メガネとゴリラと俺と

新巻へもん

2番が認める2番目の大人

「大石。後で職員室まで来てくれ」


 滅多に練習に顔を見せない矢島が珍しく顔を見せたと思ったら、呼び出しを受けた。矢島は俺が高校に入学してすぐに入部した野球部の顧問兼監督だ。縁なしのメガネをかけた線の細い若い数学教師でとても運動が得意そうでない。しかも一人称がいい大人なのにボク。あまり好きなタイプじゃない。


 ユニフォームから着替えて職員室に行くと矢島が席を立ち、学食に俺を連れて行った。自販機の前で飲み物を買うと俺にも好きな物を選べと言う。俺は断った。施しなんて欲しくない。

「俺はいらねえ。それより話ってなんだよ」


 すると矢島は勝手にスポーツ飲料をもう一つ買って近くのテーブルに俺を誘った。

「運動後は水分補給をちゃんとした方がいいと思うけどな。まあ、飲みたくなければ好きにするさ」

 そう言って、矢島は自分の分の栓を開けると一口飲んで切り出した。


「夏の地区大会なんだが、大石には2番打者を務めて欲しい」

 それを聞いて俺の全身の血が滾る。なんだと俺に2番をやれというのか?

「イヤだと言ったら?」

「それは困るな」


 勝手に困ってろ。俺なら4番、100歩譲って3番はいけるはずだ。3年の飯野先輩と吉田先輩が去年は3番・4番だったらしいけど、俺の方が打率はいい。なんだよ、最後の夏だから3年優先とかそういうことか? 歯ぎしりする俺の前で矢島は言葉を続ける。


「そうしてくれないと、甲子園が遠のいてしまう」

「は、何言ってんだ? わけ分からねえよ」

「ボクの見立てでは、君が2番に入ってくれた方が甲子園に行ける確率が高い」

 矢島はメガネの真ん中をクイと指の中指で押し上げながら言った。出た指クイ。いちいち動作が気障なんだよ。


「はっ。俺に送りバントをさせようっていうのか。それなら牛島で十分だろ」

「いや、牛島もいい選手だが2番じゃないな。君しか適任はいない」

「俺の方が打率もいいし、勝負強いはずだ。先輩たちを3番・4番にするから俺が2番なのか?」


 俺の言葉を聞いて矢島はにんまりと笑う。

「なんだ。4番を希望なのか。君も旧タイプなんだな。4番が花形だと思ってるわけだ」

「そりゃそうだろ。俺は打撃に自信がある。長打力だってある。だったら」


「だったら、2番だ」

「なんでだよ。馬鹿じゃねえの?」

 思わず教師をバカ呼ばわりしてしまい、相手が怒り出すかと身構えたが、矢島はまったく意に介さない。


「野球は何イニングまである?」

「ふざけてんのか」

「極めて真面目だよ。何イニングまである?」

「9だ」


「ということは、全員出塁できなかった場合、打順は何回回ってくる?」

「3回だ」

「分かってるじゃないか」

「何がだよ」


「つまり、一人出塁できれば、打順が一人後ろに回る。1番打者は4打席目が回ってくるわけだ。あともう一人出塁できれば、2番にも4打席目が回ってくる。3番・4番よりも打順が回ってくる確率が高いんだよ。だからお前を2番に据えるんだ」

「そんなの机上の空論だろ」


「1番の林は目がいい。選球眼も確かだ。足も速い。あいつならかなりの出塁が見込める。バントじゃ林はホーム踏めないだろ。お前の長打で生還させるんだ。これで先制点は頂き。心理的にかなり有利になれる」

「じゃあ俺はフルスイングしていいのか? それは2番打者の仕事じゃないだろ」


「論より証拠だ。これを見ろ」

 矢島が手に持っていた雑誌を広げてよこす。英語で書かれたその雑誌の付箋のついたページには数字が並んでいた。

「見ろ。これが打順ごとの打点だ。3桁得点してチームで一番打点を上げているのは誰だ?」


「2番……」

「そうだ。これがメジャーの今のスタイルだ。数学や統計的にも合理的。ボクの言いたいことは分かったかい?」

「でも、なんで俺なんだ。それなら飯野先輩でも吉田先輩でもいいじゃないか?」


「飯野も吉田も逆境に弱い。ただ波に乗れば力を出すタイプだ。その波をお前が作るんだよ」

 俺は黙りこくってしまう。理屈はなんとなく分かる。だけど、まだ頭が追いつかない。


「この場で返事をしなくてもいい。ただ、できる限り早めに返事が欲しいな。ゴールデンウィークに練習試合の予定がある。そこでボクの理論を実証したい」

「うちみたいな弱小高の相手してくれる高校が良くあったな」

「高校じゃない。社会人チームだ」


 矢島はある会社の名前を告げる。昨年の都市対抗戦の優勝チームだった。プロ転向者も輩出している強豪チーム。

「は? なんでそんなところが」

「ボクが条件を出した。野球チームを出さないなら、お宅の仕事はもうしないってね」


「なんだよ高校教師に何の関係があるんだ?」

「ボクの副業さ。二つ返事でOKをくれたよ」

「公務員が副業していいのか?」

「もちろんバレたらボクは首だ」


「俺にそんなことを話していいのか?」

「ああ。これでボクの提案を君は何の心配もなく断ることができるだろう。君が4番にこだわれば、困難度は増すし正直甲子園は遠のく。でも君に強制はしない」

「なんでだ? なんでそんなことをする?」


 矢島はまたメガネをクイとする。うざい。

「だって、君は甲子園に行くのが夢なんだろ。ボクにも君の夢を見せてくれ」


 次の土曜日、中学の母校に遊びに行った。中学の野球部の顧問の強羅先生に会いに行くためだ。強羅先生は体も大きくて毛が濃い。だからついたあだ名はゴリラだ。だけど、このゴリラは俺が唯一信用する大人だ。


 中3のときに俺にとある事件が起きて、結果的に強豪校への推薦が取り消しになった。その時に俺を最後まで信じたのはゴリラだけだった。その事件以来、ゴリラは学校脇のコンビニを利用していない。そのせいで数百メートル先の別の店まで出かける羽目になってもだ。


「久しぶりっす」

 挨拶する俺にゴリラが笑う。

「お、来たな。そろそろ来るかなとは思ってたんだ」

「なんだよ、ゴリラ。卒業した俺がそんなに恋しいのか?」


「相変わらずの減らず口だな。ああ、俺はお前の元気な顔が見れてうれしいぜ」

「やべえよ。その発言。人が聞いたらキモがるぜ」

「まあいいや。お前が来たのは矢島先生の件だろ」

「ちぇ。お前らつるんでんのか?」


「いや。俺は矢島先生に頼まれてお前のスコアブックのコピーを渡しただけだ。わざわざ乗り込んできて驚いたよ」

「えっ?」

「新学期が始まって忙しいだろうにな」


「あいつに甲子園のことを話したな? あの事件のことも話したのか?」

「おいおい。俺があの件を話すわけないだろう」

「でも甲子園のことは話したんだ。勝手に俺の夢を話すなんてひどくないか?」


「こっちから話したわけじゃない。矢島先生がな、別れ際に言ったんだ。ボクは大石君と甲子園に行きますってな。思わず聞き返したよ。行きたいじゃないのかってね。そしたらはっきり言ったよ。『このスコアブックを見て確信しました。行きます。必ず』ってね。あまりに自信に満ちてるからつい言ってしまったんだ。それは大石も喜ぶでしょうって。それだけだ。お前もまだ諦めてないんだろ」


 しばらくしてから俺は聞いた。

「ゴリラは行けると思うか?」

「それは分からんな。ただ矢島先生のあの自信は本物だ。はったりじゃない」


 ゴールデンウィークの練習試合では4対5で負けた。矢島の言う通り俺は2番で出た。結果、うちのチームはいきなり初回に2点をあげてリードしたが、最後はそのリードを守れず逆転された。試合後、矢島は言った。

「これでいい。実戦データが取れた。別に練習試合で負けても痛くもかゆくもない。この経験を本番で生かせばいいんだ。しかも、お前たちの実力はライバル校に隠したまま。完璧だ」

 メガネをクイとして光らせる。相変わらずうざい。


 こうして、迎えた地方大会の組み合わせ抽選会で、主将が引いた相手はなんと昨年の優勝校。今年も2年連続出場の呼び声が高い。俺達が落胆したのを見て矢島はメガネを光らせる。

「一生の運を使わせちまったみたいで悪いな。最高の引きだ」


 いぶかる俺達に矢島は説明する。例によってクイとしてからだ。

「どうせ、いつかは当たるんだ。だったらお前たちの実力が未知数の初戦が一番いい。対策を立てようがないんだからな。下手に決勝で当たって見ろ、それまでの試合を見られて対策される。だからこれでいいんだよ」


「他の高校だって対策を立てるから同じじゃないか」

「いや。悲しいかな、対策を立てても実力がなければ無駄だ。昨年の優勝校と違い、みな旧態依然とした理論でやってる監督ばかりだからな。ボクの作戦には敵わない」


 初戦、ピッチャーの立ち上がりの甘い球を俺はレフトスタンドに運んだ。呆然とするピッチャーはこれでペースが狂う。矢島の采配は当たって、初戦を大差で勝つ。勢いに乗った俺達はついに決勝に臨んだ。あと一つ。


 決勝戦の球場に呼び出しのアナウンスがかかる。

「2番、センター大石。背番号2」


 俺はベンチを振り返る。矢島がメガネごしに俺に力強い目線を送ってきた。分かってるさ。俺はあんたを信じるよ。メガネ。あんたは俺が信じる2番目の大人だ。一緒に甲子園行こうぜ。

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