抗えない二番目の存在

永久凍土

I can not resist that existence.

「ちょっとっ、どこ見てるの! 怒るよ!」


 商談室で二人っきりの打ち合わせ、正面に座った山下さんが血相を変えている。一瞬のことで僕には何のことだかさっぱり分からなかった。

 彼女は同じ年に入社した同期だが、僕たちの部署はその年は二人しか新卒を採らなかったので異性にも関わらず親しい。彼女も四大卒で同い歳だ。


「え……なに? 突然」

「なにって、田中君、じろじろ見てたでしょ! 私の胸!」


 そう言われて、「ああ」と合点がいった。とある案件を彼女とシェアすることになったのだけれど、先方に出向いたのは山下さんで、その落とし込みの最中の出来事である。


 僕の耳は山下さんのやや高く掠れた声に集中し、視線はタブレットと紙の資料、目の前の彼女を往復することになる。けれど、同期で見慣れた顔とは言え、ずっとその顔を見続けるのは照れ臭いと言うか、言語化できないもどかしさがある。これ、何て言うんだろう?

 打ち合わせの間、僕の視線は次第に眼から口元、そして喉元、胸元へと順に下がっていく。今日の彼女は珍しく黒のスーツに白のカットソーで普段より大きく胸元が開いていたが、僕はその胸の上で小さく自己主張をするアクセサリーを見ていたのだ。


 それは銀の鎖に小さな縦長のプレートが付いたもので、座った猫のシルエットが刻まれている。彼女は以前から気に入って着けていたようだが、よく見ないと地味な模様にしか見えない。僕が初めてそれに気がついたのは、この打ち合わせ中だ。


「女は見られてるって100%分かるんだから! 真面目にしてよ、もう」


 僕にしてみれば看過できない言いがかりである。いやいやそんな変態親父たちと一緒にするな。とは言え、同期だからこそ遠慮がないとも言えるだろう。ならば……


 ——— いや、無いものは見れないだろう?


 苛立った僕はブラックジョークで返してやろうと思ったのだけれど、火に油を注ぐ結果になるのでは、と考え直した。実際、山下さんのそれは極々平均的なもので他の人と特に違うとは思えないのだけれど、本当に平均的なのか確かめる術は今のところ無いし、予定も筋合いもない。

 不用意に踏み込んではならない領域の存在を僕は認識せざるを得ない。彼女は普段とは違う格好の所為で神経質になっているだけかもしれない。

 山下さんの怒鳴り声が聞こえたのか先輩の斎藤さんが商談室を覗きに来たが、口に手を当てて戻ってしまった。どうやら助けてはくれないらしい。孤立無援である……と言っても相手は一人だが。


 一瞬の気不味い空気。


 いやしかし、このままスケベ人間とレッテルを貼られてしまうのはどうにも癪に触る。ラッキースケベはウェルカムだが、アンラッキーは途轍もなく不本意だ。どうしたものかと思案しているうちに山下さんは次の言葉を口にした。


「あ、……いや、男の人がそういうの気になるって、分かるけどさ」


 と、山下さんは言葉が少し弱くなった。彼女とて、僕とはそう険悪な関係は望んでいないのだ。同期ということもあるけれど、そもそも直近で業務をシェアせねばならないからである。恐らく僕の表情の変化を読み取ったのだろう。しょうがないか。


「喩えれば……そう、『子猫』とか」

「なに、子猫って」

「道端で鳴き声がしたら声の主を探すよね?」

「え? ……まあ、そうだけど」


 山下さんはきょとんとした顔だ。ま、それも当然か。僕もこの場は折れる方を選んだ。


「それとおんなじ。女の人は胸に子猫を飼ってるようなものだから」

「あはは、なにそれ。……って、ついでに触りたくなると」

「え、いや、そこまでは言ってないけど……」


 山下さんは変な被せ方をする。この性格のおかげで「女の子だから」と気遣いをしないで済んでいる部分も多分にある。いつまで続くか分からないが二人っきりの同期、この距離感を崩したくないのは彼女も同じなのだ。


「そうね、うちの子は太々しくって、つい動画とか浮気しちゃうしな」


 山下さんは僕から視線を外して窓の方を見る。僕の喩えに何か思い当たったかのような顔だ。彼女が愛猫家なのは今更で、ご自宅に長い付き合いのアメリカンショートヘアが居るのは周知の事実である。


「ところで、そのネックレス、猫、だよね?」

「あ……」


 ようやく全てを察してくれたようだ。


 正直言って見ていないと言えば嘘になる。抗いようがない魅惑の膨らみ、僕の喩えが適切とは言えないかもしれないが、全ての男性がそういう目で見ていると誤解されるのは困る。

 その存在は単独では決して性的な記号とはなり得ず、そういう意味でならコンテクスト、つまり付加する文脈が必要である。少なくとも僕にとってはそう。


 いわゆる女性の胸、俗に言う「おっぱい」。男性はそこに存在すれば間違いなく見る。

 但し二番目。一番はもちろん……



「ところで田中君、喩えが『猫』じゃなくて『子猫』なのは、な・ん・で?」


 不味い。この誤解は厄介だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

抗えない二番目の存在 永久凍土 @aqtd882225

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ