第4話 生き残り

 突然の痛みだが、イフレニィには身に覚えがあった。

 異変の起きた日と同じく、体に刻まれた印から発せられている。生れ落ちた時より与えられる、王族の血を引く者たる証。国を示す紋様で編まれてあるという、魔術式。

 ただの飾りだと思っていた。この時気付くべきだったのかもしれない。印がただの模様ではないことを。


   ◇


 傍で呻き声が聞こえた。

 イフレニィが背中の痛みから意識を引き剥がして顔を上げると、半身を折り、うずくまっている身体が目に入る。這うように近寄って、その背に触れ、動きを止めた。

「父さん、血が……!」

 左脇腹には鮮烈な赤が滲んでいる。イフレニィの視線に促され、それを確認した父、ボペルの顔から色が失せた。

「印か……。何かが、国に起こった」

 自身の体にある印の場所に手を触れて呟くと、それきり黙ってしまった。その内容から彼の心配は怪我の事ではない。

 言葉なくボペルはイフレニィを引き寄せ、シャツの背側をめくると腰にある印を確認する。腹を貫かれるような痛みはあったが、血は流れていなかった。息子に何事もないと分かると、ボペルは部屋を出て行った。部下達と話すのだろう。

 国がどうのという言葉の意味は分からない。父の印は心臓に近い。怪我は酷くないだろうか、それが心配だというのに。まだ子供の俺では、なんの役にも立たないのだと、イフレニィは悔しくて俯いた。

 ふて腐れて頬杖をつき、宿の窓から通りを眺める。夜だというのに、やたら辺りが騒がしい。先程のことで意識から追いやっていたが、ずっと地鳴りのようなものが続いているせいだろうか。

 声に誘われて階下へ降りると、街中の住民が出てきたのか、通りは人に溢れている。そして一様に、空を見上げていた。


 イフレニィも同じように見上げる。白い吐息が立ち昇り、空の光にかき消される錯覚に陥った。幾つかの色を伴った光が、絡まるように帯を作り、遥か上空で翻っている。どこまでもどこまでも、それは切れ目なく続き、天を飾る。あまりに壮大で、一時、自分の立っている場所を忘れて見上げ続けた。

 これが痛みの原因かと、頭の片隅は呟いていた。



 ここは海を渡った先の大陸。その東側を統べるアィビッド帝国だ。

 二つの大陸が干潮時には徒歩で渡れるほど近い、回廊と呼ばれる場所が北東端にある。渡ったすぐ先がイフレニィの母国トルコロル共王国。三人の王を戴く国である。

 ボペルは外交官としてアィビッド帝国領を訪れており、長子のイフレニィは父親の仕事を学ぶべく付き従っていた。内心では、それにかこつけて国から離れていたい気持ちが大きかったこともある。父の仕事の手前、口には出さないが、イフレニィはあまり母国のことを好いてはいない。だからといって、帰れなくなることを考えたことなどは微塵もなかったが。


 異変が起きたのは帰路、回廊の一つ手前にある街へ辿り着いた夜のことだ。街は封鎖され足を止めることとなる。各国に跨り、その情報網を誇る旅人組合からの懸念が、即座に各地へと報告されていたのだ。

 国を通じ領主から伝えられた緊急発令によると、北方との連絡が途絶えたため、詳細が判明するまで動かぬようにとの指示だった。


 しかし手掛かりは間もなくもたらされる。夜が明けるころから、北からの避難民が次々と流れてきたのだ。数日の内に、街の周囲を埋めるような人が集っていた。それなりに広い自治領である割には少ないとの話だったが、その理由は人々を愕然とさせた。辛くも逃れた者達が見たのは、回廊の消滅。

 文字通り、跡形もなく、全てが消滅したのだと興奮のままに叫んでいた。

 周辺の村で被害を逃れた者達はその光景を見たわけではないが、間近で空の変容を見ている。音の奔流も、イフレニィらが聞いたものとは比較にならない破壊音だったようで、空が落ちてくると恐怖に取り乱し一斉に逃げてきたのだという。避難民達の話に、想像以上の深刻な事態だと悟る。


 回廊周辺ということは、当然だが港も破壊されているだろう。

 ボペルは貴族で外交官といえども、さして権限があるわけではない。国同士の交渉といった大仕事ではなく、各地との交流に派遣されていたような立場だ。しかも帝国に比すれば格下の国。兵や旅人組合らに詳細を求めたところで、無下にされることはなくとも、伝えられるのは一般市民への報と大して変わりのないものだった。

 アィビッドを筆頭に各国は迅速に対処中であり、混乱を落ち着かせるべく、国内の守備をぎりぎりまで割いてでも兵を派遣し、状況把握に走らせているという。街の警備兵達も、続く緊張状態に目を血走らせ、それまでの陽気さは失われたかのようだった。端々の空気から何かが全て変わってしまったのだと感じ、イフレニィは慄いた。

 イフレニィ達のような一時滞在者は宿に閉じこもり、何も出来ず、ひたすら続報を待ち続けるしかなかった。


 ようやく帝都からまとまった調査団が派遣されて、この街を通過したのは、異変から一月も後のことだ。しかし調査団はすぐに舞い戻った。

 大陸を繋ぐ中継地として賑わい、旅人組合の北方最大拠点でもあった街パスルーは、噂の通り消え失せていたと告げられた。高台から回廊を見やると、まるでそこを中心に、海一面が抉り取られたかのようだった。元あった街並みどころか、草木は消え失せ、大地に亀裂が走り崩れかけているのだと――。

 その状態は、あまりに危険だということで、回廊周辺は完全に封鎖するとの触れが出された。


 調査団の報にボペルと従者らは、狭い宿の室内で苦い顔を寄せ合うようにして話し合いを続けていた。

 近場に帰る術はなく、かといって動向が落ち着くのを待つこともためらわれた。帝国側からすれば帝都近辺の災害ではないし、辺境の地に対して、この状況を元にどう判断を下すかも分からない。後回しになるのは確実だ。ボペルらにしてみれば、その危険な場所のすぐ側である母国がどうなっているのか、気が気ではないのだ。突然の岐路に立たされたボペル達は、このような時勢に護衛とするには不安な旅人を雇ってまで、部下を情報収集のために他の街や国へと向かわせることにした。

 イフレニィは蚊帳の外で、それらを見ているだけだ。次第に臨時の拠点となってしまった、この街での生活に馴染んでいった。


 一年も経過した頃、かき集められた情報が突きつけられる。

 ――トルコロル共王国は、滅びた。

 回廊の街がそうなら、ほど近いトルコロルが完全に無事なはずはない。それでもボペル達は、信じたかったのだ。免れている街もあると、一つの国が簡単になくなるものかと。

 しかし国力の割にトルコロルの領土は広くない。帝国などは荒野の中に街が点在しているようなものだが、トルコロルは王城の塔が全ての街や村から見える程度だったのだ。一つの街が消滅するほどの災害ならば、トルコロルも消えたと考える方が自然だろう。

 思わず力が抜けたようにボペルは机に手をつく。項垂れた顔が、これまでにないほど蒼白にイフレニィの目には映った。


 もはや後ろ盾はない。人生を縛るものも、導くものもない。

 それでもボペルは、力強く宣言する。

「戻ろう」

 部下らも、その面に決意を込めて頷いた。


 国へ戻る他の手立ては気が遠くなるものだ。二つの大陸が渡れるほど近付くのは、北端と南端だけという話だ。北が駄目なら南端の港から渡り北上するという、大きく迂回する道となる。

 長い行軍となる。情況の分からない中、ただ目指すには、あまりにも長い道程。そして長く移動するには、情勢も最悪だった。帝国と、西に隣り合う砂漠の国々は長いこと争っているが、これを機と見て攻めてきたのだという。そのせいで民も殺気立っており、治安は極度に悪化しているとの話だ。陸続きにある国々では、隣国の民が押し寄せることを懸念して国境を封鎖するなど、様々に影響しているという。

 街が消滅した話は、瞬く間に広がっているのだろう。人々が恐慌状態に陥っていても、なんら不思議はない。なんせ、どの国からもあの空を見たという情報が入ってくるのだ。

 事実、各地に手配した部下のうち戻らなかった者もいる。だからボペルも、この街を拠点に留まってきたのだ。本国からの連絡があると信じてでもあった。今動くのは無謀ともいえる。だが、印が血を流した日から体調が思わしくないボペルは、焦っていたのかもしれない。

 最低限の物資を掻き集め、未だ混乱の渦中を、無理を押して出立した。


 整備をする者もなく、荒野と変わり果てつつある街道を南下し幾日か経った。部下の騎士や従者達と研鑽を積んだ、剣の腕を持つ父が不覚を取った。いや、日々衰弱していたのだ。国まで歩きとおせるのかさえ定かではなかった。他と比べれば身綺麗な一団は、貧する者の格好の獲物となる。盗賊に身をやつした者に襲われたのだ。

 傷付いた騎士の一人が、イフレニィに声をかけている。イフレニィには言葉の意味が理解できない。何を言っていてもどうでもよかった。ただ静かに、物言わぬ父の体を揺すり続けていた。


 あえなく出た街に戻っていた。

「イフレニィ殿……いえアンパルシア様、共に国へ帰りましょう。お父上に代わり、全力でお守り致します」

「もど、る?」

 何処へ。

 言いかけた言葉を飲み込む。彼らの中にある帰ろうという意志は強い。イフレニィとは違い、長く国で過ごしてきたのだ。しかも幾人かは騎士だ。

「もう、俺に仕える理由もないだろう。俺は、残る」

 そもそもトルコロルの騎士が忠誠を捧げるのは王だけだ。任務の一つとしてボペルの下に派遣されたに過ぎない。

「何をおっしゃいますか。遺志をお継ぎください。それがお父上の望みでした」

 外交官は世襲制というわけではないが、後を継がせる思惑はあっただろう。だがその国がない。

 父の遺志――国の為に、粉骨砕身すること。

 イフレニィにとって、そんなことはどうでもよかった。父についていたかっただけだ。他に目的はなかった。好ましく思えなかった国とはいえ、彼らの言葉に拒否感を抱いたわけではない。ただ、それが自分のものとは思えないのだ。父もなく、国もないならば、その道を進む理由もない。

 もう幾つか幼ければ、郷愁の念に囚われていただろうか。一人残されるのが心細くて、大人しく彼らに守られて帰っていたのだろうか。

 だが二年近く、この街で父らと共に仕事をし生活してきた。短いながら、肌で人の営みを感じられる濃い時間だった。国にいた貴族の身なら、立場上長く学ぶ必要があり、成人と呼ばれるにはほど遠い。しかし街人は、十六も数えると大人同様に仕事を与えられる。イフレニィは十四を数えたところだが、自分ひとりが食べていく程度には働けたことも後押しした。

 一時混乱に陥っていた各地の組織も回復しつつある。旅人組合も拠点ごとに活動を維持していたようだったが、全国に繋がりのある人材斡旋組織としての機能も、平常時に戻りつつあるという。そして復興には少年の手でも必要だ。イフレニィに外への興味はないが、何でもやりながら食い繋ぐつもりでいる。


 年齢的に反発心も芽生えていたのだろう。この混乱の中で目にする、大人達の振る舞いに心底嫌気が差していたこともある。帰国を強く促されるも、主を失った部下達に解散を告げた。結局イフレニィは、馴染み始めたこの街で身を立てる決心が揺らぐことはなかった。

「主王のご加護を」

 第一の部下だった男が、代表して別れを告げ去っていく。無念そうな、諦めたような、それぞれの視線を受け、それでも黙って見送った。

 今後は自立して生活せねばならない。一人投げ出された、いや自ら選んだこの地、この人生にしがみつく。そのことに欠片ほどの後悔も湧かなかった。とはいえ、熱意ともほど遠い。

 彼らの背が遠ざかって初めて、イフレニィは気付いた。故郷を厭わしくさえ思い始めていた理由。それが、彼らの瞳に宿っていたことに。

 常に彼らは忠義を尽くす先を欲しているようだった。父親が亡くなれば、さして興味を向けることもなかった息子へと傅く。それが己の意思を持たないようで、どこか不気味に思えたのだ。他の国では見られない、そういった空気が息苦しかったのだと思い至った。



 多くの問題が後を引きずりながらも、各国が平時の機能を取り戻したのは、災害から三年も経った頃だ。せめて後一年、いや半年でも旅立ちを遅らせていれば、父もまだ生きていたのではないか。長いこと、そんなもしものことが浮かんでは頭から離れず苦しんだ。

 それも、いつからか気が付かぬうちに、あの異変から父亡き後の記憶は曖昧になった。おかしなことに、僅かばかり過ごした国での幼い頃の思い出の断片は、歳を重ねるごとに鮮やかに彩られていく。父に付いてまわっていた為、自宅で過ごした時間は長くはなかったというのに。

 疑問に思う。

 災害のもたらした結果が、あまりにも現実離れしていたからだろうか。実は王の誰かが生き残っていて、国を立て直しているかもしれない。母や幼い頃からの知り合いが、生きているかもしれない。そう思って必死に戻ろうとした方が、自然ではなかったか。

 今さらな疑問だ。

 不信感や屈折した反抗心、様々な理由はあったろう。結局のところ、最も慕っていた父を失った、悲しみと絶望にのまれていたのだ。何年も経ったある日、ふとそう気が付いたが、すでに旅立つ機会はない。たとえ当時に塞ぎ込んでいるだけだと理解したとて、決断は変えなかっただろう。


   ◆


 今は、道具屋の物置だった屋根裏を借りて暮らしている。狭くとも自力で生きている証明だ。十分満足していた。今晩のように感傷的な時は、小窓を開いて備え付けの棚に尻を預け、酒を呷る。あの日から、空を飾り続ける亀裂を忌々しく睨みつつも、漂う光の美しさに目を奪われながら。

 このささやかな日常を生きる。道具屋の家主との踏み込まない関係。仕事上がりに酒場で共に馬鹿騒ぎする気のいい男達。食堂の愛嬌のある看板娘に元気づけられる客の一人として、イフレニィも街を構成する一部だ。特別さなどない。必要ない。

 当たり前の日常が続くこと。それ以上に、心穏やかでいられることはないのだから。

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