さよなら、階段

阿尾鈴悟

さよなら、階段

 ある学校の卒業式の最中、二人の女子生徒が校舎へと入った。どちらも制服を身に纏っている。

 二人は、そそくさと上履きに履き替えると、四階立て校舎のほとんど人通りがない一角に腰を下ろした。理科の実験系教室が並ぶ二階の階段近くである。

「これが最後のチャンスでしょ?」

 暗い茶髪で耳に掛かる髪型をした女子生徒が言う。

「別に最後じゃないよ。いつかまた会えるかもしれない」

 もう一方の黒髪で肩丈まで髪を伸ばした女子生徒は、ややうつむき加減でそう答えた。

 この黒髪の女子生徒──川上桜子の意中には、一人の男が常にいた。部活に入り出会った先輩で、初めこそ漠然としていた想いを募らせていたのが、いつしか、それを好意と認識するようになり、二年が経った今では、見かければ充分、挨拶出来れば僥倖、話しかけられれば手は踊り狂い足は地面に着くことを忘れるようになった。それでも、想いは内に秘めるばかりで行動に移さず、今では、伝えたいとも、伝えようとも、伝われとも思っていない。

 しかし、友人たちによって、半ば無理矢理、想いを伝える機会を設けられてしまった。彼女は自分でも気付かぬ内に、恩を友人に売ってしまっていたらしい。時折、出しもしない恋文を書き綴ることをしていたら、殊の外、想いを伝えるのが巧くなってしまい、いつの間にか、「恋文の先生」として、同学年に限らず、先輩後輩、果ては教師にまで及ぶ、たくさんの友人兼生徒が出来ていたのだ。その友人たちによる一方的な恩返しとして、桜子には一時いっときのチャンスが押しつけられたのである。

「そのいつかは二度と来ないと知りなさい」

 暗い茶髪の橋本菜々美は、語気を強めながらも、呆れたように首を振った。彼女こそが計画を発案した張本人であり、その隠しきれない嬉々とした表情が、どうも誰のためにやっているのだか分からなくさせる。その様子に桜子も呆れたように溜息を吐いた。

「別に私は『いつか』が来なくても困らない」

「あんなに想いの籠もった手紙を書いて置いて、今更、何を言ってるの?」

「想いを外に出すのと、想いを伝えるのは、似てても大きく違うんだよ」

 そこで二人は、再び、意味の違う溜息を吐いた。

「とにかく、覚悟を決めなさいよ。実際、少しは期待してたんでしょ? 今日、制服を着て、学校の近くまで来ていたのが、良い証拠じゃない。大事そうに手紙まで持って」

 桜子にそういうつもりは決して無かった。ただ、折角、ここまでして貰っておきながら、当日になってやはり止めるなどと言い出すのは、いくら強引だったとはいえ、友人たちにも先輩にも失礼なのではないかと思ったに過ぎなかった。

「でも、渡すのは良いとして、返事はどうするの?」

「メールアドレス書いた」

「なるほど。だからって、渡してすぐに逃げちゃダメだからね? 少しくらい話しなさい」

 菜々美は左手の袖をめくり、手首にはめる腕時計を見た。桜子は卒業式の後、少しだけ先輩に会えるとしか聞かされていないために、菜々美の予定に従うしかない。

「そろそろかな……。芝崎先輩がこの階段を上ってくるから、その踊り場で話して」

「え」

「もう少し、雰囲気のある場所が良かったよね……。でも、解散になると、どうせ、お祝いと称した食事会があるだろうし、最後のホームルーム前を狙うと、こういう場所しか無かったんだよ。許せ」

 こつこつ、と階段に足を掛ける音が聞こえた。

「よし、行こう!」

「ちょっと待って。まだ、心の準備ができてない……」

「けれど、時は待ってくれない!」

 菜々美は桜子の背中を物理的に押した。倒れ込むように踊り場へと入れられ、桜子は階段の下に先輩を見る。

「あれ、川上? 何でいるんだ?」

 駆け上がってくる先輩に、桜子は踊ろうする手で浮き上がる足を押さえ、急ぎ髪型と身なりを整える。いざ目の前にすると、ほぼ二人きりでいるという状況に気が付き、初めて先輩への緊張を覚えた。

「いえ、その、忘れ物を……」

「ああ、今日くらいしか学校、開いてないもんな」

 改めて今日という日が何の日なのかを突きつけられ、桜子の胸に余白が生まれた。いや、余白と呼ぶにはあまりに空虚な、空悲しいものだ。

「卒業、おめでとうございます……」

「おう、ありがとう。実感、無いけどな」

 自虐気味に笑った後、先輩がはっとする。

「そうか。そういえば、卒業したんだから、先生の言うこと、聞かなくて良かったのか……。失敗したな。梅ちゃん先生、卒業祝い、職員室に忘れて来ちゃうんだもんなあ……」

「そうですね……」

 何も良い返しが浮かばず、桜子は同意を示すことしか出来なかった。それから、先輩も取り立てて話すことがなくなり、二人の間を沈黙が押しつぶす。

「……それじゃあ、元気でな」

 哀調と慈愛が滲むような、先程とは全く違う笑顔を先輩は見せた。桜子の横を通り過ぎ、上へと続く階段に足を掛ける。

 見送りそうになる桜子は、大きさを増す胸の空虚に少しうつむき、隠すように持った手紙を思い出す。

「先輩!」

 足を止めて振り返った先輩に、皺の付いた手紙を差し出す。

「その……。後で読んでください……」

 理解が追いついたらしく、先輩の顔が上気する。桜子は少し可愛いと思った。そうして、一つの勇気に対する報酬が返ってくると、続いて欲が湧いて来た。

「あの……。第二ボタンを頂けませんか?」

 更に赤くなる先輩の顔。思わず吹き出してしまった桜子に、先輩の顔がますます赤くなる。桜子はついに笑い出してしまった。ボタンを引きちぎった先輩は、それを桜子に手渡すと、そのまま、一段飛ばしで階段を上っていく。窓から桜の花びらが散っていた。

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さよなら、階段 阿尾鈴悟 @hideephemera

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