ゆとり世代の私と地震

湊波

感情は、グラデーションだと思う

 感情は、グラデーションのようなものだと思います。

 大災害が一つ起きた時、同じ被災者でも悲しみの度合いは全く違う。


 家族が亡くなった方は失われた家のことよりも死んだ方を悼むでしょうし、

 家族が無事で、家だけ失った人は明日の心配をするでしょう。

 家族も家も無事だった人は早く陰鬱なニュースに別れを告げて、明るく楽しく笑って生きていきたいと思うかもしれません。


 どれが正解というわけではなく、どれも正しい感情だと思います。

 死を悼む人を責める権利は誰にもない。

 家の心配ばかりする人を責める権利は誰にもない。

 明るく笑って生きたいという人に自重しろという権利も誰にもない。

 そう思います。


 思えば私も、折に触れて、地震と接点を持ちながら生きてきたように思います。

 阪神淡路大震災、東日本大震災、北海道地震ですね。

 これだけみると、大層な経歴にも見えますが、全くそんなことはなく。


 阪神大震災の日は、地震の揺れで頭の横にテレビが落ちてきたそうだけど、幼い頃の経験を私がトラウマとして思い出すこともなく。

 東日本大震災の日は、たくさんの人が苦労しているその裏で、余震の揺れが大きかったね、だなんて笑いながら、その日が誕生日の友人を祝う自分がいて。

 北海道地震が起きて、停電になったその夜は、揺れと暗さで怖くもあったけれど、家の窓から覗く満天の星空が美しいと思った日でもあった。


 本当の被災者でないから、そんな事が言えるのでしょう、と言われれば、そうだと思います。

 親しい人が亡くなれば、こんな呑気なことも言えなくなる、と言われれば、そうなんだろうとも思います。


 ですが…反対を承知で言いますが…やっぱり感情は一色ではないと思います。


 目の前の悲嘆に暮れて、明日も見たくない人もいれば、

 目の前の惨事を笑い飛ばして、明日を向きたい人もいる。


 地震や災害で大きな被害にあったからこそ、地震について本気で考える人もいるでしょう。

 でも、被災地のニュースが流れた途端にチャンネルを変えてバラエティ番組を見るような人の中にも、内心で地震や災害のことを深く考えている人がいるかもしれない。

 そして勿論、地震や災害のことを考えたこともない人もいる。


 悲しむべきだとか、目をそらすべきではないだとか、無理矢理にでも笑えとか、

一色の感情を押しつけるのではなく、

 一人一人、感情の色が違うことを念頭に置いて、相手と向き合っていきたいなぁと思います。


 悲しい時には泣いていいんです。

 悔しい時には八つ当たりしてもいいと思います。

 目をそらしたい時には思いっきり目をそらせばいいんじゃないでしょうか。


 そして、悲しくて悔しくて目をそらしたいけど、それでも前を向きたいんだ、と思った人がいた時に、

 前を向くことを助けてあげられるような世界を作ってあげたいなぁと、私は思います。

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ゆとり世代の私と地震 湊波 @souha0113

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