第56話 9/15 闇将軍と女狐。見えぬ処で火花を散らす。

 慣れとは、不思議なものだ。体の節々が被しみ、朝起きるのも億劫な日々も、

重ねてくると、定刻に目が覚め、食欲も旺盛になる。

 直ぐに息切れしていた体も、コツを覚えたのか、要領よく動くようになっていた。

 帰れば、汗を流し、飯をたいらげ、腹を満たすと、とてつもない睡魔が訪れ、落ちるように眠りにつく。


 起きて、走って、飯を食い、寝る。


 そんな日々に慣れてくると、体の動きに余裕が出来てきた。隠居生活の時は城の中で、ただただ刻が過ぎるのを待つ退屈な日々が今は、犬が散歩を喜ぶように、空気の吸引そのものが、新鮮に感じられるようになっていた。

 体を動かすと性欲も、格段に姿を現した。女中や世話係に次から次へと手を出した。それこそ恵最にとっては、「我が世の春」の思いだった。

 そんな折、二代将軍秀忠の正室、お江から御機嫌伺いの文が届いた。

 今までなら、外部との連絡を固く禁じられていた事と、話したこともない相手とやり取りする危険性と邪魔臭さから、暇つぶしとして読んではみるが発覚を恐れて、文は全て灰にしていた。

 それがどうだろう、日々体を動かしていると、肺活量が増えるのと比例して、好奇心や行動力が目覚めているではないか。


 恵最は、初めて禁じ事を破った。


 懇意にしている女中のお民に金銭を渡して文を託し、飛脚の処に届けさせた。


 「御免よ」

 「へい、ご要件をお聞き致しやす」

 「この文を江戸に届けてくれないかい」

 「江戸ですか…、江戸のどちらへ」

 「江戸城さ」

 「将軍様の…」

 「何言ってんだい、ここに家康様がおられるのに」

 「そりゃーそうですが…、受け取って貰えますかね」

 「これを門番に渡せば、その門番が何とかするさ。しなければ、それでもいいよ、じゃ、任したよ」

 「へ、へい」


 飛脚屋は、中継所を経て、その文を運んだ。


 「そこの飛脚、何用ぞ」

 「これ、これを」


 文箱の三つ葉葵を詠めながら門番は、不審に思っていた。これは、誰かの悪戯か?

だとすれば命知らずの者がいたものだと。通常なら恐れ多い物。正装まで行かなくてもそれなりに敬意を払った出で立ちのはず、しかも、素手で渡してくるとは…。


 「相分かった」


 飛脚は、門番に文を渡すと、逃げるように立ち去った。


 「お江様に…か」


 門番は、裏面を見て驚愕した。家康からだったからだ。直様、お江の方の世話係の女人に文を届けた。


 「お江様、お江様」

 「如何致したお絹」

 「これ、これ、家…」


 お絹は、事の大事さをふと感じて小声でいった。


 「家康様よりの文が届いております」

 「なんと、家康様じゃと」


 お江は、読み終わると不敵な笑みを浮かべた。


 「何とありまする」

 「たわいない事よ、健吾で過ごしているかと書いてあるだけじゃよ。それより、お絹、この事は他言無用じゃぞ。噂でも広がれば、そなたが漏らしたと思い、それ相応の処罰を到せねばならぬからな」

 「い、言いませぬ」

 「ほ、ほ、ほ、ほ、ほ。戯い事よ、許せ、許せ」

 「お江様」

 「でも、分かっておるな」

 「あっ、はい」


 お江は、念を押すように人差し指を口に当て、お絹に微笑んで見せた。


 「お絹、下がって良い」


 お絹を遠ざけると、お江は文をまじまじと見返した。


 「ふん、やはり今の家康様は、影武者か。華押がないのがその証し。ならば、何故、この時に文をつかわす。何か影武者に動きがあったということか。いや、ご機嫌伺いの裏には、人恋しさを感ずる。近々、江戸に参るのか…、きっとそうじゃ。ならばこうしてはおれぬ、忠長、忠長はおらぬのか」


 側近の者たちは、お江の慌てぶりに浮き足だちながら、忠長を探し回った。


 「何事で御座りまするか、母上様」

 「家康がくるぞ、家康が」


 お江は誰もいない所では憎き家康を呼び捨てにしていた。


 「大御所が何故?」

 「御機嫌伺いらしいが…」

 「如何なされた母上様」

 「私の言う事を聞き返さず、命じたように致せ」

 「藪から棒に、それでは分かりませぬ」

 「今はそなたが知ることはない、従いなされよ」


 忠長は不信感を持ちながらも、お江の眼差しの鋭さに鬼気迫る決意を感じていた。


 「承知致しました。それで、私にどう到せよと」

 「直ちに、今の幕府に苦汁を舐めさせられている大名、あわよくばと出世を願う者に文を書き送るのじゃ。大御所も戦の前にはよくやられておったわ」

 「戦ですか…。して、如何なるものを書けと言われるのですか」

 「そなたが、家光に代わり将軍になるための根回しと、そなたが将軍として相応しいと賛同させるためのものじゃよ」

 「そのような事をして、表沙汰になれば、それこそ、一大事になるのでは?」

 「今の家光を誰が認めようぞ。今だからこそ、奇行の目立つ家光を追い込み、我らの願いを叶える時ぞ」

 「承知致しました。他言無用を厳重に命じて馬の鼻つらに人参をぶら下げて見せましょう」

 「それでこそ、我が子よ」

 「しかし、家康様がお気づきになるのでは」

 「ふふふふふ。大儀ない、大儀ないて」


 お江には、勝算があった。家康が影武者であれば、多少派手に動こうが二代将軍秀忠の政権に口出しなど出来ぬと。いや、寧ろ、異議を申し立てて来てきくれれば化けの皮を剥がし、家康の威厳を打ち砕くことが出来る。それこそ、目の上のたんこぶを

削ぎ落す良き機会となると高を括っていた。


 忠長は、お江に言われるまま、せっせと文を書いた。家康からの評価の低さや他の大名と比べて不遇なことを侘び、私ならその不遇を改善できると。奇行の目立つ家光がこのまま将軍に付くようであれば、政治は乱れ、再び大きな戦を呼ぶことになるだろう。是非とも、皆の幸せを我と共に築いてくれ、とこまめに書き記し、徳川幕府の中核から外されている大名たちの取り組みに勤しんだ。


 思いがけない文を徳川忠長から受け取った大名たちは、浮き足立った。幕府が安泰の兆しを見せ始めた今、領地の拡大や藩の格を上げるのは指南の技。

 それが棚から牡丹餅のように、転げ落ちてきた絶好の機会として受け取っても不思議ではなかった。

 文を受け取った大名の中には、我先に忠長への土産を携えて、登城する者も少なくなかった。ひときわ、江戸城は不思議な千客万来の様子を醸し出していた。

 重臣たちは、忠長参りの大名たちに眉を顰めながら、静観するしかなかった。仮にも二代将軍の血筋が行うこと。その背後にお江の方がいることが、重臣たちの苦言を表沙汰にすること拒んでいたからだ。

 重臣たちにとっては、昇格は難しいが、難癖を付けられ降格されるのは容易かったからだ。そうした重臣たちの見て見ぬの振りを嘲笑うように、忠長詣では、日常化していった。

 下級大名の中には、忠長という虎を背後に重臣に横柄な態度を取る者も出始めた。

 本多忠勝は、城内の異変を不穏な動きの前触れと捉え、二代将軍秀忠に苦言を呈するつもりで御目通りを願い出た。


 「如何致した忠勝殿」

 「もうご存知かと思いますが、忠長様の行いが少々騒がしかと案じておりまする」

 「忠長の事か。捨て置け。どうせ、お江の入れ知恵であろう」

 「しかしながら、西方に就いた者にあらぬ期待を呼び覚まし、要らぬ火種の素にならぬかと存じまする」

 「それは、困りますな。相分かった。忠長には、私から意見しておきましょう」

 「恐れ仕ります」


と、秀忠は言ったもののお江に意見するなどは、陽が西から昇っても避けたかった。

 それは家光、忠長の後継者争いの折に嫌という程に味わった家康とお江の狭間での苦悩があったからだ。

 秀忠は、本多忠勝の手前、見栄を切ったが、時が解決するだろうと、進言を黙殺した。その行動は、本多忠勝の想定内だった。忠勝は、筋を通しただけだった。その忠勝が向かった先は、天海の所だった。天海は、城内の事を金地院崇伝に任せ、江戸の町づくりに専念する為に、工事現場近くの寺院で寝泊りを繰り返していた。そこへ、忠勝が現れた。


 「これはこれは、忠勝殿ではありませぬか。鷹匠として、義信殿をお貸し頂き有り難く存じる」

 「いやいや、お役に立てれば」

 「で、如何なされたかな、このような処まで来られて」

 「ご存知でしょうか、忠長の動向を」

 「聞いてはおるが、それ程、過度になりましたか」

 「安泰を目指す思惑が、揺らいでおりまする」

 「そうですか…。そろそろ家光様には、三代将軍であることの自覚を持って頂かなければなりませぬな。承知致した、私から自覚なさるよう、動きましょう」

 「崇伝殿におかれては、政策をお考えになっておるようで部屋に閉じこもり、城内のことは無関心のご様子」

 「済まぬな、崇伝は人と関わるのを好まぬゆえに何かと気を揉ませることも多かろうて」

 「承知しておりまする。だからこそ、こうして」

 「態々、大儀な事で御座いましたなぁ。ちと、思惑の進め方を早めねばなりませぬな」

 「思惑とは、如何なるもので御座います」

 「いやいや、今のは聞かぬ事にしてくだされ」

 「その思惑に、義信が関わっておるのですか」

 「いやいや、叶いませぬな。忠勝殿には迂闊なことは言えませぬな、本当に忘れて下され、ほれ、この通りじゃ」


と、天海は、忠勝に頭を下げて見せた。


 「あ、頭をお上げくだされ、天海殿」

 「では、忘れてくださいますな」

 「承知致しました」

 「それは、有難い。忠勝殿の気を揉む事に関しては、今しばらく、私に預からせてくだされ。何れは、お力をお借りするやも知れませぬ」

 「何なりと」

 「有り難く、甘えさせて頂きますぞ」

 「お気兼ねなく」


 お江と忠長の動きに、周辺がざわめく頃、当の忠長は、お江に言われるまま、不遇な立場に不満を持っているだろう大名たちにせっせと文を書き、送り続けていた。

 千載一遇の機会と捉えた大名たちの動きは、日増しに露骨なものとなり、江戸城をより賑わせていた。

 家光は、それを見て見ぬ振りで、遣り過ごしていた。それを知ってか知らずか、忠長の文の内容は、過激さを増して、このまま家光が政権を握り続ける事になれば大変なことになると、煽りまくっていた。

 家光は家光で、次期将軍の座に正直、興味がなかった。

 秀忠もまた、お江と忠長の行いを気に止めずにいた。

 秀忠からすれば、家康が決めた次期将軍の座が容易に覆るなど考えられなかった。家光の政権への無関心さは気にはなっていたが、それを咎めることもなかった。咎めることは、新たなお江との確執を産むことになる、そのような面倒なことは避けたかったのが本音だった。お江に賛同することは、大御所に逆らうことになるだけではなく、重臣たちへの負い目を再び呼び覚まし、武士としての失望感を味合うことになる、それほど、秀忠にとっては、関ヶ原の戦に遅れた過去の苦悩を忘れたかった。


 お江と忠長は、周りの無関心を追い風に、家光降ろしに拍車を掛けていた。それを助長させるように、家光の奇行は留まる事はなく、忠長の動向に、何も手立てを打たない家光にも、家康派の重臣たちの中からも誹謗中傷の嵐が俄かに吹き始めていた。


 家光は、幼い頃、親の愛情に飢えていた。お江は、三男忠長を寵愛し、家光を無視していた。それは、家光がお江の子ではなかったからだ。父である秀忠も家光を擁護することはなかった。家光は、いつしか戦に明け暮れる男の日常を嫌うようになり、女装や遊びに興じるようになっていた。そのような日々を送る中で、無骨な男に愛想を尽かし、しなやかな男に関心を示すようになっていった。男を好むようになったのは、お江のせいでもあった。お江の仕打ちを受け続けた家光は、女性への失望感をいつしか持つようになっていた。その反動が、自らが理想とする女性への憧れとなり、

家光の心を支配し、好奇心を煽り立てるようになった。

 家光にとって無関心な秀忠とお江は、父でも母でもなく、赤の他人、そのものだった。家光は、いつも傍に呼んでくれる家康と何かと庇ってくれるお福こそが、父であり母であればいいと、思うようになり、いつの頃からか、それが真実と思うようになっていた。

 子猫や子犬が自分を育ててくれるものを親として寄り添おうとする嗅覚を備えているように家光も家康とお福を親と思うようになっていただ。事実、家光は、天海こと明智光秀が、明智の血を天下に残そうと企て、家康を口説き落とし、お福との間に授からせた子だった。それを受け入れた家康の天海への思いがそこに現れていた。


 さて、江戸城内の騒がしさは、収まる気配を見せるばかりか、忠長参りの頻度は高まっていた。流石に見て見ぬ振りを貫いていた家光も周囲の苦言に突き動されるように、気に止めずにはいられなくなっていた。

 ある時、取り巻きを引き連れた忠長と廊下で出会った際、擦れ違いざまに家光は


 「忠長、振る舞いの善し悪しを考えなされよ。雀が朝夕、五月蝿く、城内も騒がしくなっておる。このままでは、いつの日か苦慮すべき事になるやも知れませぬぞ」

 「兄上こそ、振る舞いに気を配られては如何ですか。雀さへ近づこうと致しておりますまい。それでは、天下人として務まりませぬのでは、とご心配致しておりまする。ああ、兄上がいまのお立場を重荷に思われておりますれば、この忠長、いつでも兄上に代わり、その重荷を背負わせて頂く所存で御座います故、お気遣いなく、お申し付けだされ」

 「気遣いは、無用である。我が身を律する事を忘れぬように致すが良い」

 「そのお言葉、そのまま兄上にお返し申す」


 この時、初めて家光は、忠長の中におなごながら修羅の道を歩んできたお江の姿を見た。家光と忠長の間で火花が散っていた頃、天海は、本多忠勝の報告を受け、しばし思案した後、家光の部屋に向かい鎮座し、家光を待った。そこへ家光が現れた。


 「これは、これは天海殿。如何なされた」


 天海は伏せていた目をゆっくり見開き、ふあぁ~と背筋を伸ばして家光を見た。


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