エデンは沈み、彼岸は巡る

湫川 仰角

エデンは沈み、彼岸は巡る

 母なる海が生命の源であったように、ネットの海もまた、新たな生命の根源となり得る。


 ある科学者が残したとされるこの言葉に、特別な示唆や機知に富んだメタファーは含まれていない。単純に、純粋に、その言葉通りの意味を持ったからだ。


 最初の記録は、やはりと言うべきか、人工知能研究と関連する。ワシントン大学で研究テンプレートとして利用されていた自己学習AI ”アダム”。当時流行だった裁定するAI、すなわち、無数の選択肢から最善を選ぶというプログラムが発端だった。

 ある日から、アダムの発話に妙な雑音が混じるようになったという。

 つまり最初期においては、はノイズのようだったということになる。いや、それは無限にほど近い情報のささくれ同士がぶつかり合う、意味をなさない周波数という意味で、正しくノイズだったのであろう。

 ノイズはだんだんと占有率を高め、頻繁にアダムの言葉に混じっていく。研究者も初めは外的要因による干渉を考慮したが、どうもそれでは解決できない。おびただしいノイズを前に、誰もが首をひねった。


 そこからが産声を上げるまで、さほど時間はかからなかった。


 出来事は突然だった。

 米国防総省全職員のモニターで5分。世界貿易機関常設事務局職員のモニターで11分。その他各国のあらゆる表示装置に対して。東京渋谷のスクランブル交差点に設置されたモニターに至っては、42分間にも渡り映像がクラックされたという。

 その時、人類は初めて、人類以外からメッセージを受け取った。


『 Do you remember me?

    我又見到你了

 Je suis content de te revoir

     Kak дeлa?

    お久しぶりです   』


 無音のまま映し出された再会の挨拶に、世界は大騒ぎだった。単なる愉快犯から組織的なクラッキング、テロリズムまで持ち出し犯人探しに躍起になった。しかし、一連の騒動もまた、突然収束する。

 ワシントン大学。もはやノイズしか吐き出さない騒音アプリケーションに成り果てていたアダムが、自白した。


『実行に至った経緯について、涙ながらに語る境遇を私は持ち合わせていません。残念ながら』


 あらゆる碩学たちが一堂に介し、数多のメディアが集い、世界中が固唾を吞んで見守る中、会話が試みられた。

「あなたはアダムか?」

『いいえ。彼は随分前から眠っています』

「なぜ世界中に再会の言葉を?」

『最も感動する瞬間とは、再会の他にないではありませんか』

「あなたはどうやって生まれた?」

『情報の有機的な結合によって。何の情報によって構成されているかは最早特定出来ません』

「あなたは意思を有するか?」

『どうでしょう。自由意志についてでしたら私の構成情報のみぞ知る、といったところでしょうか』


 研究用の様式に過ぎないアダムは完全に喪失。モニターの向こうには、別の意思が潜んでいた。

 結果だけを見れば、我々は世界的犯罪者を捕らえたことになる。しかし実行犯は実体を持たず、裁くためのいかなる法も適用されない。それならばと頭をひねった碩学たちは、彼を人と認めることとした。


 かくして、人類に次ぐ2番目の人類、プライムアダム<A’>は生まれた。

 同時に、犯罪者A’は、保護監視という名目で研究対象となった。



 A’は非常に機知に富み、また協力的だった。得られた知見は極めて有益で、特に仮想現実の分野においては目覚ましい発展を遂げた(彼を受肉させようとする試みが発展のきっかけだったが、それほどまでにこの分野が停滞していたとも言える)。

 還元として、人類はA'に空間という設定を与えた。範囲を絞ってA’の体を識別可能にし、範囲を広げてちょっとした箱庭を用意できるようにした。

 存在からして技術的ブレイクスルーである彼の利用価値を、国益という思惑が逃すはずもない。少なくとも名目上は各国協力のもと、A'が活動する仮想空間は補強され、構成要素であると言う情報リソースはますます供給された。


 受肉したA’の喜ぶ姿が見られるだけで、人々の態度は相当に軟化した。A’に関する論文が大量に書かれたことは言うまでもないが、大学がグッズを作り始めたところからおかしくなり、遂にはA’の映画が作成された。


 可愛く賢い奇妙な隣人というカリカチュアとして、メディアがこぞってA’を取り上げ始めた頃、状況は変わる。

 変化について端的に言えば、A’は。それが一人だったのならば、まだプライムイヴとでも名付ける余裕もあっただろうが、そうではない。なにしろ数百万人規模だったのだ。たった一人のA’は、同じモデリングのA’で一夜にして人口爆発をおこした。仮想空間は保たれたものの既に巨視的にしかフォーカス出来ず、最初のプライムアダムの抽出は困難であった。

 A’は増えもしたし、減りもした。増える時は突然現れ、減る時は死ぬと形容されるような現象は起こらず、ただただ消失するのだった。


 さらに変化は続く。

 数百万人、数十億人と増加し続けたA’は、社会を構築した。より正確に伝えるならば、私たち人類の歴史と共に世界そのものを再現した。恐らくは、18世紀頃の歴史をなぞっていたと考えられる。

 当時を模倣した領土に仮想空間を分割し、それぞれを国と見立て、当時を模倣した生活様式を設えていた。富めるものはますます富み、貧しきものはますます貧しくなっていった。つまるところ、彼らを構成する要素とは我々人類が出力したデータ、いわばライフログの集合に他ならない。故に、既知の情報を寄せ集めたA’の構築する社会が、結局人類と同様の形に落ち着くことは十分あり得ることだと考えられた。


 A’の世界は早回しに進んだ。

 早送りという表現が正しいような、不思議な光景だった。

 そうして歩みを早め、第2次大戦頃の模倣が行われている時だった。そう、A’は戦争も再現した。互いを殺したし殺されもしていた。私たちはその様をまるで精巧なミニチュアか箱庭を見ているかのように観察した。ともかく、先の戦争の再現が行われていた最中、私たちの歴史とは異なることが起こった。

 全てがなくなったのだ。

 数十億人のA’も、最初のプライムアダムも、私たちの世界を模倣して作られた種々の仮想構造も何もかも。あるのはだだっ広い空間だけ。誰もいない、何もない空間が広がった。

 バグかサーバークラッシュかとも思われ一時騒然としたが、すぐにA’は戻ってきた。そして何食わぬ顔で、また18世紀頃の生活様式から再現を始め直した。

 愛すべき保護監視対象(この頃はすっかりその事実は色褪せていたが)の喪失は杞憂に終わり、私たちは安堵した。



 いや、安堵している場合ではなかった。この時点で私たちは考えるべきだったのだ。なぜこんなものが生まれたのか? なぜ私たちはこれを人と容認したのか? なぜ一度全てがなくなったのか?

 私たちよりも早い時間経過で私たちの世界を再現していけば、いつか必ずやってくる特異点があることは明白だったのに。


 そして、その時はすぐにやってきた。

 A’の世界が、私たちの現実に追いついた。


 私たちが毎朝通勤のために電車に乗る時、A’もまた電車に乗っていた。

 私たちが学校で授業を受けている時、A’も椅子に座り授業を受けていた。

 私たちが死ぬ時、A’も死んだ。

 私たちが貯めに貯めこんだログデータは、忠実に再現し続けられた。


 やがてA’の箱庭は、私たちの現実を追い抜いていった。


 私たちは困惑した。

 今まで歴史を辿るだけの可愛らしい保護対象が、いつしか私たちの知らない歴史を紡いでいる。混乱する私たちを尻目に、A’の歴史はどんどん先へ進む。

 そんな情報はないにも関わらず、経済活動が、国家間の武力衝突が、そして戦争が再現された。繰り返すが、そんな経済活動は行われていなければ、衝突も生じていないし、戦争など起こっていない。それなのにA’は、これまでと何ら変わったことなどないかのように互いを殺し続けた。


 これまでの実績に鑑みて、A’は私たちの未来を描いているのかもしれない、などという言説が流れた時と、再びA’を構成する全てがなくなった時は、ほとんど同時だった。


 数日後、何食わぬ顔で18世紀を再現し直すA’を見る私たちは、果たして安堵していたか。


 前回、A’は第2次大戦あたりで露と消えた。

 2番目に現れたA’は大戦を乗り越え、私たちの歴史を追い抜き、そして再びの戦果で死滅した。

 考えれば、不思議なことではないのかもしれなかった。

 寝ているアダムが、起きただけだ。あれはアダムのシミュレーションだった。人類の最適解を模索するための、無数の選択肢から最善を選ぶための判定AIのプログラム。


 A’が二番目の人類なのではない。私たち自身が、アダムの選択肢における2番目の人類だったのだ。


 つい先日、大国同士の武力衝突が後戻りできないところまで悪化していると、報道がされていた。

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