それは2.5次元の二番目物

小余綾香

修羅場の風景

「ただいまー。はい、お土産」

 ほろ酔い加減で帰って来た妻が生落雁の箱をテーブルに放る。

 有難く押し頂くふりをして、私は彼女のご機嫌を取ることにした。

「何観て来たんだっけ?」

「お能が『敦盛』で……」

 妻が言い掛けた、その時、


「そのキャラ、知ってる! 古典の授業で出て来た」


 娘が突然、話題に喰いついて来たのに私は正直、驚いた。

 先刻まで何を話し掛けても、おやつをお運び申し上げても、液晶タブレットから顔を上げようともしなかった我が家のお嬢様が古典の話だと?

 あぁ、塾代、月約2万5千円、私の1ヶ月の昼代より倍ほど高い出費も無駄ではなかったらしい。

 そう感じ入りかけた私の期待は次の瞬間、見事、裏切られた。


「海でマッチョに組み敷かれるって、腐の臭いのする美形キャラ」


 妻がギョッとして固まる。

 それから不本意そうに言を継いだ。


「……敦盛が討たれる話は『平家物語』。お能は熊谷……マッチョの人がお坊さんになってね……」


 何故か娘はそこで目を輝かせ、妻が話し切るのを待てずに喋り出した。


「え!? なに、僧侶モノ? ハゲキャラ転身? うん、マニア狙いになるけど、悪くはないよ。やっぱ唯の筋肉系じゃ、薄いもん。坊さんが押し倒すとか、禁忌感ハンパなくてエロい!」


 世の立派に修行を積まれている僧侶の方々、申し訳ありません。親の私が謝りますので、どうか娘にばちが当たりませんように。


「……組み伏せるところはありません」

 妻が微妙に用語を修正する。

「なんでー?」


 見るからに不満そうな娘に言ってやりたい。

 能じゃ、たとえ襲うシーンがあっても、お前の期待するような露骨な演出はないだろう。


「お能は『平家物語』を演じるわけじゃないの。『平家物語』から想像して作った後日譚みたいなもので……」


 妻、頑張る。まだ、まともな話題に留める努力を諦めていない。


「二次創作? なら、見た目の改造し過ぎはどうかなぁ。やっぱ二次はオリジナルを守る範囲、間違えるとイタいと思うんだよね」


 カウント10テン。チーン。

 ここは妻の負け。気の毒だが、うちの娘の嗜好の壁はそう簡単には打ち破れない。

 と思ったら、


「貴女、ちゃんと勉強したの? お坊さんになりそうな流れは『平家物語』でも出て来たでしょ」

 そこか? 妻よ、そこなのか?

 つっこむべきは「二次創作」ではないか、と私は思う。お前の好きな能の、二番目物代表格『敦盛』を『平家物語』の二次創作と言われて、それで良いのか?

 だとすれば……母親の教育優先度は大したものだ。そういうことにしよう。

「そうだっけ?」

 娘はあからさまに流してみせた。


「でも、凄いよねー。同人誌が2.5次元化されたってことでしょ? その同人作家ヤバいわ。神だね」


 最後だけは間違ってはいない。

 しかし、前提が決定的にアレだ。日本の誇る文化の完成者、世阿弥ぜあみサマを同人作家呼ばわり。若さとは恐ろしい。

 百歩譲って能が原典ある二次創作……的存在だとしても、彼はそれだけの人でもない。自ら演じ、数々の思索を言葉にし……いや、駄目だ。これを言っても娘の頭では「コス」と「ツイ」に変換されそうだ。


「お父さん! 手、止まってる!」

 その時、急に娘が般若の形相でこちらを向いた。

「そんなじゃ、入稿、間に合わない! サボんないで!」

「……すみません」

 やり取りと散乱した創作グッズを前に般若化したのは妻。こちらは年季が入っている分の凄味が違う。

 これを少しでも抑えたかったのに。機嫌取りが失敗したのは明らかだった。

「申し訳ありません」

 謝罪を繰り返し、私は娘の漫画の文字入れに戻った。


 我が子よ、お前に贈ろう。世阿弥サマのおコトバ、『是非の初心忘るべからず』を。

 十四の今を振り返り、居た堪れなさに転がりたくなる時が来る。絶対来る。その時、是非思い出してくれたまへよ、娘。


 あ、声に出さないと伝わらないか。うざがられるから、それは出来ない。


 代わりに心密かに願っておこう。

 この「お絵描き」が時々の初心を糧に花開きますように。何百年後に、何と呼ばれているかは知らないが、2.5次元にまでなって残っていたらオタク冥利に尽きるというものだ。

 親的には、もうちょっと今世的成功を目指した方が幸せな人生を送れそうでお勧めなのだが……。

 その場合、子の七光りで私の昔の駄作がバレるのが怖い。お前には悪いが、やっぱり世阿弥ルートでお願いしよう。

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それは2.5次元の二番目物 小余綾香 @koyurugi

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