第98話 潮の香り
峠を越えている最中、イフレニィは厭わし気に、木々で遮られた道の先を見上げる。
傾斜を抑えるための曲がりくねった道は、歩行距離だけが伸び、気持ち的には辛いものがあった。すぐそこに最終地点があるのに、まるで到達しないように思え、いっそ真っ直ぐに登りたいと気ばかりが焦って仕方がなくなるのだ。が、荷車がある以上、それは無理な話だ。
溜息を飲み込んで、遠い先ではなく、目に見えている悪路へと視線を戻す。
「海ーざっばーん」
途端に、神経を逆なでするようなバルジーの声が隣から上がった。癇に障り、横目に睨む。視線に気付いたようだが、もちろんバルジーが意に介することなどなく、無表情を前に戻す。そして前に掲げていた両腕を、再びうねらせ始めた。波を表現しているつもりらしい。
早く目的地に着かないかと根を上げたい気分でいるのは、半ばバルジーのせいだとイフレニィは思っている。酷い目に遭ったと心中でぼやきながら、重い頭を手で支え、その原因を恨みがましく思い出した。
セラ特製の妖しげな制御機構を施したという符。昨晩は、その使用感などについての詳細を、洗いざらい吐き出させられたのだ。一瞬一瞬の感覚的なことを全てだ。精霊力が捉えられないセラにとっては、自分で判断できないために、その辺りの感覚こそが重要らしかった。そんなものが本当に役に立つのかと疑わしいながらも、普段は気弱にさえ見える穏やかな人物の豹変ぶりに気圧されてしまい、問われるままに答え続けて夜が更けた。単に睡眠時間が足りないという話ではなく、必要以上に頭を使ったためか、まったく疲労が回復した気がしない。
本来ならば符の発動を成功させたバルジーの方が実験台に相応しいはずなのだが、常ながら獣並みの嗅覚を発揮して、気が付けば逃げるように先に寝ていた。
――覚えてろよ。
虚しく胸中でぼやきつつ歩き、坂を上りきる。木々に挟まれ景色は見えないが、勾配が緩やかに下り始めたのが見てとれた。休憩は取らずに、そのまま進む。迂遠な坂道を下り続け、木々も途切れがちになり、徐々に視界が開けてくる。
思わずといったように、三人ともに足を止めていた。
光を受けて白く輝く、淡い灰色の水面が遠くに見えたのだ。粒のような船影が幾つも浮かんでいる。その手前には、街の全景が広がっていた。これなら、明るい内に到着できるだろう。初日に街の様子を調べられれば予定を組み易い。自然と三人の足取りは軽くなる。
街の出入り口付近に来ると、朽ちかけた木の柵で区切られているだけだ。立て札が見えたが、藪に埋もれるようにして頭の部分が出ているだけで、肝心の街の名前は見えない。出て行く行商人の馬車と擦れ違いに、街へと踏み入れた。
ここまで来ると、逆に海は見えない。特に街並みの中に潮の香りが漂っているわけでもない、表通りを歩く。また特に考えることもせず、イフレニィはセラの向かう先へと付いて行く。まずは宿の確保だ。
いつものことだが、セラの知る宿は常に妙な場所にある。気が付けば表通りから横道に入り、どんどん街の中心から離れていく。
沿岸沿いを北の方へ向かうと、漁村としか言えないような中を歩いていた。微かに潮騒も聞こえる。波の音ばかりではなく、ずだんずだんと何かを打ちつけるような音も風に紛れて届き、それはどんどんと大きくなる。その音の出どころの前でセラは立ち止まった。
『潮流亭』
足を止めた平屋の入口の壁には、そう彫られた木の板が打ち付けられていた。ご丁寧に魚の形をしている。躊躇無く扉を開くセラの後へ続き、広い間口を進むと、途端に、むっとする空気が流れてくる。生臭い。おざなりに置かれた勘定台の向こう側は、広い作業場だった。
部屋の中心では大きな作業台を数人の男女が囲んでおり、一際立派な体つきの男が、勢いよく振り返った。赤く濡れた大きな刃物を掲げ、朗らかに笑う。
「おっと、お客さんかい! ちいっと待ってな。今、片をつけるからよ!」
彼らの手元にあるのは、魚だ。素早く捌いた魚を、脇の木箱へ選り分けていく。その手さばきは惚れ惚れする技だ。
――宿、だよな?
「待たせたなあ」
真っ黒に日焼けした半裸の男が、手の血を拭いながら笑顔で近付いてくる。恐らく宿の主人なのだろう。セラは、全く動じることなく前に出る。
「部屋二つ、荷車を置かせて欲しい。それと『開き』」
主人は一瞬頬を引きつらせ、次いで不適に笑った。
「そいつを知ってるたぁ、一見さんじゃねえな。いいだろう、二割引だ」
なんなんだ、その暗号はと、思わず口を出しそうになった。大丈夫なのかと心配になってくる。見るからに怪しげな宿ばかりでも、問題が起きたことはなかったが、今回も無事とは限らない。もちろん文句を言うことはなく、渋々と、案内する魚主人についていく。
イフレニィに割り当てられたのは、一階の端。薄暗い部屋だ。安宿しか利用しないイフレニィにとって、どこも同じことだから、それは構わないのだが。
――うるせえ。
顔が出せる程度の小窓を開いて、外を覗き見ると、すぐ真下を波が叩きつけていた。水飛沫は、ここまで飛んでくるのではないかと思う激しさだ。
泥棒避けにはいいだろうと思い直すことにして、室内に目を戻す。上掛けも何もない、
「組合に行ってくる」
「俺も出るよ。乗船券を確保したい」
その言葉に、静かな衝撃を受けていた。
――いよいよ、向こうに渡るんだな。
嘆きとも感動とも違う、感慨が胸に湧く。
重い荷物を置いたりと準備する二人を待ちつつ、イフレニィの部屋と比べて広々と明るい部屋を見回した。釈然としない。隣だというのに、大きな迫り出し窓があり、日当たりまで良かった。そこで気付く。隣の部屋が薄暗いのは、その迫り出した壁のせいだと。
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