はじめて負けることができたの。

柳なつき

佐々波のどか、と、牧場芳子。

「ねえ佐々波さざなみのどか。アンタ、ほんとは実力派だろ」

「あら、たしか、先ほどの授業でごいっしょの……牧場まきばさんじゃありませんか。どうしたんですか?」


 私は完璧な笑顔で振り向いた、はずなのに。

 彼女はつまらなそうな顔で煙草をふかしていた。


 もったいない。せっかくの長い黒髪もバサバサだし、

 それなりに美人でも、この深窓令嬢ばかりの女子大に通っていても、

 キャンパスのなかで煙草なんか吸っては、すべてが台無しなのになあ。……校則違反じゃないの、指定の場所以外での喫煙は?



 女子大のキャンパス。初夏。あたたかくて、うららかで。

 お嬢さまたちは、一見どこにでもいそうな普通の女の子に見えるけど、身にまとう自信ってものが違う。

 たとえカジュアルスタイルでも、流行言葉を使っていても、自分たちはお育ちが良い――そんな自信を、全身でまとっている。



 ……私はといえば、今日も今日とて、甘めのフェミニンな格好だけど。

 この女子大に来て、もう二年め――私はこのスタイルを崩したことは、ない。



 牧場さんは煙草を携帯灰皿で消した。


「や、だから涼しい顔してほんとは周囲を見下してるってこと」


 私はちょっと眉をひそめて、こくんと首を傾げた。

 もちろん、演技だ。ちょっと訝しんでる、みたいな演技。あはは、上手でしょう、私って。


「……先ほどから、なんのお話をされているのでしょう? ごめんなさい、私、わからなくって」

「くっさいなー、それ、その演技」


 ……煙草をふかしているひとにその言葉を言われたくない。


「……アンタ、もう、誕生日来た?」

「ええ、四月生まれですので」

「そっか、よかった。じゃあ二十歳だよね。飲みに行こ」

「……えっ、ちょっと、牧場さん、だって、あなたは……」

「あいにく私は浪人組ですのでね。誕生日は早生まれだけど、もうとっくに二十歳さ」

「あ、ああ、……そう……」



 そして、汚い居酒屋に連れ込まれた。

 お嬢さま女子大の近くにあるのが許せなくなるような、汚い、汚い居酒屋だった。


 許せない。ほんとうに、許せない。

 牧場さんって。だって、牧場さんって。




 私のこと、こんなにでろでろに酔わせたのよ。




 牧場芳子よしこは頬杖をついてニヤニヤこっちを見つめてくる。


「……かわいい。やっぱり。ねえ、処女?」

「……とんでもないことを訊かないで……」

「じゃあ、なんなら訊いていいの」

「私の、話」


 ああ。吐息が熱い。身体も。全身も。――こんなはずじゃなかった。


「私の、話なら、きいてもいいよ」

「――ほう?」


 牧場芳子は、……私に、

 私なんかにさっきの授業でひとめぼれした変態女は、おもしろそうにニヤリと笑った。


「あなたは、いちばんに、なれなそうだから。浪人までして、きたのに、そんな、こぎたないんだもん。かわいそうー、えへへー、かわいそうー」

「あはは。酔ってるとはいえ佐々波さんっていまこの瞬間全国の浪人生にぶち犯されそう」

「だって。……だって」


 あなたは、ぜったい、トップの人間じゃないでしょ。

 わかる、わかるのよ。……そういうの、私、敏感だもんね。





「二番目である」ということは、ずっと可哀想だと思ってきた。




 私は比較的なんでもできた。

 得意なことであれば、望めば一番になることはそんなに難しくなかった。



 勉強でも。恋愛でも。

 人生のいろんなことにおいて、

 望めば、一番手になれる。


 もちろん、そのために努力はする。

 でも、その努力というのは、たぶんふつうのひとよりもずっと少ないものだったと思う。


 たとえば。

 勉強であれば学校の授業中には寝ないでちゃんと授業を聴き、帰ってちょこちょこっと復習、そして予習を済ます。

 恋愛であれば小ぎれいにすることは忘れずに、それでいて女の子たちのなかの情報網をばっちりと活用し、ふっとほかの子たちを出し抜く。男の子なんて、ちょっと物理的距離を詰めて、あとは褒めそやしていればそれで簡単に落とせるんだから。



 学年一位もほしいがまま。

 かっこいいあの先輩も、あの人気者も、あの優等生も、私がその気になればみいんな、彼氏。




 そんな人生を送ってきたから。

 だから、私の周りには、いつだって「二番手」の存在があった。



 学年二位は屈辱を隠して、「おめでとう」と私に笑いかけた。

 あはは、おかしい。そんなふうに笑いながら、ぎりりと歯を噛み締めているのなんて、丸わかりなのにね。


 私の狙ってきた「彼氏」さんたちは大抵めちゃくちゃモテたから、たまには浮気とかするときもあった。

 いいのよ、べつに、私は心が優しくて広いから。いつだって正妻ポジションは私。だからそのことさえわきまえていれば、つまり自分が二番手なんだってことさえ徹底的に自覚して、毎日じとっとした視線や羨望の憎しみで私を見つめてくる限りは、私はにこっと微笑み返してあげたんだから。



 ああ、おかしい、おかしい、――ほんとうに可笑しくって、たまらなくって!




 ……そして、私は、高校を卒業して。

 私にとって「一番」だと感じた女子大に、なんの苦労もなく推薦で進学した。

 学力偏差値的にはもっと上があるけど、いいの。

 この女子大は、お嬢さまというベクトルで、ぜったい一番。そうよ。私は、そのことが、わかっていたから。






「……ふーん。つまんない人生送ってきてんじゃん」

「どこが! だれもが憧れる最高の人生でしょ!」

「いやー、じゃあさー、とりあえず大学チョイス間違えてない? ここに来たって、アンタ一番になれないでしょ。わかるよ。……アンタもそんな、良家の子女ってわけじゃない。私と、おんなじさ。……育ちの良い人間っていうのはね。そんなにギラギラ、しとらんのさ。アンタも、ここに来て、そのことがようっくわかっただろ」


 ケラケラ、とこの女は笑った。

 私は酔っていたので、躊躇なく、水を彼女に向かって真正面からぶちまけた。


「……そうよ、なんで、わかるのよお」


 テーブル越しに、身を乗り出す。

 彼女は黙って私を見上げている。



 いま水をかけて濡らしたばっかりのその胸に、私は今度は、テーブル越しにすがりついた。

 やだ、……私、泣いてる。



「そうよ、そうよお、いちばん、いちばんになりたいから来たのにい、高校出たら、いちばんなんてよくわかんないの」

「そりゃ、定期テストもなくなるし、模試もなくなる。『いちばん』の物差しが増えるからな」

「やだ、やだよお、高校に戻りたいのよ、勉強と恋愛さえしてれば、ずっと、ずっといちばんだったのに……」

「ほんとこの大学、ホンモノのお嬢ばっかで嫌んなるよなー」

「……じゃあなんであなたはこの大学に来たの」

「や、普通に親が泣いてさ。私、ずっとトーダイ目指してて、親も私が合格すること微塵も疑ってなかったんだけど、現役のときぜんぜん手ぇ届かなくってさ。学力で駄目ならせめてお嬢さまになれ、なんてハチャメチャなこと言うわけ。いまどき、ジェンダー差別かよって。……でもまあいっか、って思った。わりともう疲れてたし、自分に圧倒的な上がいて、それを基準に生きること」


 私、兄貴がいてね。

 彼女は静かにそう言った。


「兄貴はいま現役トーダイ生。超優秀だよ、間違いない。

 アンタの人生観借りるならさ。……私はアンタと違って二番手な人生送ってきたなあ」


 私はその女らしくもない薄汚いTシャツに、手をかけたままだ。

 牧場さんは、うつむいて、三本の吸い殻がある灰皿を、見下ろす――そして、つぶやいた。



 でも、ちょっと、ざまあみろって思った。……かも。



「いちばんにこだわる人間がそんなつまんない人生送ってんだなって思うと。あはっ。……でも、だから私、一発であなたに惚れちゃったのかな。ねえ私。あのつまらん兄貴の影響もあるのかもしれんけど、それに男っぽい性格してるし、……ううん、そんなのぜんぜん関係ねーな、私はただシンプルに単純に女の子が好きなの」



 どんがら、がっしゃん。

 グラスやらおつまみやらが儚く散っていく。

 でも、私が見れたのは、そこまでだった。

 牧場さんは、テーブルの上に脚を乗せると、そのまま――テーブルを乗り越えて、こっちにやってきた。




「……『いちばん』なんだってアンタのこと考えると、なんか、とんでもなく、エロい。……犯していい?」

「……嫌だ、変態……だいたい、女どうしでしょう……私には、そのような趣味は」

「いやー、だからこそ、いいよね。いいよお。いままで涼しい顔で二番手以下を見下してきた顔とおなじ顔でヒイヒイ喘いでよ」

「嫌、嫌、……いやよお、ああ、……うう……」

「……あの、すみませんが、お客さま……ほかのお客さまのご迷惑となりますので……」

「ねえ、ねえ、――私のいちばんにしてあげるから」

「うそ、だれにでも、こういうこと、するんでしょ、へんたい」

「しない、しないよ、――それとも二番手にされる屈辱をいちどくらいは味わってみたい?」

「は、はうう、……あううっ」

「……あのー、お客さま……すみませんが、その続きは退店してからにしていただけますかね……そこでそのままおっぱじめられても、マジで迷惑だから……」




 ――ずっと二番手だった女に、犯される気分はどう?

 ねえ。ずっと。……いままでずうっと、「いちばん」だったひと。




 ベッドのうえで。

 予想外のいろんなことが、終わって。

 ……ただ、荒く息をするしか、できなくって……。




 そう問われて、私は……こくんと子どものようにうなずくしか、できなかった。

 まるで、敗者のように。……ううん、




 まるで、唾棄すべき変態のように……私は、この女に負けることを、望んだのだ。

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はじめて負けることができたの。 柳なつき @natsuki0710

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