僕の兄ちゃん

月満輝

僕の兄ちゃん

 僕には、一つ年上の兄ちゃんがいる。僕よりも背が高くて、僕よりも走るのが早くて、僕よりも友達が多い。僕にも、僕の三歳年下の妹にもとても優しい。三兄弟の中でも一番頭がよくて、真面目だ。いつでも一番の兄ちゃんがかっこよくて、羨ましかった。僕は、兄ちゃんの大きくて、かっこいい背中を追ってきた。

 その事に違和感を覚え始めたのは、中学二年の春だった。

 成長するにつれて、兄ちゃんを追いかけたい気持ちが追いつきたい気持ちに変わり、それが追い越したいという気持ちに変わった。兄ちゃんは学校でも一番頭がよくて、運動神経抜群だった。僕は、兄ちゃんよりもいい成績が出したいと、必死で努力した。家でも学校でも、空き時間があれば勉強し、兄ちゃんと同じバスケットボール部に入部し、練習も死ぬほど頑張った。それでも、兄ちゃんには届かなかった。追い越すどころか、追いつくこともできなかった。

 ある時僕は気づいた。僕がどれほど努力しようと、兄ちゃんには適わない。クラスで、学年で一番になっても、嬉しくなかった。だって、兄ちゃんにはほど遠いから。そして僕は、努力したって無駄だと思うようになった。そう思うと、勉強も部活も、必死で取り組むことが馬鹿らしくなって、全部やめた。その時、僕はようやく気づいた。

 全てを捨てた僕には、何も残らなかった。

 友達もいない、趣味もない。授業についていけなくなり、部活のない放課後を一人で過ごしている間に、僕は、得体の知れない吐き気に襲われた。それが虚無感だとわかった時、僕は暗い部屋で一人、ベッドに横になっていた。こんな自分がどうしようもなく嫌で、翌朝目覚めるのが苦しくなった。


「家、出る時間だぞ」

 朝七時、兄ちゃんは僕の部屋の前で、いつもの様にそう声をかけに来た。僕は息を殺した。この部屋にいることがバレないようにというわけではなく、ただ、兄ちゃんに僕の存在を気づいてほしくなかった。

「じゃあ、先に行くからな。体調、よくなったら、お前もこいよ」

 足音が遠のき、下の階で玄関が開く音がした。母さんが「いってらっしゃい」と声をかける。妹が慌てて兄ちゃんの後を追う音も聞こえた。しばらくして、足音が近づいてきた。

「具合どう? 朝ごはん持ってきたわよ」

 部屋の前に朝食のトレーを置く音が聞こえた。母さんはため息をついて去っていった。重たい体を起こし、ドアを開けた。すると、ハラハラと何かが白いご飯の上に落ちた。折りたたまれたルーズリーフだ。広げてみると、そこには綺麗な、兄ちゃんの文字が並んでいた。ざっと目を通す。最後の文に、目と思考が止まった。


『お前は、俺の自慢の弟だ。』


 間違いなく、励ましの言葉だった。一番の兄ちゃんに褒められた。自慢だと言われた。何者にも変え難い喜びだった。

 数年前の僕からすれば。

 弟、次男。それは変えられない事実。変わらない二番目の立ち位置。僕は、どう足掻こうと一番の兄ちゃんを追い越せない。それを直接、兄ちゃんの言葉で、兄ちゃんから改めて思い知らされた。

 全身が熱くなる感じがした。悔しさ、憎さ、妬ましさ、羨ましさ……押さえ込んでいた全ての感情が爆発した。朝食のトレーを蹴散らし、ルーズリーフをビリビリに引き裂いて、大声で叫び散らした。母さんに取り押さえられて、車に乗せられたところまでは覚えている。その後、気づいたら、病院のベッドで横になっていた。


「お兄、大丈夫?」

 妹は、心配そうに僕の額を撫でた。僕は軽く頷いた。

「兄ちゃん、もうすぐ部活終わるってさ」

 スマートフォンを操作するその手を掴んだ。妹は目を丸くして僕を見た。そして、間を置いて手を振りほどいた。僕は凄い形相をしていたことだろう。

「来なくていい……そう、伝えて」

「え、なんで?」

「いいから。お前ももう、帰りなよ。母さん心配するよ」

「そんな、どうして……」

「いいから帰ってよ!」

 ビクッ、と彼女の肩が揺れた。そして、何も言わずに病室を後にした。急に叫んだからか、頭が痛くなった。目を閉じて横になると、いつの間にか眠った。

 そして、夢を見た。夢には兄ちゃんが出てきた。兄ちゃんは僕に背を向けていた。兄ちゃんは振り返り、僕を見て笑う。それから、左手を上げて、ひらひらと手を振る。


『じゃあ、先に行くからな』


 歩き始めた兄ちゃんは、数歩歩いたところで、一瞬にして黒い影に飲まれた。僕は、暗闇の中を、兄ちゃん、兄ちゃんと呼びながら歩いた。淡い光に手を伸ばし、進み続けると、目が覚めた。


 枕元に母さんと、先生がいた。母さんは僕が目覚めたのに気づくや否や、僕に私服を投げつけた。

「すぐ支度をしなさい」

「どこか、行くの?」

「病院よ」

「病院、って、ここじゃ……」

「   」

「……え?」


 兄ちゃんはいつも僕の先を行く。いつでも僕の前で、僕より先に進んでいってしまう。今もそうだ。

 兄ちゃんは、事故で死んだ。白い布を剥がすと、そこにあるのは、兄ちゃんのものとは思えないほど、陥没した頭が現れた。泣き崩れる母さんを、妹は震えながら部屋から連れ出した。僕は、何故かその頭から目が離せなかった。

 こんなの、兄ちゃんなわけがない。だって、兄ちゃんはもっと凛々しくて、綺麗な顔をしていた。それに、運動神経抜群の兄ちゃんが、事故なんかで死ぬはずがない。そうだ、きっとこれは兄ちゃんじゃない。だって、兄ちゃんが死ぬ必要なんてないんだから。なんで僕なんかが生きて、兄ちゃんが死ななきゃいけないんだ。なんで、なんで、なんで……


 数週間後、家に知らない母娘が訪ねてきた。僕は玄関から聞こえてくる会話に耳を傾けた。


 どちら様ですか。

 先日、亡くなられた息子さんのことでお話が……

 お話することはありませんので、お帰りください。

 ま、待ってください!

 ちょっと、何してるんですか!

 本当に申し訳ございません!

 やめてください、こんな所で。なんなんですか一体!

 息子さんに、娘を、娘を救っていただいて……


 泣きながら話す女性、止めどなく涙を流す少女の姿が目に浮かんだ。少女は、本当に苦しかっただろう。僕なんかよりも、何倍も。僕は、声を殺して泣いた。兄ちゃんは、本当に、僕の誇りだ。



 数年後、僕は首席で高校を卒業、トップクラスの成績で大学に入学した。母さんと妹は、僕を誇りだと言った。妹は、友達に僕のことをよく自慢するらしい。照れくさいが、嬉しかった。だが、成績が一番でも、バスケットの試合で優秀選手に選ばれても、生徒会長に推薦されても、心からは喜べなかった。きっと、どれもこれも、兄ちゃんには適わないだろうから。

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僕の兄ちゃん 月満輝 @mituki_moon

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