第96話 彩り

 ゆっくりと四方に目を向けながら歩いていたイフレニィだったが、日が沈み切る前に宿まで辿りついていた。並ぶ小屋の端にある一部屋を訪れる。セラは狭い机に向かい、相変わらず背を丸めて符を作成していた。乾かすために、周囲の壁には紐を渡し、書きあげたばかりの符が吊るされている。薄暗い中で魔術式に埋もれる男の姿は、この上なく不気味な光景だ。そんな失礼なことを思い浮かべながら、部屋の隅へと荷物を下ろす。

「あいつは」

 じっと出来上がりに見入っていたセラに、恐る恐るバルジーの居所を聞いた。

「素振りと、言っていた」

 元気なことだ。聞くだけで、げんなりしていると大きな音を立てて扉が開かれた。さっぱりした顔付きのバルジーがイフレニィの顔を見るなり大きな声を上げる。

「晩御飯は!」

 なぜ俺に言うのかと思いながら、イフレニィは無言で今しがた荷物を置いた部屋の隅に視線を送る。バルジーは袋を開いて、口の両端を上げた。白く丸い根菜を、両手で掴みあげて恭しく掲げる。

「この混沌の闇の手から、逃れられると思うなよ。その身を地の底から這いずり出る業火で炙り尽くしてやろう。あ、外にかまどあったよ」

 もう何を言うのも面倒になってきた。身を翻して出て行く背を見送り、小さく溜息を吐くとセラから符をひったくる。

「飯だ」

「もう、そんな時間か」

 表に出れば、火の側にしゃがみ込んでいる姿が見える。先に火を熾していたのだろう。既にバルジーは、枝切れに野菜を刺して焼いていたようで、息を吹きかけ冷ましながら齧っていた。

 宿の竈と呼ぶには簡易の、石ころを丸く並べただけの場所だ。周りにも椅子代わりには倒木だか岩が置いてあるだけだ。ただの焚き火跡ではないのかと辺りに目を向けたところ、男が通りかかる。

「おう、お客人だったか。客が使ってんのは久々見たなぁ。ここらの設備は好きに使ってくれて構わんからな!」

 この小屋群――宿の主人だった。設備と言い張る周囲を見渡してみたが、地面さえ整えられておらず、ただの空き地にしか見えない。取水はそこでと言って、主人が藪を掻き分けると、小川が流れていた。ご機嫌に手を振り去っていく姿を、イフレニィは無言で見送った。

 改めて焚き火を三人で囲み、イフレニィも枝に、木の根のような根菜を刺して炙る。

「外で、兵を見たか」

 街で気になったことを、二人に問いかけた。この街も別の要所ではある。港へ続く唯一の街道を塞ぐ拠点だ。正規兵は移動中の部隊だとして、こんな山腹の周辺までも警邏が増員されているならば、他国との緊張状態への懸念も、あながち間違いではなかろうと思えた。そんなことまで二人が考えることはないだろうが、他に気になる点を見聞きしているかもしれない。

 バルジーが何事かを思い出すように眉間に皺をよせ、野菜を飲み込んで答える。

「そこの道で素振りしてたら、見回りの兵隊さんが、何人か怯えたように去っていったかな。きっとあれは後ろ暗いことがあるね」

 ――絶対に違うだろ。人通りのあるところで武器を振り回すな。

 しかし、この辺りも見回っているのは確かなようだ。それが通常任務の範囲なのかは知りようもないが。セラが思い出したように続ける。

「そういえば兵達が移動してるらしいと、宿の主人が話していたな」

 その情報だと、イフレニィはセラへと向き直る。枯れ葉を投げて文句を呟いてくる蓑虫は無視だ。

 話によると、各地の常駐定員を減らし、少しずつ中央へと集めているらしい。多くの僻地の住民にとって、中央とは帝都を指す。ここはそういった意味だろう。

「一時的なものとはいえ、人の流れが急に増えたもんだから大変だと零していたよ」

 その、宿の主人のぼやきには同意しかねた。イフレニィら以外の客の気配はない。

 ともかく、これまでに見たこと知ったことから考えれば、大規模な再編制が行われているということなのだろう。回廊対策の準備は、随分と早くから始まっていたように思えた。

 軽く目を閉じ、理不尽さを嘆く気持ちを抑える。世界が北へと流れていく中を、イフレニィは逆らって進むしかない。

 手早く食事を終えたイフレニィは、二人を残して部屋に引き上げた。これ以上、どうにもできないことを考え込む前に、寝てしまうに限ると思ったのだが。粗末な木板の寝台は、長椅子をやや大きくした程度の狭苦しさだ。横になると、今にも割れそうなほど軋む。床板もなく砂を敷かれただけの剥き出しの地面から、冷気が立ち昇るのが感じられるようだった。これで野宿と比べて、どれだけ疲れが取れるのかと訝しんだのだが、疲労は知らず溜まっていたのだろう。眠りはすぐに訪れていた。


 最悪の寝起きだった。

 イフレニィの寝ぼけ眼に映ったのは、隙間だらけの壁から差し込む光に浮かぶ、上掛けに乗っていた手の平大の蜘蛛がにじり寄ってくるところだった。反射的に避けようとして、地面へと転がり落ちた上に壁にぶつかった。すぐに起き上がって寝台を見たが、敵は見事に撤収した後だ。予期せぬ鼓動の高まりが不快で、深呼吸をして落ち着ける。悪態をつきながら、出かける準備を済ませた。

 打った肩を撫でながら部屋を出る。隣からも、ちょうど二人が出てきた。

「朝から暴れるなんて、元気ね」

 合流した途端、バルジーが欠伸を噛み殺しながら嫌味を吐く。

 ――お前にだけは言われたくない。

 大抵はイフレニィの方が早く、起こす方だ。どうやら今朝は、イフレニィの立てた物音で目覚めてくれたようだった。

 完全な外で寝るよりは体の疲れも取れたのだが、精神的には台無しだ。敵の姿が浮かんで、念入りに荷物を確認しなおす。おかしな影がないことに一安心して、ついでに忘れ物はないかと二人にも確認を促す。

「出ようか」

 セラが荷車に手をかけると出発の合図だ。日が昇りつつある柔らかな空の下、重い足取りで歩き出した。

 街道を南東方面、港町へ向けて進む。

 景色は、濃い緑に覆われた山間やまあいが続いていた。道は、帝都から鉱山周りほど広いものではなくなっている。だが、近くに村でもあるのだろう。食料などを届けている地元住民らしき者達や、行商人らとも擦れ違う。頻繁に人の行き来はあるようだった。

 真昼も過ぎると、経由地の街へ向かっているらしき兵の集団とも擦れ違った。日暮れに着くような日程なのだろう。

 たまに山間が途切れると、ときに村らしき集落も目に入る。街道から逸れる気はないため、イフレニィ一行は街道を繋ぐ街以外の場所を訪れることはない。イフレニィには、どこか北部とは違い、景色に温かみがあるように感じられた。隙間なく色彩豊かな植物に彩られている。殺風景さのない場所もあるのだと、不思議な気持ちだった。周囲には深い緑の息吹が溢れている。それがイフレニィの沈んだ気分にも、影響を与えているのかもしれない。

 大陸が途切れるのもあとわずか――そう思えば気力も戻り、顔を上げて行く先を見据えるように、しっかりと歩みを進めていった。

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