アスモデウスの罠

凪野海里

アスモデウスの罠

 ここにリンゴが1つ、あります。そのリンゴは何の変哲もない、普通のリンゴです。

 そこへ三宅みやけくんが現れました。三宅くんはお腹が空いていましたから、もちろんそのリンゴを食べようとします。

 ところがふと顔をあげますとそこには空腹に倒れた私――花籠はなかご美雪みゆきが。

 さて、それでは三宅くんはそのリンゴをどうするのでしょうか?



 俺はバナナの皮を剥きながら、ちらっと花籠を見た。


「そんなの決まってるだろ。リンゴを半分に割って、おまえに差し出す」


「ふんふん。それで?」


「それで? そうだな、えっと……」


 バナナを一瞬のうちに食べ終え、俺はゴミ箱にバナナの皮を投げ――あ、はずれた。

 ふと、何か不穏な空気を俺は感じて、花籠を見ると、彼女は俺をぎろっとにらんで「人でなし」とののしった。

 失敬な。まだ何も言ってないだろ!


 花籠はわなわなと震え、「愚か者! 人でなし! 地獄へ堕ちろ!」と俺をののしってきた。


 リンゴ1つに対してそこまで言うか? ていうか、リンゴ分けてやるって言ったし。何が悪かったのか。

 わけがわからず腕組みをして考える俺に、あいつはキックを食らわせようとする。

 慌てて避けようとするが、そのときわずかに花籠のスカートの下が見えそうになった。


「!?」


「なっ!」


 俺は慌てて花籠から視線をそらし、あいつは慌ててスカートをはたいて中を隠した。

 またもぎろりと鋭い眼光でにらまれるが、スカートがめくれたのは俺のせいじゃない。あきらかにお前のミスだ。


「まったく、サイテーですね」


「いや、今のはおれのせいか?」


 勘弁してくれ。

 花籠はムムムと怒った顔をしながら、「もういいです」と言って俺の脇を通ろうとした。

 あ、と花籠が叫ぶ。その足が床にあるバナナの皮を踏んづけた。


「ひゃっ」


「花籠!」


 バナナの皮によって滑った花籠を、俺は慌てて受け止める。そのとき、柔らかなモノに触れた気がした。

 柔らかで、ふわっとした……。


 ん? ふわ?


「あっ!」


 俺の手は花籠の柔らかな、柔らかな、女性の、む、む、む、胸をぅ…………!


「は、花籠……」


 恐る恐るあいつの顔を見ると、花籠は顔を耳まで真っ赤に染めて、目には涙を浮かべていた。

 俺は慌てて花籠から離れ、周囲にいるクラスメイトたちを1人残らずにらみ、床にあるバナナの皮を指差した。


「だっ、誰だこんなところにバナナの皮落としたやつはっ!」


「こんの変態野郎ぉっ!」


「ぐほぉっ!」


 花籠の鋭い拳が俺の腹をつらぬくように入った。



 俺は幼い頃からちょっと面倒な体質の持ち主だった。

 突然風が吹いたかと思えば、目の前を歩く女のスカートがめくれたり。

 あるいは、階段から落ちた女を受け止めようとしたら顔に胸が突撃してきたり。

 ようするに、ラッキースケベのきらいがあるのだ。

 これのせいで、俺は幾度となく言い逃れできようもない、被害に遭ってきた。


 やはり一度、お祓いでもしてもらうべきだろうか。いやしかし、ラッキースケベが本当にお祓いの対象なのか? これは単なる体質であって、変につついたら余計に悪化しそうで恐ろしい。

 このままでは、女子と付き合うどころか、それ以前に告白だってできやしない!


***


「美雪ちゃん、まだ三宅くんに告白できてないの?」


 親友の森里もりさとの言葉に、美雪は顔を真っ赤にしてこくりとうなずいた。

 森里は信じられないと言いたげな顔をしながら、首をかしげた。


「どうして? だってあの三宅くん、明らかに他の女子との接点ないし、脈なしじゃん。かまってるのは美雪ちゃんだけっていうか。なら告白の1つくらい簡単に」


「私、気がつくといつも、三宅くんに暴力振るっちゃって……。そういう女って、男の人は普通嫌いでしょ?」


「あー……」


 たしかにたいていの男は、暴力的な女は苦手だと言うことをどこかで聞いたことがある。ましてや、それを日常的に繰り返しているというのだから、下手したら。


「相っ当ーに嫌われてる可能性ありそうだね」


 そうつついてみると、美雪は「はぅ!」と変な声をだして撃沈した。


「このままだと、私……。三宅くんに告白できないまま、学校卒業しちゃう……」


 なお、卒業式はすでに来週に控えている。美雪も三宅も、それぞれ進路が違ってしまうため、これを逃したらもう二度と会えないだろう。

 携帯のメールアドレスとか聞いておけば、なんて可能性もあるけれど、悲しいことに美雪は携帯を持っていないのである。


「放課後に、一緒に帰ってみたら?」


「ほ、ほほほほ放課後に!? 一緒に!? 帰るっ!?」


 激しい動揺っぷりを見せながらオウム返しをしてきた美雪に、「うん」と森里はうなずいた。


「そ、そんなの……ま、まままままるで恋人同士みたいじゃないっ!」


「誰もそんな風に見ないと思うけど」


「いーえ、見るわ絶対にっ! たとえばよ、たとえば。森里ちゃん。電車内で同じ制服の高校生が、一緒に楽しそうに話してたら、どう思う!?」


「……付き合ってるんだぁ」


「でしょ!?」


 そんなハレンチな~、とまで言い出す美雪はすでに、ショート寸前である。まったく、うぶすぎるにもほどがあるな、と森里は少しばかりあきれていた。けれど半分くらい面白くもある。

 しかし、まもなく卒業式も近い。つまりいつまでもこのままでは、森里自身が楽しくなくなってしまう。


「あ、三宅くん」


「えっ!」


 美雪の背中の向こう。道の角から三宅が今まさに歩いてくるのを、すぐさま森里は視界にとらえた。


「三宅くーん」


「ちょ、森里ちゃん!?」


 森里が両手をメガホンのようにして名前を呼ぶと、三宅は初めて彼女たちに気がついた。

 すたすたとこちらに歩いてきて、「なんだ?」と問いかけてくる。


「ちょっと相談があるんだけ」


 そう口を開きかけたそのとき、窓から急な突風が。


「あ」


 その風は美雪と森里のスカートの裾をさらい、一瞬にして持ち上げてしまう。


「ひゃあっ!」


 美雪はすぐさまスカートをはたき落とし、森里はぽかーんと口を開けていた。

 美雪がすぐさま三宅を見ると、彼は顔を真っ赤にして、口をぱくぱくさせていた。


「変態――――!」


「違ぁうっ!」


 否定する三宅だったが、彼の頬には無慈悲にも美雪の拳がダイレクトに入った。

 床にのびてしまった三宅に、気づいた美雪は顔面蒼白させた。


「や、やっちゃった~……」


「やっちゃったね」


 森里は倒れた三宅をつんつんと軽くつついた。


「って、森里ちゃんはもうちょっと危機感もってよ! なんでスカートまくられたのに、そんな平然と!?」


「だって私、下に体育着のハーフパンツ履いてるもん。ほら」


 森里は立ち上がり、ちらっ、とスカートの裾を持ち上げて、その中を堂々と美雪に見せた。

 たしかにそこには、学校指定の体育着のハーフパンツが見えている。

 美雪は信じられない思いでそのハーフパンツを見つめた。


「三宅くーん、起きてる? ていうか生きてる? あのね、美雪ちゃんがね、今日三宅くんと一緒に帰りたいんだって」


「森里ちゃん!?」


 三宅がぱちり、と目を開いて体を起き上がらせた。


「花籠が俺と?」


「うん。最近電車内で痴漢流行ってるでしょ? 男の人が1人でもいたほうが、美雪ちゃんも安心だからって。ね?」


「森里ちゃん、何言って!」


 森里は美雪の肩に腕をまわして、そっと彼女の耳にささやいた。


「よく考えてみようよ、美雪ちゃん。これはチャンス。チャンスなんだよ? それにこれは、美雪ちゃんのためでもあるの」


「私の、ため?」


 森里は深くうなずいた。


「卒業まであと1週間。ここでアタックしなきゃ、もう二度と機会は訪れないよ」


 森里の瞳はいつになく真剣だ。その彼女を見て、美雪は深い感動すら覚える。いつも彼女には助けられてばかりだった。そして今回も。彼女は1番大切な友達だ。自分が苦しいとき、常に傍で支えてくれ、楽しいときは共に笑ってくれた。

 その友達の厚意に答えなければ、これは友達失格だ。


「わかった。――三宅くん」


 名前を呼ぶと、三宅は殴られて腫れた頬をおさえながら、「ん?」とこちらを向いてきた。


「私と一緒に、帰ってください」


***


 これは夢か? あるいは現実?

 俺はただいま脳内混乱中だ。だって今、俺は花籠と――女子と帰っているのだから。

 帰宅ラッシュに見事に重なってしまったせいか、身動きがとれないほどに、人、人、人、で溢れ返っているが、俺としては幸福な時間だった。花籠はいつも暴力的だが、この際、女子と帰れるのならかまわない。それに花籠は珍しく黙って、電車に揺られていた。

 にしてもこいつ、黙ってれば本当に美人なんだよな。そう思いながら俺はしげしげと花籠を観察してみる。

 髪は艶のある黒だし、肌は雪のように白く、頬は健康的な薔薇色だ。目はぱっちりとした二重で、唇なんて柔らかそう――。


 なんてことを考えていると、不意に花籠と目があった。途端、あいつの両の瞳がぎろっと鋭く光る。


「何見てるんですか、変態」


 はいはい、前言撤回。

 全然美人じゃないわ、こいつ。


 そのとき、電車が急ブレーキをかけた。俺は後ろにいた人に軽く背中をおされる。


「おわっ……!」


「ひゃっ!」


 むに。


『……えー、急停車失礼いたしました。前の踏み切りで直前横断がございました。失礼いたしました』


 …………え?


「す、すまっんっ!」


 俺はすぐさま花籠から離れるが、唇に触れたわずかな感触はどうやら消えそうにない。

 花籠は顔を赤くして呆然と俺を見ていた。その手がわなわなと震えて、自分の唇へと触れた。


 つまり俺たちは、今。不慮の事故でキスをしてしまったのだ。


「ち、違う。違うぞこれは!」


 やばい、パンチが飛んでくる――!

 覚悟を決めて目をつぶった俺だったが、いつまでたってもその衝撃は訪れない。

 恐る恐る再び目を開けてみれば、花籠は先程と変わらず、顔を赤くして硬直したままだった。

 やがて電車が動き出す。


 花籠は小さく、本当に小さくつぶやいた。


「……つ、次からは気をつけてくださいね」


 やがて電車は花籠の最寄駅へと到着した。


「また明日、三宅くん」


 そうしてはにかんだ花籠を、俺はその日。初めて「女子」と意識した。


 

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アスモデウスの罠 凪野海里 @nagiumi

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