卒業

卒業

 中学の卒業式から自宅に帰る道のり、駄菓子屋でキャラメルを買った。



 卒業式は午前中に終わり、校門では同級生が別れを惜しみあっていた。そんな中、僕はさっさと帰ることを選択した。別に友達がいないわけじゃない。数人に引き止められもしたが、それを振り払って逃げてきた。


 まだ気温の低い寒空の下を、枯れ木の間を縫うように歩いていた。その中にぽつりと建つあの駄菓子屋は、僕が子供の頃からそこにあった。

 思えば、魔が差しただけだったのかもしれない。

 ただ、そのとき僕は何か強いものに引っ張られて、気づいたらいくつかの貨幣と引き換えに、甘い匂いのする箱を手にしていた。

 片手に卒業証書を持って、キャラメルの箱は隠すようにポケットに入れ、小走りで錆びたアパートの玄関にたどり着いた。

 靴も脱がずに、おぼつかない手で懐かしい箱を取り出す。

 黄土色の、時代を感じさせるレトロな箱。それよりも少し濃い色をして中に並べられた、砂糖の塊。何本もの切れ込みが入っている。

 その綺麗に整えられた形を口に含む。

 そして、鼻腔までとどく、数年来の味に感動した。


 はじめてキャラメルを食べたのは、小学生の頃。遠足で遠くの公園に行った昼食後の自由時間、仲のいい友達から一つだけもらった。真夏の暑い気温で柔らかくなっていた固体は、噛んだ瞬間に甘さが口いっぱいに広がり、噛みしめるたびに味が濃くなっていった。溶け切った後も、歯に張りついた分まで必死に舐めた。

 それ以来、僕はその味が忘れられなくて、厳格な母にねだってまで買ってもらおうとした。しかし当然、「からだに悪いから」と断れた。

 母子家庭の鍵っ子として育った僕にとって当時の母の言葉は絶対的で、それ以上駄々をこねるようなことはしなかった。


 だから、本当に数年ぶりに噛みしめる味だった。

 靴を脱いで狭い台所のテーブルに座り、一人小さな幸せに浸った。母に背いて食べる甘いキャラメル。それは本当に甘かった。

 今なら、もしかしたら夜遅くまでゲームをしても平気かもしれない。テストで悪い点を取っても、帰りが夜中になっても、母の八つ当たりに文句を言っても、今なら、平気かもしれない。

 なんの根拠もなく、でも本当にそう思えた。

 幸福な味と幸福な思考は僕の脳髄を満たし、不安などかき消した。

 それこそ、に気づかないくらいには夢中だった。


「――それ、何食べてるの?」

 玄関に立って僕の手元を指差す人影は、母だった。

 心臓が乱暴に鳴るのが血管を伝って全身に届いた。

「――――あ……、これ……、ごめんなさいっ…………」

「何を謝ってるのよ。それよりこの荷物、運ぶの手伝ってくれない? もう重くて重くて」

「へ………?」

「へ? って何よ。確かにあなたがそんなもの食べるのは驚いたけど、それで怒ったりしないわ。でも、昼食前だから控えめにね」

 全身の血の気が引くのを感じた。

「え、まって、キャラメルは、からだに悪いから食べたらだめだって……」

「何言ってるの。それは昔の話でしょ? いいわよキャラメルくらい。もう高校生なんだから」

 と、母は笑った。

「それより、荷物が重いの。運ぶの手伝ってくれない?」

 母は袋いっぱいに詰められた祝いの品を、ふらふらとテーブルに持ってきた。

「え、もしかして、もっと前から食べてよかったの?」

「もういいじゃない、その話は。ちょっと怖いわよ」

「あ、ごめん……」

 母から荷物を受け取って、そのあと僕らは二人で昼食を摂った。でも、どんなものを食べたかはあまり覚えていない。





 陽がずいぶん落ちた頃、僕は友人の家に行くことにした。というより、気づいたら彼の家の前まで来ていた。

 手入れされた庭の中心に建つ立派な家。そこの住人は、インターホンを鳴らすとすぐに出てきた。

「青い顔ですぐ帰るから心配したんだ」

 と、本当に心配そうな顔で背の高い好青年は言う。


 彼はタケ。野球部のエースで、高校も推薦でどこか有名なところに行く予定だった。学校の名前はよく思い出せないけど、僕でも聞いたことがあるくらいだからきっと有名なのだろう。


「ごめん。あのときはちょうど、急な用事を思い出して」

「急な用事って?」

「話すから、家に上げてくれないか? 玄関で話すなって母さんに言われてるんだ」

「あ、そうだな」

 そう言って彼は僕を二階の部屋まで上げてくれた。彼の両親は僕の訪問に慣れていて、いちいち顔を出したりはしない。リビングからテレビの音が聞こえたから、きっとバラエティーでも見ているのだろう。

 幸せを絵に描いたような家庭だ。


「それで、用事って?」

 キイッと軋むドアを閉めるなりタケは聞いてきた。そして、漫画と教科書がいくつか並んだ本棚を背にどっしりと座った。

 僕はその反対にある彼のベッドに腰掛ける。

「タケ、キャラメルって食べたことあるか?」

「は? あるよ。それがどうした」

 タケの顔は、心配を通り越して少し不機嫌だった。

「僕は小学生の頃、タケにもらって食べたのが初めてだったんだ。それまで干し梅とバナナがおやつだった僕にとって、その味は衝撃だった。だから、あのあと母さんにねだってみたんだ。でもやっぱりだめで、それ以来僕はキャラメルを食べてなかった」

「だから、それがどうしたんだよ。お前の母さんが厳しいのは知ってる」

「今日、帰りに黙って買って帰ったんだ。なんでか、あのときは母さんがいつもみたいに怖く感じなくて。久々に食べたけど、美味しかった。それで、台所で食べていると母さんが帰ってきて、見つかったんだ。僕はそりゃあ怒られると思ってひやひやしたわけだけど、母さんはそんなこと気にもとめていない様子で、荷物を運べって言ってくるんだ」

「それで?」

「それでって?」

「だから、それがどうしたんだよ」

「終わりだよ。僕はそれが耐え難くって、気づいたらここまで来てたんだ」

「………それが、か?」

 僕が頷くとタケはため息をついて立ち上がった。


 そんなにおかしなことを言っただろうか。確かに、少し興奮して話しすぎたのかもしれない。


「お前、今日はもう帰れ。きっと疲れてるんだ。母さんは、お前の敵じゃないぞ」

「わかってるよ、それくらい。僕は、そんな話がしたいわけじゃないんだ」

「じゃあなんだよ」

「だから、さっきから言ってるじゃないか。母さんは、キャラメルを食べるなって言っていたのに、今日は僕が食べているのを見ても何も言わないどころか、気にしてすらいなかった。これを聞いて、なんとも思わないのか?」

「思わないよ。お前ちょっと怖いぞ」

「な……っ」

「いいから、今日は帰れ。もう陽も暮れるし、母さんが心配するだろう」

 そう言ってタケは部屋のドアを開け、キイッという不快な音を鳴らした。視線で部屋から出るよう促し、仕方ないから僕は立ち上がった。


「どうでもいいけど、そのドア油を注したほうがいいよ」

 一階に降りると相変わらずリビングから賑やかな音が聞こえて、僕は小さく舌打ちした。





 家に帰ると六時を回っていたが、母は僕を怒らなかった。「おかえり」と笑顔で僕を迎え、祝いだと寿司を取って待っていた。

「あと数週間後には高校生ね。楽しみだわ」

「そうだね……」

 近所の高校を受験した僕は、数週間後には新しい制服を身にまとって飽きもせず、この部屋から毎朝学校に通うのだろう。それを考えるとやっぱり居た堪れない。


「それでお母さん、言っておきたいことがあるの」

 そう言った母はおもむろに語り始めた。

「実は、今の職場に素敵な人がいてね、なんていうか、結構いい雰囲気になってて、もしかしたら、っていうか、多分、再婚しようかなって、考えてるの。あなたが高校生になるまではって思って黙ってたんだけど、向こうが急かしてきて、今日話そうと思ってたの」

「…………え……?」

「それで、あなたさえ良ければ来週にでも引っ越したいの。どうかな?」

 何を言われているのか正直よくわからなかった。

 それでも普段の僕ならここで黙って従っていただろう。この日はやっぱりちょっとどうかしていた。


「そんなの、初めて聞いた」

「ええ、だから、黙っていようと思ってたの」

「でも、まだ高校生じゃないよ」

「急かされたのよ」

「ていうか、急に引っ越しとか言われても困る。こっちにも生活があるんだから」

「わかってるわ、多少すまないと思ってるけど、でも、家族が増えるのよ? いいことじゃない」

「多少? 多少って何。それに、他人と家族って言われても、そんな風に思えるわけないし、いいことって、それは母さんにとっていいことなだけじゃないか。僕も同じだと思わないでよ」

 今日の母のご機嫌がこの話のためかと思うと、胸糞悪かった。

「……なんでそんなこと言うのよ。私、今まで頑張ってきたじゃない。一人で子育てして、遊んでる暇なんてなくて、若さを売ってまで働き詰めて。大変だったのよ。努力してきたのよ。そろそろ幸せになってもいい頃じゃない?」

 と、母は瞳を揺らした。


 そのとき、自分の心が急激に冷めていくのを感じた。

 この人は、ただの人だった。僕の母である前に、それ以前にただの女だった。

 自分のことばかりでいっぱいいっぱいになって潰れている。そんな彼女がかわいそうで惨めで、恨めしかった。


「わかったよ、ごめん。母さんにはいっぱい迷惑をかけたし、僕も母さんの幸せを願ってるよ。さっきは驚いてきつく言ったけど、本当にそう思ってるから」

 すると母の顔は急に明るくなり、うっすらと浮かんでいた涙は嘘のように消えた。

「そうよね、あなたならそう言ってくれると思ってたわ。確かに、急だったから驚かせたわね。ごめんなさいね」

「ううん、いいんだ」

「それじゃあ、またあとで顔合わせして、来週には引っ越しましょう」

「うん」

「楽しみねえ」

「うん」




 その日の夜、母が寝ている間に、僕は片手にキャラメルを一粒握りしめ、潰れた箱は何枚かの一万円札とともにポケットに突っ込み、錆びたアパートを後にした。



 そして、家を出てから数十年、母には会わなかった。

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卒業 @Wasurenagusa_iro

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