朱き夢見し酔いもせず

節兌見一

朱き夢見し酔いもせず


 大陸の東西を隔てるミラージ山脈に沈んだ亡都、ローランダルク。

 その旧市街に燻る幻炎に構いもせず、一人の男がよろめく身体を奮って北を目指していた。髑髏の描かれた奇妙な装束に帯を締めた異邦人。西紳の人間とは似つかぬ細面は、東蛮を超えた極東の果てに浮かぶ島国特有の相である。

「ぐっ、ガハァッ!」

 男は喉に詰まった血痰を吐きだし、後につっかえていた赤い吐しゃ物を辺りに吐き散らす。

「くそ、くそ、こんなところで……ッ」

 男は、半身を抉られたかのような脱力感に逆らえず、膝を付いた。

 無頼の徒であった彼を這いつくばらせるは、辺りに漂う幻漁でも、町を徘徊する幻影人でも、他の巡礼者たちでもない。

病。

 誰も逃れ得ぬ死の誘いが男を、剣豪アズラ=アドラシエルの身体を侵し、いよいよもって生命を奪おうとしていた。


†×†×†×†×†×†


 オーングロリアム王国王都ウェストグレイ、曇天に佇む治安維持局にて。

「ジノ、なぜ彼を行かせたんですか?」

 会議室に一つの影が立ち、円卓に就く者に問うた。

 影の主は金糸の如き髪を揺らす女騎士。その胸にはかの騎士団とは対立しているはずの聖導教会に対する信仰の証『罰印』がさげられている。

 彼女、ヴィオラ=シザーリオにとって信仰と暗躍は矛盾しない。

「ああ、そうさね」

 答えるのは、フードを目深に被った老女である。

「アタシは止めたよ。死に場所を探して飛び出していった馬鹿を止める程、アタシは義理堅くも無い」

 老女の言葉に、ヴィオラは一瞬眉をひそめた。

「いえ、ロヴァルトくんのことではなく……」

「……ちっ、そっちかい」

 老婆は舌打ちをした。

 「彼」という言葉から老女が連想した青年は、師である彼女を裏切って死にに行った。

 そんな事の為に拾って来たわけではなかった。老女のもとに置く事の必然として裏の世界の掟を叩きこみはしたが、それでも死なせるためではない。

「馬鹿者が……」

 老女は呟くと、大きく息を吐いた。

 大きく吸い、もう一度吐いた。怒りとも悲しみともつかぬ感情の波を凪に導くと、老女は本題である一人の剣士を思い出した。

「亜都雨飛羅(あとうあすら)……いや、今はアズラ=アドラシエルと名乗っているんだったかねぇ」

「ええ。遥か極東の剣士……いえ、彼の国では剣人と呼ぶんでしたね。剣の腕では私やあのギルベルト=カーンシュタインすらをも凌駕していた彼を、どうしてローランダルクに? あれはドラクロイツのように力や機転でどうにかなる場所ではなかったはずです」

「ああ、そうだねぇ。マダラメイアはそういう『神』じゃない」

「ではなぜ? 彼にはもっと相応しい舞台があったはずでは?」

 ヴィオラの問いに、老女はくつくつと笑い声をあげた。

「いいや、ない。奴にはもうあそこしか出番が無かった。命が間に合わない、どれだけこのアタシが手を尽くそうと、奴は自分の手によって破滅してしまうようにできていたのさ」

「……それは、何かの例えですか?」

「病の話さね。奴の心臓は常に早鐘を打って止まらない。まるで常に死闘を潜り抜けているかのように神経をとがらせ、身体に過剰なほどの緊張を強いる。奴の闘志がそうさせている」

 老女はヴィオラが腰に佩いた刺剣を指さした。

「ヴィオラ、アンタは剣のために死ねるかい? 自分の方が相手より強い、ただその事を証明するために斬り合って、勝利した数分後に負った傷のせいで死んでも満足がいく。そんな死に方ができるかい」

「ありえませんね。剣はあくまでも手段です」

「だろう。だがアズラは剣のために生き、剣のために死ぬ。日常や休息などという抑えが利かず、日に日に命が削り潰されていく。強靭な闘志、それこそが奴の身体を蝕む病根だ」

「……」

 ヴィオラはちらと自らの剣を見やった。この、たかが武器でしかない物に全てを捧げることが自分に出来るだろうか。もしそれをすれば、アズラのような力を得られるのだろうか。

「どうしたんだい、ヴィオラ。アンタらしくもない思索にふけっているようじゃないか」

「いえ……ただ、騎士団にも知っている顔が減ったものですから。貴女にとっては、ただの周期的な数の増減に過ぎないのでしょうが」

 嫌味ではなく、ヴィオラはそう思っていた。

 旧い魔法使いたちや『神』にとって、自分たちは定められた時の中を生きる矮小な存在にすぎない。神殺しに加担した今ですら、そう感じずにはいられない。

「くく、くっくっくっくっく……」

 老女は笑う。先ほどよりも愉快気に。

「アタシがそんな超然とした存在に見えるのかい。弟子一つ御しきれなかったこのアタシが……ゲホッ、カハッ!」

 老女は口に手を当てて何度もえずいた。

「大丈夫ですか」

「くくく、アンタが笑わせるからさ」

 手で拭われた口の端から、涎に混じってどろりと濁った血の塊が垂れていた。

「グリムラドォル、アルドレッド、ドラクロイツ……確かにアタシは神々の死を見てきた。だが、いつも見ているだけさね。『あの人たち』のようにはやれない」

「『あの人たち』?」

「そうさね。この台地で一番最初に『神』に抗った反逆者にして、聖導教会の発端さ。アタシたちのしていることは、あの人たちのやったことの焼き直しでしかないんだろう」

 老女、ジノ=バラヴォスは何かを懐かしむように呟く。

「ヴィオラ、アンタはアタシより長生きするさ。恐らく、アタシの終わりはそう先の話じゃあない」

 くつくつと笑う声を遮るように、戸を叩く者があった。

「悪い知らせです。アズラ=アドラシエル、ロヴァルト=フェイク両名共に……」


 †×†×†×†×†×†


 それはいつのことであったか。

 遥か極東の島国『逝原ゆきわら』。都を南北に二分する可惜川の大橋の上にて、二人の剣人が向かい合っている。

 その一人、三つ首髑髏の家紋をあしらった戦羽織の剣人が名乗った。

「公儀新番組頭、夢路五郎座衛門斬舟ゆめじごろうざえもんきりふね

「おぉ、有名人じゃねぇか」

 手に持った大瓢箪を傾け喉を鳴らし、げっぷ混じりに相手が名乗りを上げる。

「俺ぁ酔世一刀流、亜都雨飛羅だ。公儀の『死に神』とまで謳われた剣人直々のご使命たぁ、光栄なこった」

 酒に酔ってあやふやなろれつで口上で謳い上げながら、飛羅は脳裡にふと疑問を抱いた。


 どうして都に俺がいる? 何故に奴がまだ生きている? 俺様が斬ったはずなのに。

いや待て、なぜ俺はそんな事を知っているんだ?

 酔いのせいだろうか。思考のどこかに霞がかかっているようだ。


「あまり図に乗ってくれるな、狂犬」

 飛羅の疑念を払いのけるように、斬舟が静かに告げた。

「これは処刑だ。第十二代将軍鎮国様直々の命により、城下を騒がす酔世一刀流の旗頭たる貴様を衆目の前で斬る。貴様は見世物として死ぬのだ」

「面白ぇ、俺が斬られる前提なのが面白くてたまらねぇな」

 飛羅は空になった瓢箪をその辺に放ると、腰に佩いた長剣の柄に手を当てた。

「来いよ。見世物にしてやるぜ、死に神」

 あくまで死合いを楽しもうとする飛羅に、斬舟は僅かに口の端を釣り上げた。

「よろしい。あくまで見世物を望むなら、一つ武芸を見せてやろう」

 斬舟は左手を腰に運び、鞘を軽く握り、右手を柄に添えた。

「ん、居合いか?」

「如何にも」

 正統の剣技の折り目正しい剣気が辺りの空気を塗り替える。『正しさ』という概念そのものの気配が、飛羅の神経をそよ風のごとく僅かにくすぐった。それは、寸毫に満たぬ時を奪い合う達人たちの領域において、致命的な出遅れであった。

 斬舟の鞘に収まっているはずの刀が消えている。

「っ!」

 消えた刀身を月光の中に探そうと視界が揺れる。視界の端では斬舟の右手がまだ鞘の鯉口に添えられている……はずだった。

「通ヒ路流抜刀術『霹靂月夜へきれきづきよ』」

 上弦の月が僅かに煌めいたかと思った時には、斬舟は一太刀を振り終えていた。

 まるで活動写真のこまを数枚抜き取ったかのような現象に、飛羅は驚く間もなく笑みを浮かべた。

「面白れぇ!」

 刹那、二人の姿が可惜川両岸に集まっていた群衆の目から消えた。金属の克ち合う無数の音が見物人たちの耳に届くころ、飛羅と斬舟の姿が場所を入れ替えて尋常な速度の世界に戻ってきた。

 達人たちの動きに、それを眺める人々の目が追いついていない。

「ちっ」

 飛羅の衣に赤い線が走る。左肩から脇腹にかけての深い縦の傷。即死はしないが、長く戦える傷でもない。あと十数秒も斬りあえば失血により飛羅の意識は絶たれてしまうだろう。

 その様を見てか、斬舟は静かに呟いた。

「なるほど、即死は免れたか。少しはできるようだ」

 まるで天から見下ろすような言葉に、飛羅はますます笑みを強めた。

 自ら刀身を左肩の傷に当てる。

「腹でも切る気か」

「切るかよ、ばぁか」

 剣で傷口を撫でることにより刀身の峰、と呼ばれる溝に紅水が広がっていく。

「奥義『流れ秋葉』。酔世一刀流は血に酔う」

 再び流血刀を大上段に構える飛羅。未知の剣法に対し斬舟は受けの構えで迎え撃つ。

 飛羅には時間が遺されていない。彼が先に動いた。

 動きは単純明快。ただ上に振り上げた刀を振り下ろして斬舟の脳天を斬り割らんとするもの。渾身の太刀筋には迷いがない。

「ふん、苦し紛れか」

見切った。斬舟が確信し、打ち下ろしを切り払うべく動いた刹那の刹那。

「死に神、討ち取ったり!」

 斬舟の胴体は横薙ぎに切断されて二つに分かれていた。上半身が半時計回りに回転しながら宙を舞う。腰骨から上が消えた下半身が、まだ飛羅の前に直立している。

「な、何を……?」

 真相を知る間もなく橋に墜落し、稀代の剣豪夢路五郎座衛門斬舟はその生涯を終えた。

「……」

 番狂わせの勝利に湧く見物人たちの声にも構わず、飛羅は強敵の亡骸を見下ろし沈思していた。

「何もかも、あの時と同じだ」

 微かな息遣い、斬舟との攻防、血飛沫の一滴に至るまで。『可惜大橋の決闘』と呼ばれる果し合いの記憶に相違ない。

 飛羅は混じり合った血を払い、剣を納め辺りを見回した。

 月光も、涼やかな虫の音も、血飛沫の舞う剣戟に酔った人々まで、まるで他人事のように感じられる。

「……夢、か」

 夢の中でそれを夢だと気付けるのはほんの一握りの人間だけである。この世が全て夢幻なのではないかと、本気で疑ったことのある人間だけがそれに気付ける。

「そう、確かにこれは俺様の、剣人としての絶頂だった。結局、俺は奴以上の剣人を探すために国を出て……」

 飛羅は、興が醒めたように息を吐いた。

「出会えずじまいで、死んだか」

 死の認識に応えるように橋に町に、死体に夜空に、ちろちろと狐火が燻りだす。

 蝋卵堕婁区ろぉらんだるくを燃やし今も燃え盛る夢幻貝まだらめいあの幻炎である。過去と現在はいっしょくたになってこの揺らめきに閉じ込められてしまった。

 それが夢幻街。

 『神』がもたらした人類終端の一可能性。

「しゃらくせぇ……ッ!」

 飛羅が剣を振るうと、その刃先に生じた真空が渦を巻き、幻炎を切り裂いた。

「俺様はアズラだ! もう雑魚しかいねぇような国の名は捨てた! 過去の夢なんざぁ俺にはぬるま湯だ、つまらねぇんだよぉッ!」2

 町の景観が裂けた。まるで銀幕に映し出された虚像であったかのように。その破れ目の先には妙に見覚えのある通路が浮かび上がっている。それはローランダルクを封印する幻日教団の里にある宿屋ではなかったか。

「その先にいるのが俺の最期の獲物ってか、あぁん?」

 広がる情景をそう解釈したアズラは、武者震いにぶるぶると身を揺すって裂け目に飛び込んだ。

 その背を、一人の剣人が見送る。

「逝っちまうんだね、飛羅さん……」

 燃え落ちる逝原の夢幻街にて、その悲嘆を聞く者はもう誰もいなかった。


 †×†×†×†×†×†


 そして……

「またとない吉兆でござります、我が殿」

 これは聖導教会の法王フィクトワイズですら知り得なかったことだ。

 とある事件の残滓、滅びゆく指環都市から流れ出した一体の亡骸が、運河を通じて大海へと流れ着いていた。大陸間を巡る海流に乗り、それは人生よりも長い時間をかけて変質を続けることになる。朽ちかけた両脚が根元から癒着し、一本のひれの様になった上から鱗が覆い尽くし、不老長寿の化身と伝えられる『人魚』のようになるまで。

 些細な形状の類似と不死の魅惑、そしてとある人物の絶望。

 それらが逝原に『黄泉羅鬼滅羅よみらきめら』をもたらすことになる。


 『人魚喰らいの黄泉羅鬼滅羅』につづく。

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