精霊界の崩落は亡国の魔術式を発動する
桐麻
一章 旅立ち
序
第1話 今に続く過去
薄暗い部屋の動かない空気が鼻腔を冷やす。酒が残る重い体を引き摺るように寝台から這い出すと、小さな木枠へ手を伸ばし、開いた窓から新鮮な空気を吸い込んだ。
日が昇る前の柔らかな光さえ腫れぼったい瞼を刺すようで、イフレニィは微かに目を眇めた。だが目を逸らすことはない。
空を焼く光とは別の輝きを見ていた。
夜空で輝くはずの銀河が空に架かっている。昼間だろうとお構いなしに、我が物顔で空を区切る光の帯だ。
紺、紅、白銀――三色が絡まり合うような光の川。
なんの感情を浮かべることもなく、ただ一瞥すると瞬きする。次には今見た存在などなかったように日常へと戻った。
それは癖だ。気が付けば習慣となっていた。嫌でもそこにあるものを視界に収めるだけであり、なんの感想が湧くでもなく無意味な行為。
無意識に追っていたことに気付いた当初は、そんな自分自身に眉をしかめたものだが、起床時に習慣で窓を開くのと同じようなことだ。見たくなかろうが、それはそこにある。ほんの一時のことだ。必ず目を留めてしまうからと、その後の予定に支障があるわけでもない。ならばと諦めて、ささやかな儀式めいた朝を受け入れた。
十年。
ほぼ毎日続けてきたことが異常なのかどうかさえ、すでにどうでも良くなっている。それが他人のことなら、あれを無視できないのも仕方がないと考えるだろう。世の中を震撼させた厄災が残したものなのだから。
だがイフレニィにとっては逆だった。何も感じないのだ。日中は忘れている。夜は飲んだ帰り道で見ることはある。だが、必ず朝に目が行く。
恐らく、あれが現れた時に、呆然と見上げていたからだろう。まだ子供だったのだから自覚する以上の衝撃を受けていておかしくはない。
あの日、空を割って現れたあれを、何もできないまま皆が見上げ夜が明けていった。冬でもないのに急激に冷え込んだ空の下、吐息を白く染めながら。
立ち昇る霞の向こうに、揺らめく死の河をただ見上げていた。
実のところ、それが死を印象付けたのは、翌朝を迎えてからだ。
多くの人々が避難してきたために、実際に何が起きたのかを耳にすることはできた。しかし彼らが口にしたことは非現実的であり、理解しがたいものだった。
それに現実感が伴ったのは、即日、国が厳戒態勢を敷いたという領主からの報によるものだ。あの日は各所で衛兵が、詰め寄る者を牽制しながら声を張り上げていたのを覚えている。
街や国境は封鎖されて身動きが取れなくなり、旅の途中で立ち寄ったイフレニィ親子ら一行は、この街で息をひそめるような生活を余儀なくされる。
ほどなくして、祖国が滅びたと知った。
それでも国へ帰ろうとした父は、暴徒に襲われ命を落とした。
目の前で冷たくなった体を、揺り動かしていた。何度も、いつまでも。
庇護者を失い、行く当てもない。なにより、戻ろうという気力を失っていた。
そしてイフレニィは、足止めされた街の住人となった。
空の帯は多くの者にとって、そうした一連の負を象徴するものとなっていた。
だから、憎んでもいいはずなのだ。恨みつらみや世の不条理を胸に折り重ねるのならば理解も出来る。
だが、あれに目を留めたからと心に波は立たない。それどころか、なんの感慨さえ。ただ辺りを確かめるのと同じように目をやる。それだけだ。
だからこそなのかイフレニィには、時にその息を殺したような静けさが、やけに煩わしく思えた。
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