異形は、まさに怪物……」

 イフレニィが昼の事について切り出すより早く、未だ湯気を上げる手に掲げたものを見た途端、バルジーはふらふらと近付いたかと思うと、獣らしい素早さで串をひったくると齧りついていた。見なかったことにして、セラへも渡す。

「懐かしいな」

 漁村育ちというセラは、特に感動もなく受け取った。だが懐かしいというからには、他の街では見られない珍しい食べ物なのだろう。

 しかしイフレニィが食べたポトラン焼きとやらは、生のまま焼いたもので、弾力はあれど柔らかなものだった。この干物は、炙ったところで噛みきれない程に硬くなっている。料理人に、そういう食いもんだと言われたこともあり、イフレニィは渋々と口を動かし続ける。これでは話どころではない。

「うーん、革を食べてるみたい」

 そんなことを言いながらもバルジーは、満足気に顔を輝かせる。腑に落ちない。

 皆が咀嚼するだけの静かな時間。仕方なく、室内へと目を向ける。

 しかしイフレニィが暮らしていた屋根裏部屋よりも狭い室内には窓もなく、特に見どころなどない。小さな寝台が一つあるだけだ。床部分は扉の開閉のためだけに設けられているようだが、それも半ばまで開けばいいだろう。イフレニィは扉の前に立ったままだが、平均的な大人の背丈でも真っ直ぐ立てば頭が天井に付くような高さのため、やや深く背を預けることになり、真向かいの寝台に座るバルジーの足とぶつかりそうな近さなのだ。そのわずかな隙間の壁が、くり抜かれたようになって板が渡されており、棚になっている。セラはそこを簡易の机に見立てて、持ち込んだ木箱を椅子に符を作成していたようだ。

 見たところ、後から客室を増やしたのではないかといった無理矢理な作りに思えた。長期間、陸を離れるのだから、限られた空間に様々な用途を詰め込めば自然とこうなるのかもしれなかった。イフレニィに船舶の知識などないため、逃避から思考を戻す。ようやく口から怪物が消えたことで、当初の目的を果たそうと二人を見た。

 話をしたからと、どうにかなるものではない。旅の道連れとなった者へ、また面倒な奴らが絡んできそうだと前もって伝えておきたかっただけのはずだ。

 ――それとも、単に話を聞いて欲しかったか。

 零れた感想に戸惑う。今までのイフレニィ自身では、考えられないことだった。

 しかし、と、イフレニィは微妙な気持ちで面々を交互に見る。捩れた妙な魚の足を口の端から覗かせて悦に入っているバルジーと、それを若干引き気味に見ているセラ。

 そうだった。元から、あまり人の話を聞く奴らではない。一人でぼやいているのと、そう違いはないのがいいのかもしれないと思い至り、少し空しくなってくる。溜息を吐いたところで、バルジーがうるさい声を取り戻した。

「旅人の女……伝説を喰らう!」

 食べたという事実だけで満足したのか、伝説の怪物の呪縛から解かれたらしい。バルジーは我に返ったように言った。

「あ、そうだ。あの髭さんと話したよ」

 突然の振りに唖然とする。

 ――それを先に言え!

「そう睨まなくとも怪物のお礼は返す。あなたが落としたのは、この金の怪物ですか、それとも」

「いいから」

 食べ終えた串を掲げて無駄話を始めようとしたバルジーは、話を遮られて、ぷうと頬を膨らませることで不満を示す。無表情に見返すと諦めたのか、眉を顰めて上目遣いに天井の片隅を見つめた。昼間の様子を思い浮かべているのだろうが、ありもしない何かを見ているようで不気味な光景だ。

「あなたの体調はどうかって、聞かれた」

 挨拶だろう。一から全て言葉通りに聞きたいわけではない。早く内容に移れと、視線で促す。

「だから、面白みのないうじうじ虫だけど、食い意地張ってるし健康そのもの! って答えておいたよ」

 言うに事欠いて食い意地張ってるはないだろう、お前よりはましだと思うも最後まで聞こうと口を閉じて待つが、拍子抜けすることになった。

「聞かれたのは、それだけかな」

 本当だろうかと、イフレニィは怪訝に見た。無駄話をするような相手には見えない。その言葉の裏には、何かが潜んでいるとでもいうのだろうか。

「聞かれたのは、ということは、他にも話したのか」

「うん。なんというか、すごい人だったよ」

 それには期待を込めて見る。バルジーのように意味不明な行動をする者など、軍では見られないはずだ。その突飛さを前にして、何かを漏らしている可能性はある。バルジーは、目をぎらつかせながら嘲笑いつつ言った。

「伝説の怪物の話をしたら喜んでくれたの。作り話だろうにね!」

「お前が言うな!」

 さっきまで怪物を食ったと、はしゃいでいた女だ。恐らく生暖かい気持ちで聞いてくれたのだろう髭面に、少しばかり同情してしまう。

「溜息ばっかり。爺むさいよ」

 微かにでも期待した俺が馬鹿だったと、バルジーの声を締め出す。ふと右手を見れば、背を丸めたセラが目に入った。既にセラは聞くことを切り上げて、符作りに励んでいたようだ。

「そろそろ時間だ」

 そういうことにして、イフレニィも切り上げることにした。仕事は夜もある。少し早いが、集合場所へ向かった。

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