日傘の下か 雨傘の下か

咲良 季音

大事なことは3つ

「あっ…」


 終業時間一時間後の新宿駅、一人だというのについ声が出てしまった。

 通りすぎるたくさんの人にはそれぞれ目的地があって、この夕方のせわしないざわめきの中、そんな私を気にする人などいるはずもないのに、首に巻いたマフラーを口元まであげて目を伏せる。


 自分の温かな呼吸を息苦しく思いながら、勇気を出して登り慣れた階段をかけあがる。

 さっきすれ違った紺色のピーコートの背中はめいちゃんだったと思う。


「盟ちゃん!盟ちゃん!」


 何度も呼ぶ。叫ぶように呼び止める。届くわけもない私の中の声はどれだけ切な気だろうかと思う。


「盟ちゃん」


 泣き崩れる私の中の私が彼を呼ぶけれど、本物の私はそこに凛として立っていて、盟ちゃんは目の前で、とびきり優しい顔で笑っていた。


「追いかけてきてくれた。」


 崩れない優しげな顔で、大きな手を伸ばして、ゆっくり頭を撫でる。


 ここにたどり着くまでに、どれだけの時間をかけただろう。

 やっと思い出せた。あの日、天気は朝だけ大雨、昼からすこぶるいい天気で、私は傘をさして日を避けようとしてたんだ。


 あの日の前日夜、私の中ではもう、離婚しかないと決めた夫との擦り合いの末、その日心はどことも言えない場所をさ迷って出勤した。

 愛想笑いも、やるべき仕事をこなすこともちゃんとできる。けれど、このままでは壊れてしまうと思った。

 休暇申請を出して電車に乗り、自宅最寄り駅まで出たところで行くあてがなくなってしまい、春の嵐の後、痛いほどの日差しを避けるために、私は、朝は雨に濡れた傘を広げた。


弥絵やえ?」


 振り向いたところにいた盟ちゃんは、高校時代の面影をそのままで、久しぶりだね!って、笑った。

「またそうやって、代用品でその場をしのごうとしてる。」て、大声で笑った。

 私にはその意味が、その時全然わからなかった。


「なんてしらけた顔してるの?話聞く?」

 て言うから、夕方5時から開いている沖縄料理屋さんに入った。ビールを2杯、それから泡盛なんか飲み始めちゃったから、いったいそこで何を話したか、記憶は飛び飛びになってしまった。

 あの頃も盟ちゃんは、こうしていつも私の話を「何かあったろう?」て聞き出してくれた。そして「弥絵の心が一番大切だ。周りのことを考えすぎたら疲れるから、自分は何を一番したいか考えな。それはわがままじゃない。」と言われたこと、おそらく一言一句間違わず、思い出した。その言葉を思い出した瞬間、昨晩から張りつめていた糸は突然たわみ、心が柔らかくなる音が聞こえた気がした。


 朧気な記憶の中に、強烈に覚えていることがある。

 私は自尊心の行き場を無くして路頭に迷っていた。前日夜に夫から言われた数々の言葉たちを盟ちゃんに吐き出した。

「人間としての覚悟がない」「自分の心より守るべきものがあるだろう」「きみの生育歴では理解できないかもしれないが」

 悔しさなのか、悲しみなのか知ったことではない。胸の痛さだけが何度も押し寄せる。


 私は割りと感情もなく、淡々と話したと思う。それを聞いた盟ちゃんが私に言った。それまで優しい顔で頷いていた盟ちゃんの目は見たこともない強い目に変わった。

「いい?弥絵、大事なことは3つある。たったの3つだ。」

「1番は、真実を知らない人間の相手をするな。恫喝する人と対話してはいけない。弥絵の前に、据えてやる必要すらない。」

 強い言葉の中の盟ちゃんの優しさが熱を帯びたまま私の中に入ってきて、息苦しさとともに抑えられていた涙が一度にあふれる。

 その熱さに驚いて、慌てて手で拭ったら、大きな盟ちゃんの手が、私の頬を包んで、親指で涙を拭いながら、

「2番目は…」


 て、その続きが思い出せない。


 私に伝える言葉の熱は、盟ちゃんの真剣さと、私への思いだ。

 高校時代も、そうして盟ちゃんは私をベタベタにあまやかして、最後まで告白してこなかった。意地の張り合いのまま、二人の関係はなんの進展もなかったけれど、お互い気付いていたんだ。相手は、自分が好きだと。

 高校時代の自分って、なんて、バカなんだろう。時間なんて永遠にあると思っていた。そのどこかで必ず二人の時間は重なり笑いあえると信じていた。だから相手の気持ちの方が自分の気持ちより強いことを確かめたかった。言わせた方が優位だとか、勝ちだとか、友達にも自慢しやすいとか、今思えばなんてくだらないこと。

「3番目はね、これから弥絵に何が起きたとしても、僕が手をとるから。2番目の約束を果たせたらね。」


 盟ちゃんのすっかり緩んだ優しい顔に、あまい空気が流れる。

「2番目の約束が思い出せない」て、言えなかった。好きだと言えなかった高校時代と何も変わらない。結局私は、盟ちゃんに大事なこと、何一つ伝えられない。

 盟ちゃんはこんなに大人になって、正面から私と向き合ってくれているというのに。

 こんなに真剣に私を、包んでくれているというのに…。

 けれど、盟ちゃんが流してくれた涙は、痛みと情けない思いを、少なからず洗い出してくれた。


 1年間かけて、夫と向き合い、ようやく私の心は私のところに帰ってきた。

 バツイチだなんて、全く嫌味でなかった。それどころか、なんて素敵な響きだろうと思った。

 ソファのクッションにズボンを縫い付けられ、「心地いいだろう?お前みたいなやつでも、ずっと座らせてあげるよ。」と言われているような毎日より、自分で歩いて外に出られることこそが、私はとても尊いと思った。


 *


「ねえ、弥絵。盟ちゃんが今何してるか、知ってる?」

「アッコちゃん連絡とってるの?」

「つい最近カイトに会って聞いたの。会社辞めちゃったんだってー去年の夏頃。」

「夏?どうして?」

「盟ちゃんの奥様、上司の娘さんだったんだって。」

「盟ちゃん、結婚してたの!?知らなかった。」

「あーそうだった。ごめん。あの頃のメンツの中で、多分知らないのは弥絵だけだよ。」

「何で私だけ知らされないの!?」

「弥絵の結婚報告の後、盟ちゃんの婚約話が出てきたのだけど、本人が、どうしても弥絵に言わないでほしいって。皆理由なんて聞かないでしょ。やけになってるって、当然そう思ったし。」

 何も知らなかった。

 知らなすぎて驚きすぎると「えー」て大きな声も出ない。

 もうすでに、この話から夏ごろに会社を辞めるに至ったストーリーが、まさか、もしかして、いやおそらくって、見えてくる。


「別れちゃったの?奥様と。」

「そうなの。会社辞めてまで、別れなければならない女性だったのかなー。」


 自由になった私の横を、盟ちゃんと偶然会ったあの蒸し暑い春から一年後の風は、この上なく爽やかに通りすぎていく。

 ウッドデッキのカフェのテラス席なんて、奇跡的に花粉症を発症していない私とアッコちゃんだけの貸し切りのようだ。


 緩んできた桜のつぼみを凝視しながら、そんな自惚れた話、口から出せるわけがないと思っていたのに。

「弥絵のためじゃないの?」

 とアッコちゃんが、何の躊躇ためらいもなくその言葉を、私の前に、トンっと置いた。


「アッコちゃんは、そう思う?」

「思う。」

「……。」


「カイトがね、弥絵が離婚したこと話したんだって。そしたら、弥絵に会えたら伝えてほしいことがあるって。」

「何?」

「あの日、弥絵は日傘の下にいた?それとも雨傘の下にいた?て、聞いてほしいって。」

「わけわからん。」

「こっちが言いたい。」


 盟ちゃんに名前を呼ばれて振り返ったとき、私は傘をさしていた。でもあの時、春にしては暑い日だと思ったんだ。

 振り向いた私を見て盟ちゃんは大きな声で笑っていた。


「ねえ、連絡とってみたら?」

「思い出せない約束があるの。それが果たせたら、僕が手をとるって言ったのは覚えてるの。」

「キザ。」

「そういう雰囲気ではなくて、だって盟ちゃんだよ。私に覚悟があるならっていう雰囲気だったと思う。でも、一つ目の約束の言葉に心が熱くなってしまって、聞いてたのに、どうしても思い出せない。」

「一つ目は何?」

「真実をしらない、恫喝する人間は、私の前に据えてやる必要もない。」

「盟ちゃんらしいわ。」

「3つ目は、2番目の約束が果たせたら手をとるから。」

「ヒントは日傘か、雨傘か?」

「繋がっているかすらわからないな…」

「聞いちゃえば?もう一回。」

「…うん」


 *


 コンクリートが跳ね返す熱が、直接私のもへ届く光より熱く私を追い立てる。

もう夏になる。

ボヤボヤと何してるの?って。

 連絡を取る手段などいくらでもある。


 でも聞けない、思い出せない2番目の約束。


 実は大して重要でなかったとしても、私はそれを、自分の行動で示して初めて、盟ちゃんに向き合ってもらえる気がしてならなかった。


 駅前の、偶然再会した場所に立って、同じお店に入ったりもして。また、偶然、「弥絵?」て声が、聞こえてくるのではないかと期待して。

 季節だけが色を変えて少しずつ流れていく。


 「盟ちゃん」

 頭の中で、何度名前を呼んだかわからない。

 あと数ヵ月もしたら、また春が来て、高校生の時に二人を優しく見送ってくれた沈丁花の香りが、あわい記憶を鮮明にしてしまう。

 自分が一歩踏み出せない、その弱さで繋がらないことは、ひんやりと冷たく鈍く、心に痛みを落とす。何度同じことを繰り返すのか。


 その日、この冬初めて使うマフラーを出した。

 それは、高校生の時、盟ちゃんからもらったものだった。願かけのような何か、強い想いがあったかもしれない。


 夕方の新宿駅。

 目の前の盟ちゃん。

「一番大切なものは何か?決まったなら、代用品でごまかそうとしない。自分の力で、手に入れるんだよ!」

 こんなにたくさんの人があふれるなかで、盟ちゃんは目の前にいるのに、大きな声になってしまった。


「雨傘は、雨雲の下でさしなさい。日傘は、降り注ぐ太陽の下だ。でも僕は、そのどちらの役目も果たせる。だから、僕にしな。」

「2番目の約束果たせた?」

「うん。」

一番大切で、どうしても手に入れたかった。

穏やかな顔

柔らかな風と

大きな手

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