潮騒
第97話 新たな式の実験
前に拠点らしい拠点に泊まったのは、経由地と呼ばれる街道を拡張しただけといった小さな街で、後は山間に通る入り組んだ街道を歩き続けて数日の後だった。朝靄の中、小高い丘を登りきったと見てセラは荷車を止めた。ところどころ白く翳む合間を、日差しが切り裂き、未だ空の果てまで連なっているような緑の山々を見せた。
げんなりしつつ隣を見る。セラは荷車を引きながらも器用に坂道を登っていたのだが、あまり疲れは見えない。たまに手を貸しはしたが、大丈夫かと聞くと、重心がどうのと言い始めたので聞かないことにした。目の上に手を翳して見ていたセラは、空の境を指さす。
「山の壁が見えるだろう。あの向こうが港町だ」
その言葉に、イフレニィも片手で日を遮り、改めて連綿と続く濃緑の起伏に目をやる。最も遠くが、高くせり上がっているようだ。
「今日は、あそこまで行ければ十分だ」
目に届く場所とはいえ、起伏ある山の中を歩けば相当に時間はかかる。その予定に疑問はなく、イフレニィは頷いた。
日暮れも随分と前に、朝に見た山の壁の麓に到達していた。
眼前にそびえる崖のような山を見上げ、あとどれだけ上り、そして下ることになるのだろう。山を越えた後、街まで長く歩くようには思えなかったのだが、今晩はこの森の中で野営するという。何も疑問に思わずにいたイフレニィだったが、どうやらセラには別の意図がありそうだと気が付いた。
道中、休憩時間の度に、セラの目が満足気に輝くのを見ては不安に駆られる日々は終わりを告げる。
「待たせてしまったが、ようやく試験作品が完成したよ」
「特に待っては……楽しみだ」
つい本音が出かけたが呑み込んで、なるべく嫌そうには見えないように気を遣う。
「目が笑ってないよ」
「余計な口を利くな」
肩越しに厭らしい笑みを湛えて呟いてくるバルジーを、小声で黙らせる。
セラが道具袋から取り出したのは、様々な符。もちろん、道中でできることなど他にない。しかし、特別製だ。
セラ作の、怪しげな符の実験とやらを手伝うと了承したのはイフレニィ自身だが、思わず腰が引ける。自身の精霊力が及ぼし得ることに、ますます忌避感が募っていることもあるが、こうも早く機会が訪れるとは考えてもみなかったのだ。
「こんなことやっている場合かとか、言ってなかったか」
イフレニィのささやかな抵抗へ、バルジーが代わりに楽しそうに答えた。
「それはそれ。これはこれでしょ」
「どのみち、旅の最中は他に出来ることもない」
セラも、いつもの覇気のない顔に目だけを輝かせている。バルジーの邪気に満ちた目と並ぶと、気味の悪さ倍増だ。
約束は約束だ。イフレニィは気を取り直して符を見つめる。試すのはいいが、初めに効果は確かめておくべきだろう。
「環境に影響の出るものでは、ないよな」
火属性などであれば山がどうなるか分からない。またしてもバルジーが口を挟む。久々の見世物だと、はしゃいでいるらしい。
「ユリッツさんが、そんなこと望むわけないでしょ。日和見主義なんだから」
いつもながら本当に庇っているのか馬鹿にしているのか分からない。今度はセラがまともに解説する。
「あんたの力を見て、精霊力の制御について考えをめぐらしていたんだ。全部、制御の為の式と思ってくれ。無論、抑える方向で進めたよ。危険なことは起こらない……恐らく」
最後に不穏な言葉が聞こえ、イフレニィは固まる。
「そう遠慮しなくていい。まずはあんた専用の顔料と、魔術式使用の光の符だ」
遠慮などではなく、本心で嫌なのだが伝わることはないだろう。しかしセラ曰く「改悪」したものだ。しかも光の符ならば、目つぶし以外の周りへの被害は起こりえないはずだ。どうせならば早く済ませようと、手に取った。いつものように、その時点で勝手に精霊力は流れ出したのだが、以前のものよりも強い抵抗があった。
「おお」
バルジーがイフレニィの心情を代弁するように、感嘆の声を上げる。
普通だ。あまりにも普通の魔術円だった。胴体周り程度の直径を持つ、淡い白色の円が目の前に展開されている。それは久しぶりの光景だった。
思わず頬が緩み、流れを止めて、まじまじと新たな符を見た。なんとはなしに表裏を確認するが、外からは何が違うのか分かりはしない。そこに、白い霧のような筋が伸びてくる。
「うぐぬにに……」
気が付けばバルジーが、遠距離からの展開を試みていた。両腕を上げ、何かに掴みかかろうとするように手を開いている。その指の先からは白い光の糸が、蛇行しながらイフレニィの手元の符へと伸びていた。符に触れなくとも展開できるのが、バルジーの特技だったと思い出す。気持ち悪いことをするなと横目に睨むが、必死の形相を見て逆に引いていた。
「無理ぃ」
諦めたバルジーはイフレニィの手から符を奪い取り、両手で握って呪いの言葉を吐きながら念じ始める。薄ぼんやり光ったが、一瞬で途切れた。
「うっを何これ。ぜんぜん通らない」
悔しそうにしているが、悔しがるようなことではないだろう。先ほどまで楽しそうだったバルジーが、鬼気迫る様子で符を睨んでいる姿を無言で見ていると、セラから次を促す声がかかる。
「どうやら成功のようだな。次こそが、本懐」
セラの眠そうな目に、鋭さが宿った。
「安心してくれ。また光の符だ……一応」
また最後に何か聞こえたが、どんな仕掛けが施されているのやらと思ったときには精霊力が指を伝い、とんでもない発光に襲われていた。咄嗟に目を閉じるが頭痛が襲う。
「びゃあああっ!」
「これは……」
バルジーの奇声と、セラの動揺の声が耳に届き、慌てて力の流れを止めると目を開いた。まだ日はあるし、こんな山陰だ。目立ちはしなかっただろうが、不安に辺りを見回す。セラはバルジーの奇行を見て、状況を判断しているらしい。
「うーん、おかしいな。あの繋がりをしくじったか、いやあそこをこう……」
何事か呟いているセラを無視し、イフレニィはバルジーに押し付けた。
「試してみろ」
「合点だ!」
バルジーが力を流すと、光は不思議な広がり方をした。通常は、紙の上の魔術式を光がなぞり、それが空中へと展開される。その符は、式をなぞる白い光が形を成していきながら、その後を追うように金の光が塗り替えていくのだ。式を解きながら、発動しているとでもいうのだろうか。だが、白い円が金に変わっても、効果が出るまでには至らない。
「そのまま、発動してみてくれないか」
セラの意識が現実に戻る。言われてバルジーは、すぐさま集中し精霊力の流れを強める。金に変えられた待機円だが、通常と同様に、ただ一際強く金色に輝くと効果を放ち始める。時間差での発動。
「これなら、各人の精霊力の強さによる、発動時のばらつきを抑えられるかもしれないんだな」
イフレニィの問いに、セラが頷く。数枚ずつ同様のものを作ったらしい。もう一枚を手に取ってみた。何が違うか分からないのに、つい見入ってしまう。
「そのつもりだった」
セラは眉尻を下げ、いつもの覇気のない顔に戻る。
「ほら、やっぱり異常んぶゃあっ!」
イフレニィは手にした符を、バルジーの顔に向けて展開してやった。自分は顔を背け片手で遮ったのだが、瞼の裏をちくりと刺すような強さはある。目を開けた先で、セラがわずかに眉間を歪めるのが見えた。
「見えない、よな?」
「ん、まあ、そうなんだが……」
どうにも歯切れが悪い。戸惑っているようで言葉を探すように視線が揺らぐも、次に出た言葉は、はっきりしていた。
「目の奥が痛むような、刺激はある」
セラは、精霊力を知覚できない。セラの親方曰く、そのための器官が塞がっているのだろうという話だった。だから魔術式を読み解き展開する光も、認識できないでいる。目に映るのは、発動後の結果である効果だけ。
――認識できないだけか。
人体は精霊力を通し辛いだけであり、介在しない者など存在しない。セラの肉体も、精霊力の影響を受けているということだ。
興味のためではなく、何かを真剣に考え込んでいる様子のセラを、イフレニィは苦い気持ちで窺う。セラ自身が戸惑うなら、これまでに、そういった体験がなかったのだろう。そもそも、精霊力が魔術式によって視覚化される光は、日差しなどとは別のもののようだ。ということは、魔術式から放たれる刺激が光に近いものであり、人間側が光であると誤認識しているのかもしれなかった。
イフレニィはセラから顔を逸らし、目を伏せた。
精霊力を知覚する器官を越えて、直接に視覚へと訴えかけたということだ。誰にでも認識させたいならば単純に量を増やせばよい、などという馬鹿なことを新たな発見と喜べはしない。
いつまでも黙り込んでいて、余計なことへとセラの考えが向かうのを恐れ、誤魔化すように話を新たな式へと戻す。
「俺じゃ力の調整が出来ないから無理だったが、あいつが使ったのが本来の効果なら、成功はしてるだろ」
視線で、草地で目を押さえて転がるものを示す。しかしセラの目は据わり、普段は見られない素早さで紙束を取り出した。わずかに開かれた目は、真っ直ぐイフレニィを捉えている。
「起動時の精霊力の流れ具合を教えてくれ。瞬き一つの時間ごとの感覚の流れを掴みたい。それと――」
まくしたてられる要求にイフレニィは泡を食うことになった。
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