第33話 2/05 戦とは勝者と敗者で、正義が変わるもの。

 徳川方にお堀を埋め立てられた豊臣方が立てた作戦は、大坂の南に位置する紀伊の国で一揆(紀州一揆)を起こさせ、徳川方を背後から脅かしつつ、大坂からも攻め寄せて、挟み撃ちにしようとするもの。これが、周辺地域の民衆をも戦に巻き込むことになろうとは…。

 大坂夏の陣の直前に紀伊の土豪である山口喜内の長男・兵内に嫁いだ娘がいた。

 お菊、二十歳である。お菊は、関白豊臣秀次(豊臣秀吉の甥で、後の養子となる)と淡輪の地侍である淡輪大和守徹斎の娘・こよ(秀次の側室となり小督局(おごうのつぼね)と称す)の間に産まれた。

 お菊が産まれてすぐに、秀次は秀吉の怒りに触れ、高野山に幽閉されてしまう。

 秀次はお菊との対面も許されず、秀吉に切腹を命じられる。小督局も、京都三条河原で斬首された。お菊は幼かった為、難を逃れ、波有手村の後藤家に預けられ、当主の六兵衛夫婦の元で育てられた。

 二十歳になったお菊は、淡輪大和守徹斎の薦めで紀伊の山口喜内の長男・兵内に嫁いだ。山口家は山中溪から雄ノ山峠を越えたふもとの名草郡一帯を支配し、本拠地を山口村に置いていた。お菊が嫁いだ村には、豊臣方の使者が密かに訪れていた。

 豊臣方の密偵は、反徳川への一揆を起こすように促した。情報操作だ。ここは、予てから徳川の圧政に反感が激しい土地柄だった。お菊の夫も含め、反徳川として一揆勢に加担することを決めた。それは、お菊の祝言の五日後のことだった。

 ひとり、夫の帰りを待つお菊のもとに、徳川方が予定より早く動いた、という知らせが届いた。お菊は、その知らせを密書として携え、大坂城に向かった。黒髪を切り落とし、男になりすまして、険しい山道に挑んだ。

 しかし、お菊の知らせは、無念にも、間に合わなかった。挟み撃ちを開始した一揆勢と豊臣勢は、予想より早く動いた徳川勢に個別の合戦で打ち負けていった。

 一揆勢の犠牲者は、四百人以上にのぼった。その中には、お菊の夫も含まれていた。また、密書を運んだお菊も囚われた。徳川方は、捕らえたものの、その扱いに悩んだ。

 「これ、お菊、そなた嫁いでまだ日が浅いと聞く。この度のことは、徳川への敵意というより、夫をを思う一心からのこと。また、密書も届くことなく、事を終えておる。何より、まだ若い。どうじゃ、心新たに、やり直してみぬか」 


 瞬きもせず、裁きを受けていたお菊が、口を開いた。


 「夫が殺された今、もはや生きていく望みもありません。私は、亡き夫のあとを追いたいと存じます」


 夫を殺した敵方の哀れみを、お菊は頑なに拒んだ。


 波有手(はりで)村では、二十歳という若さで悲運の死を遂げたお菊にちなんだ五十節にも及ぶ「お菊のお手毬歌」として伝えられるほど、民衆の悲哀を呼び込んだ。

 波有手村の後藤家の義母はお菊を哀れみ木像を作り、後藤家の菩提寺である法福寺(阪南市鳥取)に納め、冥福を祈った。

 お菊の木造は、1795年に法福寺の火災で焼失。1858年に村人の手により、新たに作られ、受け継がれている。

 権力の中枢に近く、天下を集中に収めんとしたお江。権力とは無縁のお菊。権力の有無は、煩悩の種の選択肢の増減を示唆する。お江は、天下を欲するに対し、お菊は、目前の義を重んじた。

 知らぬが仏。戦国の女も、知らなければ良いことを知れば、欲望に走り、一途の彼方には、純粋な想いだけが、その者を支配する。いずれが幸せかは問わない。人生いろいろである。いずれの選択肢も、広い検知、知識を客観的に働かせることができれば、歩む道は、違ったものになったはず。

 我を通せば、角が立つ。我を見失えば、自らの存在感を否定することにも成りかねない。身近な惨劇は、知力と経験の有無で、回避は可能だ。さて、次なる惨劇の幕はもう、上がっている。


 豊臣方の計略による一揆勢の抵抗を目の当たりにした家康。


 「最早、猶予など与え申さん。一機に攻め立てて、目に物を見せてやるわ。覚悟しておくが良いわ」


 慶長二十(1615)年五月五日。家康は、京から大坂の三日の道のりを二日で到着した。五月七日、大坂城の南に、徳川軍、十五万五千が現れた。その視線の先には、堀を埋め立てられた大坂城と大坂の町が、裸同然で晒されていた。


 「大変で御座います」

 「如何致した」

 「南の方角に、徳川の軍勢が」

 「一同に介し寄ったか」

 「攻め寄ってくるのに、暇はかかるまい」


 この時、迎え撃つ豊臣軍は、五万五千だった。天王寺口の南に陣を構えた家康は、自ら陣頭指揮を取った。それを迎え討つのは真田幸村。捨て身の攻撃で家康本陣に切り込む幸村勢。しかし、幾度かの家康討ちの機会を逃した幸村。多勢に無勢、幸村は次第に追い込まれていく。勢いを得た徳川方は、大坂城に向けて、北上を開始。鐘つきの如く頑強な門に丸太をぶち当て、撃破。門を突破した徳川軍は、豊臣勢を圧倒。多勢に無勢、賊軍を運命づけられた兵と勝鬨を確信した兵との差は、言うまでもなかった。徳川軍は、難なくと言っていいほど、容易に難攻不落だった大坂城の本丸にまで進入した。

 

 慶長20(1615)年5月7日。

 陽が沈むのを待たずして、大坂城は闇を迎えようとしていた。その闇は、大坂城周辺で生活する民衆たちにも及んだ。固唾を飲んで見守っていた民衆の動揺は、隠せないでいた。


 「太閤様のお膝元でっせ。、例え、家康と言っても、そうは簡単には、攻められまへんって」

 「そうだす、そんなこと、あって堪りますかいな」


 民衆の不安を嘲笑うように、お城から火の粉が立ち上る。それは、巣に戻る野鳥のように飛び交い、天を赤く染めた。


 「あ・あれを見なはれ、お城がお城が…」


 優美なお城が悲鳴を上げているように天を焦がし、喘いでいるように、民衆の目には映っていた。


 「ぐわぁ~、ぐわぁ~」


 地響きのように伝わってくる勢いづいた徳川方の進軍音。信じがたい事実を目の当たりにし、焦りと恐怖心で、民衆の誰もが身動きを取れずにいた。大阪夏の陣の決着が目前に迫っていた。そこへ訃報が風によって運ばれてきた。


 「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」

 「どない、したんや」

 「秀頼はんが…秀頼はんが…」

 「秀頼はんが、どないか、したんか」

 「自害…自害したって…」

 「…それ、ほんまかいな」

 「あかん、これはやばおますでぇ」

 「もう、おしまいや、おしまいや」


 泣き叫ぶ者、怒りをぶちまける者、膝まづき、お城に向かって拝む者、荷物を纏める者、民衆の戸惑いは、一機に限界点を越えた。

 大坂城、落城の知らせは、直様、民衆にも感じ取れた。それは、城内に攻め入る徳川軍に背を向けるように城下町を目指す軍団と、南側からの軍団が地鳴りを響かせ、迫ってきたからだった。押し寄せてきたのは、徳川方の末端の兵たちだった。


 「勝負は決した。このまま城に攻め込んでも我らに利はない」

 「松平の者が牛耳る城内では、手柄など望めまい」

 「そうだな、ここは帳尻合わせと行きますか」

 「賊軍の民は、官軍の物よ」

 「一機に、民衆を狩って、手柄と致しますか」


 目立った功績がない武士たちは、徳川から褒美を得るために残された時を、私欲のために費やす、お決まりの行動に出た。


 「徳川が、攻めてきよりまっせ」

 「逃げなはれ、はよ、逃げなはれ」


 右往左往する民衆。


 「何、してんねん」

 「大事なものが家にあるんじゃ」

 「あほなこと言いな、命あっての物種でっせ」

 「とは言っても…」

 「生きてりゃ、また稼げば宜しおますやろ」

 「徳川が、攻めてきよったでー」

 「えらいこっちゃ、なんぎなこっちゃでぇ」

 「はよ、しなはれ、逃げまっせ、はよ、はよ」


 町は騒然とした様相を呈していた。あちらこちらから、悲鳴の滲む喧騒が、響き渡っていた。肉食系動物が、草食系動物を狩るように徳川のはぐれ兵たちは容赦なく、民衆に牙を剥いた。戦での異常すぎる程の興奮と緊張、蓄積された不満の爆発。そこには、理性の欠片も存在しなかった。存在したのは勝者の敗者への冒涜だけだった。


 大坂城の北側は、悪夢の渦に飲み込まれていった。南側から攻めてくる徳川の兵たちからの唯一の逃げ場、それが北側だった。

 戦火に追われるように人々は、川へと追い詰められた。川を渡って逃げようとする人々。橋は、徳川軍の進路を絶つために、豊臣軍によって、焼き落とされていた。

 城の喧騒などどこ吹く風と、戦から離脱し、自らの私利私欲のために戦を利用する者があとを絶たなかった。狼の群れに追い込まれた、羊たち。男であれ、女であれ、手当たり次第に民衆を襲った。


 「ぎゃー」

 「勘弁や、勘弁や」

 「わぁ~」


 町のあちらこちらから、木霊のような悲鳴が響く。兵たちは、その悲鳴に興奮するかのように理性も武士の心得も忘れ、鬼と化していく。逃げ惑う民を殺害し、耳や首を切り取り、偽首として、手柄の帳尻合わせに走る者。商家に押し入り、戦利品として、金品を物色し、強奪を繰り返す者。

 町はここぞとばかりに、閉塞の鬱憤を晴らそうとする者たちによって席巻されていった。逃げ惑う町人たち。川へ闇雲に飛び込む者。その川も長雨のせいで増水し、町人に牙を剥いていた。それでも逃げ場を失った町人達は、我、先に川に飛び込んだ。力尽きて溺れ死ぬ者。橋下駄にしがみつき、唯唯、念仏を唱える者。川を渡りきっても、南から攻め入ってくる徳川方の兵に捕まり、豊臣兵に見立てられ、偽首として、首や耳を切り取られる。まさに町人達にとっては、前門の虎、後門の狼、だった。


 「やめて、やめてくれやす」


 逃げ遅れたおなごは、兵に囚われ、帯を解かれ、陵辱の限りを受ける者も少なくなかった。子供であれ、老人であれ、おなごであれ、手当たり次第に、うさを晴らすの如く、悪行を繰り広げる兵たちがそこにはいた。

 民衆への殺戮は拡大の様相を呈していた。民衆の首を獲って、その首を武士の首だと偽り、恩賞を得る、にせ首という行為。簡単に討ち取ることの出来る民衆は、恩賞に逸る雑兵たちのにせ首の犠牲になっていった。徳川方が討ち取った首は、にせ首も含め、一万数千にも及んだ。雑兵たちの牙は、女性に対しても、無秩序に剥かれた。

 徳川方は、高ぶる雑兵たちの興奮のはけ口として生身の人間を戦利品とする奴隷狩りを黙認した。大坂夏の陣での奴隷狩りの実態は、ある大名がまとめた奴隷たちの名簿によって、徳川の記録に残されていた。そこには、拐われた人々の捕獲場所や職業、年齢など、事細かに記されていた。

 大坂谷町にて、餅売りの五郎左衛門の下女大坂にて、上本町二丁目、桶屋宗右衛門と申す者の女房、幼い子供も捉えられていた。年三つ、七つ、二つ…。幼児と言えども容赦なく連れ拐われた。奴隷として連れ拐われたのは、数千人以上だった。大坂夏の陣を生き延びた町人の記録もあった。男、女の隔てなく、老いたるも、みどりごも

目の当たりにて、刺し殺し、あるいは、親を失い、子を捕らわれ、夫婦の仲も離れ離れになりゆくことの哀れさ、その数を知らず。如何に残忍な所業が行われたかを物語っている。


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