歪む平穏
第2話 旅人イフレニィの日常
目の高さにある小窓の下に据付の棚がある。そこに置かれた手の平大の曇った鏡を、弱い光を頼りに覗き込んだ。無造作に跳ねる白銀色の髪をかき上げると、腫れぼったい目蓋の下から、くすんだ淡い青色が見返した。
小刀を取り出し、ざらつく頬に刃を当てる。髭を剃りながら、どんな仕事があるかと予定ともいえない予定を考える。
同じ日々だ。
小刀を置くと、水瓶から布を湿らせ顔を拭う。その辺に放っていた、擦り切れたシャツやズボンを身に付けた。肩から斜め掛けの革紐で固定した、同様に革製の胸当て。腰の厚い帯革には、短めの片手剣。補助の細い革紐には、水筒などの袋を幾つか括りつけてある。装備は無いよりはましなものだったが、靴だけは丈夫な物を選んでいた。編み上げ靴に革製
最後に、旅人である象徴を手に取る。曇天色で腿丈の、あちこち糸くずが飛び出た少々厚手の
身支度を終えたイフレニィは梯子を鳴らしながら降り、壮年の親父の後ろ姿を目に留めた。家屋の主人で木工細工職人でもあるクライブ・ユテンシルは、すでに仕事を始めていた。
狭い家だが一階で道具屋を営み、二階はクライブの住居となっている。屋根裏の広さは各階の半分もなく、天井だって頭が付く高さしかないが、イフレニィは旅人組合に属してから今まで長いこと世話になってきた。仕事して、戻って寝るだけの生活には十分だった。
「早いなイフレニィ。飯食っていけよ」
軋む床板でイフレニィの所在を知ったクライブは、品物の整理をしながら振り向きもせずに話しかけた。
「パンだけ貰う」
イフレニィも特に目を向けることなく、店番用の丸椅子に腰掛けて板壁に背を預ける。一つ小さな溜息を吐き、渋々と勘定台に置かれていた木皿から一つを手に取った。正直、胃がもたれていたのだが、食わないと後が煩い。彼の善意であり、不摂生の結果による文句などつける資格はないのだ。硬いパンを力任せに千切ると、イフレニィは黙って口に押し込んだ。
「酒は飲んでも呑まれるな。覚えとけ」
溜息を聞きとがめられたようだ。クライブ曰く、イフレニィがぼんやりして見える朝には言われることだった。大抵は、そこで会話も終わるのだが今日は続いた。
「今朝は依頼出してるから、うちの仕事受けてくれ」
「直接頼めよ」
「馬鹿言え。馴れ合いは御免だ」
形ばかりの言い訳だ。そう言ってクライブは時にイフレニィに仕事を振る。子供の内から厄介になったからだろう。二十を数える歳になった今でも保護者気取りのクライブに、イフレニィは苦笑で答えた。
「また後で」
口の水分を取られる欠片を水で流し込むと、イフレニィは店を出た。このやりとりもまた、毎朝の何気ない生活の一部だった。
旅人組合に向かう道。朝の冷えた空気を顔に受けながら歩く。アィビッド帝国北方自治領、現在は北端の街となったコルディリー。徐々に昇る日に色を取り戻す街並みへ、イフレニィは目を向けた。白茶けた砂交じりの石壁に、木板の屋根を葺いた二階建ての家屋が連なる。辛うじて舗装の行き届いた道沿いには店舗が並び、開店準備を始めている。この商店街の外れに、一軒だけ硬い岩のような壁の、そっけない旅人組合事務所がある。
ぼんやりと旅人組合の興りに思いを馳せる。
かつて世界中を巡る者だった旅人だが、各国が組織化し協定を結んだ結果、今や日雇い仕事に精を出す人間の方が増えたといわれている。イフレニィのように。
加盟国間ならば国境を気にせず移動できるのだが、大抵の者は地元を出る事など考えないものだ。イフレニィの場合は拠点を移動するのが面倒臭い気持ちが大きい。また特に興味も、出歩く懐の余裕もない。
目的地に着き、扉の開け放たれた戸口へと足を踏み入れる。既に顔見知りも幾人かいて、壁に張り出された依頼を物色しているようだ。曖昧に挨拶を投げかけ受付へ直行する。顔を見た途端、前置きなく伝えられた。
「いつもの指定依頼入ってるわよ」
「ああ聞いた。検品に納品だろ。午前中に終わる。他にもないか」
「北の村外れで人手がいるの。小川に橋を渡すそうよ」
「それで」
面倒くさがりなところのあるイフレニィは、掲示板の依頼を見るのをやめ、職員と直接やり取りするようになっていた。
こうしてイフレニィは仕事を請け負う。クライブの愚直な心尽くしに、ありがたくも情けないような気持ちになりつつ来た道を戻った。
国外れの大きくはない街だが仕事は多い。力仕事ばかりだが雑用が多ければ日々の暮らしには困らない。異変の後、生き残った者達を受け入れる必要に迫られ、組合本部から特別予算が組まれた。イフレニィのような難民は、そうしたものに助けられ、手を貸す代わりに飯の保証を得たわけだ。復興活動が進み、急激に増えた人口が雑事への雇用を支えている。
その原因――目の端で空に翻るものを僅かに意識すると、振り切って道を急いだ。
住んでいる場所に戻ってくるということを少しだけ馬鹿馬鹿しく思いながら、店内へと声をかける。
「旅人組合から、無愛想な店主の仕事を引き受けにきました。いてっ」
「でかい図体で入り口を塞ぐな」
ふざけたイフレニィの背中をクライブが叩いた。
「荷物、外に出してたのか。俺の仕事を減らすなよ」
「狭い店にいつまでも置いてられんよ。任せたぞ」
クライブは言いながら奥に引っ込んでいく。その背を見送ったイフレニィは、店の側面に回ると人一人通れる程度の隣家との隙間に入り込んだ。そこに積まれた木箱を見て蓋を開いた。大量の筆記道具など食えはしないし金にもならないが、盗まれたらどうするのかと呆れてしまう。
中身を確認すると己の仕事に集中する。上部に置いてあった注文書を確認しながら、品物の数をそろえ届け先毎に小分けしていく。仕事自体は大した労力ではないが、街の端から端まで届けるので時間がかかる。店主一人でやっているので、届け先が多いときは店を空けずに済むようイフレニィに頼んでくれる。というのはクライブの理屈だ。
一仕事終えると昼だ。肉体労働者界隈で人気の大衆食堂へ向かう。単調な味だが、安く量が多い。イフレニィもその恩恵に与る一人だ。昼には一気に押し寄せる客を捌くために、店の外まで席を並べている。
「はいお待ち」
「ディナ、こっちも」
「あいよ、ちょっと待ってね」
看板娘が喧しい客の間を精力的に移動している。ほんのり汗ばむ日に焼けた顔に屈託の無い笑顔と元気な声は、店の空気を明るくする。その元気のお裾分けを受け、午後も頑張って働くぞと気合を入れるのだ。
「イフレニィ、また飲み過ぎたでしょ! これおまけしておくね」
腹に収められれば良いとばかりに食に無頓着なイフレニィに、彼女は時々野菜をおまけしてくれる。今日は人参だ。彼女曰く「しょぼくれた顔」の時らしい。苦笑しながら、それを受け取った。
もっと味わえと怒られながらも、かき込むように平らげる。北の村は多少距離があるため急ぎたかったのだ。
「仕事頑張ってね!」
ディナの声を背に受けてイフレニィは足早に立ち去った。
半ば走るようにして村へ着いたイフレニィは、早速指示を受け、伐採した木材を運ぶ同業者に混ざる。
そこへ、血相を変えた村民が駆け込んでくるや叫んだ。
「せ、
その場にいた者は一斉に動きを止め、黙した。
平穏な日常は、終わりを告げる。
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