後編
その週の土曜日の昼頃に工事が始まり、夕方には作業員は満面の笑みを浮かべて帰っていった。
せめてもの背伸びという理由もあって、わたしは金曜日の夜中に塩素を使って水垢の掃除をしたのだが、長い年月をかけて蓄積された垢はフライパンのこげと同じで完全には落ちなかった。
ステンレスの古いバスタブは、ドナドナの子牛のように寂しげな目を向けて墓へと運ばれた。代わりにヨーロッパのお姫様のような品のあるジャグジーバスが設置された。
それは想像通り、どう贔屓目に見ても我が家のシケた浴室には不釣り合いな物で、ジャグジーバスを憐れに思ったくらいだ。まるで独房の貴婦人といった趣なのだ。
「さあさあ」と自主的に夕食の片付けをした夫が言った。「どうする?」
「どうするって?」
「一緒に入らないか、せっかく買ったんだから」
「いやよ、先に入りなさいよ」と言うと、夫は露骨に残念そうな表情を向けて、パンツ一枚になると、たるんだ肉を揺すりながら浴室へ消えた。
トイレで用をたしていると夫のご機嫌な歌が聞こえてきたので、なんだか言いようのない気分になった。
いつもは十分ほどで上がるのに、たっぷりと一時間もかけてリビングへ戻ってきた夫の体からは、女子大生のまとわせているようなフローラルな香りが漂っていた。
「あのお風呂、香りもつくの?」とわたしが驚いて尋ねると
「そんなわけないだろ、新しいボディソープを買ったんだよ」
「前のは?」
「風呂場にある。早く入っておいでよ、これはすごい」
使いきってもいないのに新しいボディソープを開けるなんて、と思ったがやはり口には出さなかった。わたしなんてボディソープやシャンプーが出なくなると、水を足して何度も使ってるのに。自分の努力をバカにされたようでひどく腹立たしかった。
こぼれそうなほどの水量をたたえたジャグジーバスにも怒りを感じた。案の定、わたしがつかるとバスマットを浮かすほどの湯がこぼれ出た。
よく目をやると夫はシャンプーまで新しいものを購入して開けていたのだから、ますます気に入らない。しかもコンディショナーも!薄毛を気にしてるくせに!
せめてもの腹いせにジャグジー機能を使わないことにしたのだが、湯船から出た腕のちょうど良い場所に並んだボタンがわたしの決意を鈍らせた。押してくれと懇願するように指を挑発してくる。
わたしは湯船から上がって、髪と体を洗おうとした。無意識に腕は古いものへと伸びるが、指が触れるか触れないかのところで考え直した。
数秒ためらった後、たっぷりと四プッシュ分のシャンプーを手に取って髪を洗ってやった。そして三プッシュ分のコンディショナー。えも言えぬフローラルな香りがわたしを包み、それだけで心和む気分。目を閉じるとエーデルワイスの咲き乱れるアルプスの草原にいるような、そんな心地。
ジャグジーバスに戻る。
つやつやと若返った肌に適温の湯が染み渡るようで、確かに歌のひとつでも歌いたい気分だった。
指先にちりちりするような感覚。
そう、指はジャグジーのボタンを押したくてたまらないのだ。夫のことを思い、まだ腹の底の方で苛つきながら、ボタンを押した。
足元でうなりが聞こえ、極小の気泡が浮かび上がってくる。滑らかな気泡の流動が優しくわたしを抱きしめる。
体にフィットするように設計された流線形の滑らかな腰部には、あたたかいジェット噴射。
これよ、これ!そう、これなの!
風呂から上がると夫はワインを片手にテレビを見ていた。若い女優が、中年の俳優に抱擁されている。
驚くべきは夫の衣装だ。一流のホテルに置いてあるようなふんわりとしたバスローブ。
「どうだった?」と尋ねる夫の湿った髪は明らかに以前より増えたように思えたし、その黒ずんだ肌も磨きあげた真珠のように光っていた。照明にてらされて輝く歯がまぶしかった。
「そこに君のもある」と指差した先には同じバスローブが畳んで置かれていた。
君?
わたしは戸惑いながらもバスローブを手に取って、すでに着ていたリネンのパジャマを脱ぐために浴室へ戻ろうとしたが、夫は「そこで着替えなよ」と優しく言った。
それは何度目かのデートの時、大阪の高級フレンチで好きなもの食べて、と言った夫の柔らかい口調と同じで、どういうわけかわたしは抗えなかった。
そう言えば、あの時プロポーズされたんだっけ。
夫に背を向けてするするとパジャマを脱ぎ、パンティだけになると背後から声がした。
「こっちを向きなよ」
魔法の声だ。
わたしがあやつり人形のように言いなりになると、夫は素敵な微笑みを浮かべて腰を抱き寄せ、たぶん十八年ぶりくらいに情熱的な口付けをしてきた。
そのとろけそうな熱い舌や、微かにワインの香りの混じった呼気にわたしは脳の芯まで酔ってとろけそうだった。
夫の手がわたしの尻の肉を掴み、なでまわしたのだが、そのつるりとした手の感触はささくれだった近年の夫の指とは違い、まるで二十年以上も前の、まだわたし達が結婚して間もない頃、そう、あの恋人から夫婦への心理的な移行期のような、うら若く大胆な時代の夫の指であった。
時に強引に、時に優しく体をまさぐる夫に、わたしは思わず何度も大声を上げてしまった。
素敵な夜だった。
そういうわけで、わたしは五十を過ぎて安定期に入ったようだ。
エコーに照らされて浮かび上がる我が子を見る喜びといえば、言葉には表せない。医者は驚きを隠せないようで、奇跡だと何度もつぶやいた。
正月に帰省した娘に赤ちゃんが出来たと告げると、彼女は椅子からひっくり返らんばかりにのけぞって驚いたが、しばらくわたしと夫の顔を見比べて、「呆れた」と笑ってこぼした。
そしてわたしは毎日夫とジャグジーバスに入っては、夜な夜な絶頂を迎えている。使いかけのシャンプーは捨てて、一級上の化粧品も揃えた。パートの仲間は若返ったわたしにその秘密を尋ねてくるのだが、わたしはジャグジーバスよ、とミステリアスに答えてやり過ごしてる。それがなんとも気持ち良いのだ。
そして昨夜も夫はわたしの体を隅々まで愛撫し、歓びの蜜を絶えず滴らせる秘部の奥底まで愛してくれた。
古い餅のように固くなっていた尻はブラジル男性もひれ伏すほどの張りを取り戻し、Gカップに膨れ上がった胸の先で、乳首は輝く未来の方角を指し示している。
そしてわたしも同じように彼の体を慈しむ。
背伸びした生活が苦しいと言えば苦しいのだが、わたしはあれを見れば元気になるのだ。
どくどくと絶えず脈打ち、天を目指していきり立った、はちきれんばかりに太くたくましい夫の男根を!
ジャグジーバス 赤木衛一 @hiroakikondo
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