戸次川の死神

信濃 賛

戸次川の死神

「兄上が……討ち死になさった……?」

香川五郎次郎は驚きのあまり箸を取りこぼす。

「はい、戸次川からさきほど報せが届きました」

「父上は? 父上はご無事なのか?」

「生死不明、だそうです」

「……そんな」

父というのは長宗我部ちょうそかべ家当主・元親もとちか、討ち死にした兄というのは嫡男である信親のぶちかのことだ。

秀吉の九州平定に従軍した元親・信親。その緒戦である、後に戸次川へつぎがわの戦いと呼ばれる戦は、敵方である島津優勢に始まり、終わった。

「こちら側の軍監ぐんかんをしている秀久殿が功を焦ったという報せは来ていたが。まさかそれが原因で兄上が……」


 五郎次郎の脳裏に信親がよぎる。元親に似て柔和な顔をしていながら、腕も一流。さらには頭も回り、品行方正という誇るべき兄。それだけでなく、信親は長宗我部家の嫡男であった。そんな兄急死の報せは、五郎次郎にとって予想だにしなかったもので。

(兄上が亡くなられたとなると、跡継ぎになるのは順当にいって次男である私。だが……)

偉大すぎる兄を持った弟は、自分のことを卑小に評価するようになる。五郎次郎も例にもれず自分を過小に評価していた。

(私などに当主が務まるはずがない)


嫡男に信親がいるため、五郎次郎は自分にお鉢が回ってくることはないと考えていた。それに、五郎次郎の中には当主として奔走する偉大なる父・元親の印象が強く残っている。それがますます彼を不安に陥れる。

五郎次郎は頭を抱えた。自分が当主になる事を考え、その先のことを考えれば考えるほど、自分の及ばなさをひしひしと感じる。

(なぜ兄上が死んでしまったのか。これが私であれば……)

考えても仕方のないことまでもが頭をよぎった。

だんだん目の前が真っ暗になっていく――


「して、いかがなされますか」

ふと臣下にするどく問われ、我に返る。目の前には、光を望むように五郎次郎を捉える臣下の双眸があった。

 ――それは、家臣が君主をみる目そのものだった。

(これが、父上が見ていた風景……)

そのまなざしは五郎次郎に重くのしかかった。だが、そのまなざしを向けられるものとしての義務がその瞬間、五郎次郎に生まれたのは確かだった。

「……」

信親は死に、元親は行方知れず。万が一の場合、自分が家をまとめなければならない。力不足でも、長宗我部の家に生まれた者としての責務は果たさなければならない。

 ――自己否定に陥るのは、今ではない。

パシン。五郎次郎は頬を叩いた。これは責務を放ろうとしたことに対する罰だ。

「済まぬ、取り乱した。利庵、感謝する。して……」

五郎次郎は不安を押さえこんで、最重要事項を確認する。

五郎次郎が当主としての責務に当たる前にやるべき、最初のこと。それは。

「まずは父上の安否を確認しなければ」

消息不明の当主・元親の安否確認だ。当主が生きているとなれば家がバラバラになる危険は回避することができる。考えうる限りの最善手だった。

「では、私の配下の者に当たらせましょう」

臣下の一人がそう進言する。

「まかせる。藤左衛門、そなたには私と共に長宗我部の今後について考えてもらう。よいか?」

「承知しました」

これから忙しくなる。五郎次郎は取り落した箸をみつめ、拾い上げずに立ち上がった。その目には確かな覚悟が存在していた。



この時の五郎次郎の活躍は、時の権力者である秀吉の耳にも届いた。

「なんと。長宗我部は土佐の出来人と千雄丸のほかにこれほどの大人物を擁していたか」

秀吉は五郎次郎の働きを認め、一通の朱印状を送った。


この書状は長宗我部家を大いに騒がせた。

「五郎次郎様、書状にはなんと? 何と書かれているのです?」

妻のおかげがしつこく問うてくる。五郎次郎は朱印状を開く。

「……これは」

朱印状には、万が一の場合、五郎次郎が四国を治めることを認めるといった内容のことが書かれていた。

「なんと! 秀吉様が認めてくださったんですね!」

こちらを見ていうお景。人懐っこい顔がほころぶ様は見ていて嬉しいものだった。

「五郎次郎様?」

だが、五郎次郎の顔は晴れやかではなかった。

「……」


お景はそんな様子から心中を察し、弾んでいた声を抑えて聞いた。

「不安なのですか?」

このお景、夫婦になってからそう長くはないのだが、なかなか五郎次郎のことを分かっていた。五郎次郎はちらりとお景をみる。

「……不安だ。私には正しく臣たちを導く度量がない。いまも、滅亡の道を行かせているのではないかと、父上が築き上げた長宗我部の家の名を汚しているのではないかと気が気でないのだ」

不安から五郎次郎の手が震える。信親の死からいままで、誰にも打ち明けられなかった、自分の中に押し込めていた言葉があふれだした。

お景は五郎次郎の言葉を真摯に受け止め、ゆっくり口を開く。

「おなごであるわたくしにあなた様の感じてらっしゃる重圧は到底計り知れるものではないと理解しています。が、五郎次郎様。そんなわたくしにも分かることがあります」

お景は五郎次郎をまっすぐ見る。

「あなた様が、当主としてあろうともがかれていることです。当主様がいない中その責務をしっかと果たそうと日々苦しまれていることをわたくしは存じております。臣を導く度量など後からついてくるものです。大事なのは、家のために奔走されたというその事実です。どうか、胸を張ってくださいませ、五郎次郎様。あなた様はかの秀吉殿に認められたのです。でなくとも、わたくしたち家のものがあなた様の尽力をしっかとみております。どうか。どうか――」

お景は五郎次郎の震える手をとる。その手はとても柔らかく、優しく、温かかった。

「どうか、自分を見下さないでください」

「――」

手の震えが、徐々に治まっていく。体に活気が湧いてくる。先程まで心を占めていた不安がどこかへ消えてしまう。

彼女の言葉に救われたような気分になった。

五郎次郎は今ほどこのお景を愛おしいと思ったことはなかった。



信親討ち死にの報から十数日経った頃、宇和海に浮かぶ島から使者がきた。

日振島ひぶりしまから使者が来ました! 元親様はご存命であられるそうです!」

「それはまことか!」


その数か月後、やつれぼろぼろになった父・元親が城に帰ってきた。

「父上!」

駆け寄っていく五郎次郎。だが、元親の反応はなかった。元親は上座にドスンと腰かけると、

「みなのもの、何をしている。く、信親を弔わんか!」

と、声を荒らげて怒鳴りあげた。

――これは、本当に父上なのか?


元親が戻ってきたことによって五郎次郎は当主代行の任を解かれた。

「元親様が戻られて本当によかったですね」

お景は五郎次郎からもらったかんざしを手でもてあそびながらいう。

「……」

しかし、五郎次郎からの返答はなかった。ちらりと五郎次郎の方を見ると、彼はなにやら深い思索にふけっているようだった。しばらく待つと、

「……あれは本当に父上なのだろうか」

と、独り言ともとれる、呟くような声が返ってきた。

「と、おっしゃりますと?」

「あれは、私の知っている父上とはかけ離れた何かだという気がしてならないのだ……あ、いや、すまぬ。今のは忘れてくれ」

五郎次郎はそう言い残すと寝室へ消えていった。

「五郎次郎様も変なことをおっしゃりますね……。ですが、……たしかに」

彼の言った言葉を咀嚼したお景だが、やがて何かに思い至り、もてあそんでいたかんざしを髪にさし、すくっと立ち上がると居室を後にした。







その翌日のことだった。


お景とその父親である香川之景が物言わぬむくろとなってみつかった。


状況からどうやら、お景は権力闘争の場に偶然いあわせ巻き込まれてしまったようだった。






遠くで誰かの慟哭がきこえた。

悲痛で、悲哀で、悲愴で、悲寥ひりょうで、悲惨な叫び。

それが自分の口から出ていることに、彼は気づこうとしない。

その叫びは耳を壊し、のどを壊し、心を壊してしまっていた。

手にはまだあの時のぬくもりがあった。

耳にはまだあの嬉々とした声が響いていた。

目にはまだあの人懐っこい顔が残っていた。


目の前には受け入れがたい事実が、転がっていた。





五郎次郎は、その後、岡豊おこう城下の屋敷にこもった。


食べ物がのどを通らずにすぐに吐くようになってしまった。


彼は、自分はいつからこんなに弱くなってしまったのかを考えた。


答えは明白だった。


もともと弱かったのだ。


そんな自分を優しく支えてくれた人がいたのだ。


その支えを失えば、もとの弱い人間に戻るのは理の当然だった。


五郎次郎は小太刀を腹に当てた。


だが、脈動を止めるため力は入らなかった。


「私は、こんなにも、こんなにも……」



それから数日が経った時、元親からの書状が五郎次郎のもとに届いた。

その書状には、病状を心配しているという風なことと、次の妻についてのことが書いてあった。

五郎次郎はこの書状をびりびりに破り捨てた。

お景とともに死んでいたお景の父・香川之景の家、香川家は先の失態で取り潰しにあっていた。そんな香川家と、縁組を組んでいても理はない。ならば、他の家と組んだ方がよい。

「だから……! だから殺したって言うのか!!」

手が、震えた。不安でなく、怒りで。こんなやり方があっていいのか。こんなことが許されていいのか! あの死神に人の心はないのか!!


五郎次郎は倒れた。怒りと憎しみのあまり脳が不具合を起こしたようだった。

(絶対だ! 絶対、この恨みを晴らしてやる……!)


だが、思いと裏腹に、脳の不具合は程度を増し、五郎次郎を喰いつぶす。

(すまない、お景……。私が弱いせいで、復讐を果たせそうにない)


徐々に、徐々に、五郎次郎は弱っていく。当主代行時代からの無理がたたったのだろう。

(お景。私が敬愛した二人目の人。なぜ君は私と会ってしまったのだろう)



(もし……、許されるのならば。もう一度、君……と――)




「秀吉殿から朱印状が、五郎次郎に? なぜそれをはやく言わぬのだ! まったく、もう手遅れではないか」

死神はそう、笑いながら言ったという。

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