第105話 伝説の触手

 よく晴れた空の下、日差しを遮るように手を翳したイフレニィは甲板を見回すが、さほど人は出ていない。何本も張られた縄の間に、バルジーが船の縁に顎を乗せて緩みきっている姿を見つけた。気持ちは分からないでもなかったが、長くそのままでは溶けるのではないかと思えた。

「一人か」

 近付きつつ呼びかけたが、バルジーは体勢を変えるどころか視線を寄越しもせず、くぐもった声が返ってくる。

「もう食べ終わったから。符を作るって部屋に戻ったよ」

 相変わらずバルジーは、海を眺めているようだった。だが、その視線はどこか遠くではなく、真下の方へ向けられている。

 何を見ているのかと訝しく、イフレニィも水面に視線を落とす。海面近く、船と併走する幾つかの魚影があった。時折、波間に浮かび上がる鱗が光を反射する。

「まだ食い足りないのか」

「んー今はお腹一杯。良いお天気だし、伝説の怪物とか出てこないかなーって」

「不吉なこと言うな。海賊の方が、まだしも信憑性がある」

「そんなただの人間なんて、出てきても面白くないよ」

 面白いとか面白くないとかいう話ではない。呆れて隣の後頭部を見下ろす。

「他人を巻き込むようなことを妄想するな。そんなもん精霊溜りだけで十分……」

 言ってしまってから躊躇う。あまり昔の事を思い出すようなことには、触れない方がいいだろうかと考えたのだ。しかしバルジーは鼻でせせら笑う。

「うじうじ虫が人に気を遣うなんて、保存食十年分早いよ」

 それは悔しがればいいのかどうなのかと、別の意味で困惑する。どのみち食い意地だけは変わらない。

 ともかく、この世界に生きている以上、避けては通れないことだ。言われた通りに、慣れないことへ気を回すのはやめにした。

「それで、伝説の怪物ってなんだよ」

「えーそこから」

 バルジーは、さも呆れたように言ったが、口元は緩んだ。物騒な方向に偏った知識を披露できることが嬉しいらしい。そんなものは知らなくていいのだが、勢いよく体を起こしたバルジーの輝く目と合ってしまった。暗闇に篝火が二つ揺らめいているようなぎらつかせ方で、これは嬉しい時の癖のようだった。さらには口の両端を大きく上げて嗤う表情を知らずに見れば、脅されていると思うだろう。

「私も、港町で聞いたんだけどね」

 お前も知らなかったんじゃないかと、半目で見下ろすが、構わず話し始める。

「でっかい縄みたいな足を何本も持っていて、船を締め上げて真っ二つにするらしいよ!」

 子供騙しだ。安易に船や海に近付くなとでも、教訓を込めて話されているのだろう。溜息を誤魔化すように顔を逸らしたが、縄みたいな足というものに、一つ思い当たることはある。

「そういえばポトラン焼きってのを食わされたが、あれがそんな感じだったな。紐みたいな足が何本もあっ、てえっ!」

 不意に体が大きく傾ぎ驚いていると、胸倉を掴まれていた。バルジーが凄まじい形相で睨み上げている。

「離せ!」

 鍛えてきただけはあり、なかなかの力強さだ。その目のぎらつきは一層増している。

「食べたの。伝説の怪物を? なんで、教えてくれなかったの!」

「知るか!」

 バルジーの頭を掴んで押しのけ、どうにか引き剥がす。ただでさえ擦り切れているシャツが千切れるところだった。

「くっ、こんなやつに遅れを取るとは……不覚!」

 床に手をついたバルジーは、大仰に嘆く。そこまで悔しがるようなことなのだろうか。味はともかくとして食感が良いものではなかった。振る舞ってくれた魚主人の顔が浮かび、大量に干物を貰ったことも思い出していた。

「もしかしたら貰った干物の中にあるかもなっ、落ち着け!」

 聞いた途端に組み付こうとしてくるバルジーから飛びのく。

「探しておくから、それ以上近付くな。無くても文句いうなよ」

「さあ早く、暗くじめじめした船底を這い回ってきてよ」

 それが人にものを頼む態度かと、手で追い払う仕草をする姿を睨む。恐らく暇だから余計に絡んでくるのだと気付き、面倒になって仕事に戻ろうと振り向いたところへ、嫌な姿が視界を横切った。

「良かったな、不吉なもんが近付いてきたぞ」

 バルジーは、イフレニィの示す先へと視線を向ける。黒服の髭面だ。

「あいつらが乗っていたと、言いにきたんだ」

 バルジーは軽く頷いた。

「後で、ユリッツさんにも伝えておく」

 イフレニィは奥歯を噛み締める。バルジーにとっては他人事だ。緊迫感はない。髭面は、声が届く程度の距離で足を止めた。一人ということは、わざわざ探して来たのだろう。動かなかったのは、どこに行きようもないからであり、髭面もそれを読んだような言葉を発する。

「どうせ逃げ場もないんだ。ゆっくり話そう」

 御免だと、口の中で吐き捨てた。直接的な言葉で否定するわけにもいかない。事実だけを告げる。

「お偉いさんと違って暇はない。仕事で乗ってんだ」

 実際、そろそろ戻らないとまずい頃間だ。言いながら、その場を離れるイフレニィの背に、髭面は変わらぬ淡々とした声を投げかける。

「こちらのことはいいが、彼女の話は聞いておくべきだ」

 それに返す言葉はなく、船内へ戻った。

 鉱山都市の食堂で向かい合った光景が思い出された。女騎士の話など、あれ以上、何を聞くことがあるというのか。寒気がするような話を、無理やり聞かされたことだけで十分すぎた。イフレニィの結論は、二度聞くに値しないというほかない。

 こんな状況で、後一週間は乗っていなくてはならないと思えば、途方もない疲労感に襲われるようだった。

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