ジャグジーバス

赤木衛一

前編

 夫がジャグジーバスを購入したのは四ヶ月前で、九月二十一日のこと。それは彼の誕生日だった。


 夕方にスーパーのパートを終えて、奮発してケーキを買って帰ると、珍しく夫はすでに帰宅しており、リビングのテーブルについて何やら熱心に眺めていた。

 このところ薄くなってきた後頭部を隠すように普段から猫背気味だったのが、その時はさらに背中が丸まって、まるで首なしの死体が座っているのかと思ってひやりとした。


 帰ってたの、と声をかけると夫は、午後は休みにしたんだ、と返したが、冷蔵庫にケーキをしまうわたしには目もくれなかった。


 どうせいつものスポーツ新聞の競馬欄か、エッチなグラビアでも眺めてるんだろう、と思ってテーブルに視線を向けると、恋人にするように夫が熱い眼差しを向けていたのはジャグジーバスのカタログ。


 よく見ると写真の下部に並んだ数字に、オレンジ色の丸がつけられている。小学校の小テストのような丸、あたかもすばらしいと言わんばかりの。


「もしかして」とわたしが言うと、いたずらのばれた子供のようにばつの悪そうな表情を向けてきた。いや、見ようによっては恋人と初めてのデートに行く時のように照れてるようにも見える。


「そう、仕事帰りに買ってきた」

「買ってきたって……」


 言いたいことは山ほどあったのだが、どれから先に言えば良いのかわからなかった。むろん金のことだろうと思った時には、夫の方が先に口を開いた。


「安くはなかったけど、たまにはいいだろう」そして魔法の言葉。「誕生日だし」


 呆れて何も言えなかったが、幾分ショックを受けてもいた。

 ジャグジーバスなんてそんなもの欲しがるような年でもないし、何より相談のひとつもなかったのだから。


「いくらだったの?」と尋ねると、夫はカタログを持ち上げて、まるで水戸黄門の印籠か、差押さえ勧告書でもかざすように、わたしの鼻先に突きつけてきた。

 そこに並んだ数字にわたしが驚いたことは言うまでもない。とてもじゃないが、相談もなしに買うような金額ではない。


「ここからいくらか安くしてもらったし、施工料金もサービス価格だった」


 わたしに突きつけられたジャグジーバスは、夢に見るようなラグジュアリーホテルの広い浴室にこそ相応しいもので、我が家の浴室には到底似合わない代物であることは一目瞭然だった。

 ノルマン人の城のようにがっちりしており、目もくらむほどの白に輝いているのだ。

 銀色に光るスイッチが三つ並んでおり、強さを調整できる優れもの。

 金髪をアップにして至福の表情で泡立つバスタブにつかる白人女性の写真も載っていたのだが、それは水中で誰かが彼女の陰部を舐めている最中のようにも見えるエロティックなもの。

 そんなもの風呂場に置くと、新幹線の普通車両に関取が並んで座るような窮屈なものになるに違いない。


 その時、わたしの脳裏にある記憶が蘇ってきた。

 日曜の昼、夫が浴室で何やらごそごそしていたのだ。珍しく風呂洗いでもしているのかと思って覗いてみると、夫はメジャーを使って浴室の寸法を測っては、広告の裏にメモを取っていたのだ。


「それで日曜日……」とわたしが言いかけると、夫は嬉しそうに無言でうなずいた。

「でも似合わないでしょう、うちには」

「気持ち良く風呂に入れるなら、それで良い」


 どうしても納得いかなかった。我が家にジャグジーバスだなんて、そんなバカげたことあるものか、と。


 と言うのも、我が家は築五十年は経っている木造建築で、一人っ子の夫の生家でもあった。

 結婚して十年の時、夫の両親が相次いで他界し、それ以来ここに住み着いている。立派なのは門構えだけで、家の中となるとただのボロ屋である。

 義父の強い要望でリフォームはするなと常々言われていたのだが、お陰で余分な金を使わずにすむ、といった様子で夫は愚直に義父の言葉に従っていた。

 しかし、二階と浴室の雨漏りがあまりにひどくなったので、つい二年ほど前に瓦屋根を全て修理してもらったのだが、その工賃だけでも我が家の財政は逼迫状態。


 夫はどの会社に入社しても二年ともつことがなかった。小説を書くという立派な夢を持っているようだが、ひとつとして書き上げたことはない。

 転々と職を変え、ほとんどその場しのぎ的な生活を送っていたのだが、さすがに娘が東京に下宿するようになってからは、毎日愚痴をこぼしながら同じ職場でフィリピン人の同僚と働き続けている。

 それでも給料は多くはなく、生活に必要な金はわたしのパートの給料から出ている。


 そういうわけで、わたしはジャグジーバスの購入に煮え切らない思いだったのだが、買ってしまったものは仕方ないと、口をつぐんだ。


「お前も気に入るよ」という夫の言葉を脳内で噛み砕いて無毒化するのに、二晩もかかった。

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