第23話 9月補充分 誤りあれば、仕切り直す、それは今

 難攻不落の大坂城の外堀をまんまと埋めることに成功した家康。

 ある目的を達成するために、遠まわしに相手の急所を抑える、それを「外堀を埋める」と言う。これは、家康が行った大坂城攻めに由来するもので御座います。


 和平申し立てを、「家康の罠だ」と、真田幸村や木村重成らが猛反対した。しかし、大坂城で実権を握っていた淀君や大野治長は、老獪な家康に騙され、和平を承知してしまったので御座います。

 大野治長は、豊臣家と淀君に最後まで付き従った摂津国大坂藩の武将。治長は関ヶ原の戦いでは、東軍家康方に味方していた。徳川家に叛意が無い姿勢を示してみせたのである。その後、大野治長は一貫して秀頼の側近として、大坂城で外交・軍事の指揮を取ることになったのです。

 大坂の陣で治長は、真田幸村(真田信繁)と激しく対立した。ここでも、関ヶ原の戦い同様に、闘志を剥き出しにする武断派の武将と、交渉に重きをおく文治派の武将との対立が浮き彫りとなったので御座います。

 豊臣家の誤算は、前田利家でした。秀吉が家康を強く牽制してくれると信じていた

加賀100万石の前田利家が家康よりもかなり早くに病死してしまったこと。

 さらに、利家の後を継いだ前田利長や前田利常(利長の弟)では家康に全く敵対することが出来なかったとこと。さらに不幸なことに、秀吉の子飼いの武将と言って良い加藤清正、池田輝政、浅野幸長らも病死してしまったことでした。

 家康は、まんまと和平を成立させると、即座に将軍・徳川秀忠に命を出した。


 「秀忠よ、そなたが指揮を取り、直ちに外堀、内堀を埋めてしまえ」

 「それでは、約束が…」

 「甘い、甘いぞ。天下人とは機を逃さぬことじゃ。勝てば官軍よな、秀忠」


 秀忠は、父の姿を見て、改めて将軍たるものの自覚を重く受け止めていた。秀忠は即座に、松平忠明・本多忠政(忠勝の子)・本多康紀に埋め立て工事を命じた。


 将軍・徳川秀忠の監督の下で1615年1月19日までに大坂城の堀の埋め立て工事が完成した。難攻不落の大坂城は、家康方の暴挙によって、軍事防衛的な観点からほぼ無力化されてしまったので御座います。


 屈辱的な講和条件を呑まされた豊臣方は、大混乱。徳川方への不満・怨恨が日に日に積もって行った。


 「ええーい、家康め、好き勝手をしおって。亡き秀吉公にどのように顔向けできようぞ」

 「その通りで御座います。このままでは、天下に豊臣家の不振をしらしめるようなもので御座いますぞ」


 と、不満を鬱積させる武将や浪人衆は騒ぎ立てた。1615年3月、豊臣秀頼・淀君は、ついに意を決する。家康の許可を得ることなく、大坂城の城壁の修理と、埋め立てられた堀の掘削を行ったのです。

 豊臣方は、大坂城の防衛能力を回復させながら、残った財力を用いて、再び多くの兵力を駆り集め始めた。勿論、徳川軍との戦いに備えるためにです。

 この動きに、家康が黙っているはずもなかったのです。家康は、直ぐ様、豊臣方に使者を遣わした。


 「何故、浪人をそんなに多く雇っておる。戦でもお考えか。もし、そのつもりでないとしたら、秀頼が大坂城を退去して大和か伊勢に移ること、もしくは集めた浪人の軍勢を解散・解雇することを命じる」


と、言うものだった。しかし、江戸幕府と家康に対する敵意を募らせる豊臣方では、

この命令を無視。更に軍勢を掻き集める行動に出た。これを知った家康は、「してやったり」と、にやりと笑い、決起する。


 「難攻不落の大坂城もいまは、裸同然、叩き潰してやるわ」


 1615年4月4日には


 「四月五日までに淀城に入城せよ」


と命を出す。家康は駿府城を18日出て、京都二条城に入った。

 将軍秀忠も4月10日に江戸を出て、21日には伏見城に入った。家康は、豊臣秀頼に最後通牒を突きつけるも、それを拒絶された。ここに、大坂・夏の陣の口火が切って下ろされたので御座います。

 家康の動きに対して、豊臣方の動きは、鈍かった。家康が三月の下旬から動いたのに対して、豊臣方が動いたのは、四月三日のことだった。

 夏の陣の軍議は、大坂城千帖敷で開かれた。豊臣秀頼は、家康の横暴を目の当たりにし、今回は、闘志に満ちていた。


 「事ここに至っては最早やむを得ぬ。潔く決戦して、雌雄を争い、刀折れ、矢尽きるとも、太閤の子として諸将と共に屍を戦場にさらす覚悟である」


と、決意のほどを顕にした。これを受けて、主戦派の真田幸村が続いた。


 「秀頼公が自ら大軍を率いて上洛なされる。そして、二条城を攻略し、伏見の敵を追い落とす。東西の連絡を経たせるため宇治、瀬田の橋を焼き申そう。更には、豊臣恩顧の諸将に檄を飛ばし、兵力を増強し、やがて城南に地の利を占めて大戦を行う」


と、半年前の家康の内通者だった小幡景憲に、急増軍の隙を突かれ、反故にされた新宮行長と似た作戦計画を提案した。


 「それこそ正に男の死花ぞ」


と、後藤又兵衛、長曽我部盛親ら歴戦の武将たちが、諸手を上げて賛同した。しかし、織田長頼だけは、心痛な思いでいた。そんな長頼が、唐突なことを言い出した。


 「軍には統制が何より肝要である。この際、余が総司令官に就任したい」


 これには、一同驚愕至極。冬の陣以来の彼の行動を見ていた諸将たちは、呆れ顔だった。それには理由があった。織田長頼は、淀君の従兄弟にあたる。血筋的には許せる範疇だろうが、皆が知る長頼の見方は違った。

 冬の陣の折、有馬豊氏が来襲すると戦わずして撤退。谷町口の攻防戦でも病と称して兵を指揮しなかった。悪い噂や行動に事欠かない。遊女を侍らせていたらしい…遊女を赤備えに武装させ、大勢の番兵を率いて城中を巡視して、眠っている者を斬り捨てたという。

 自分自身の怠慢ぶりを棚に上げ、傍若無人の振る舞いで、味方の戦意を殺いでいた。加えて、家康の内通者だった小幡景憲が、信頼できる者のみ残そう、

と兵力を削減させる和議に一役買っていた。さらには、飽く迄も噂ではあるが、片桐且元の駿府行きを理由に秀頼を追い出した後、従兄弟の織田信雄を大将に担いで、織田家再興を企てていた、という風聞まで飛び出す人物だったのです。


 夏の陣に際して、淀君の従兄弟である織田長頼が、唐突に総大将を名乗り出た。豊臣秀頼、真田幸村らの言動に士気上がる最中の事だった。


 「何をほざくか、身の程を知れー」


と、誰もが口に出すような人物の奇行だった。すると、長頼は機微を返すように言い放った。


 「信長の甥である余が総軍を指揮するのに何故いけないか、それなら余が城にあっても仕様がない」


 そう言って、激怒したふりで席を立ち、そのまま京に脱走した。さらに千利休の高弟・七人衆の一人でもあった茶人・織田長益である有楽斎長益も逃走した。彼らにしてみれば、そもそも織田家の家臣である。豊臣のために、命を掛ける必要があるのか、馬鹿馬鹿しく思えても仕方がなかった。ましてや、籠城に堪えない城、半減した兵力、それこそ素性の知れない雇われ兵が派閥を築く中、勝ち目のない戦い。

 総大将の提言も、長頼なりの小芝居で、面子を潰されたことで、大義を立て、己の保身を保ったのに過ぎなかった。有楽斎長益も師である千利休を死に追いやった豊臣への恨みこそあれ、恩義もなく、これ幸いと長頼に便乗したのだった。身内に見捨てられ、逃げられる虚しさ。その虚無感から淀君は、半狂乱となり、床に伏す有様。

 秀頼の動揺も軽いものではなかった。織田家の血筋の者の相次ぐ逃亡。死花を咲かせると誓った兵たちの心意気は、立ち向かおうとする敵の大きさを改めて思い知らされ、揺らいでいたので御座います。


 「これでは、どうにもならぬ。仕切りなおそうぞ」


 秀頼は、揺らぐ気持ちを沈めるように、決戦予定地を一巡し、兵たちの士気を高めつつ、自らの決意を強めていった。手薄な京都進撃の兵達を、秀頼自ら見送った。前衛に後藤又兵衛、木村重成、続いて金瓢の馬印に愛馬太平楽に跨った秀頼公。中軍には真田幸村、長曽我部盛親。後衛に大野治房、新宮行朝らが住吉神社から天王寺、岡山一帯の地形を一見して帰城。その夜は、全軍に豪勢な酒肴が振舞われた。

 少しは気焔も揚ったが、兵力は冬の陣の半数にも満たなかった。大野治房は、宴会の片隅でひとり悩んでいた。


 「大義のために、親を滅ぼす」


 財政難を理由に、兵力増強に反対する、兄・治長。治房は大義のためならば、


 「兄・治長を暗殺してでも、将兵を掻き集めようぞ」


と、悲壮なほど、追い詰められていた。

 

 大野治房が悩むのと同じく、秀頼も亦、育ての親の片桐且元、母が誇りとする織田一門の逃亡とも取れる離脱に心を痛めていた。いま、頼りになるのは、真田幸村や後藤又兵衛などの豊臣恩顧の武将達。秀頼は、その者たちに直面する戦いの見込みを聞いてみた、すると「二十万の関東勢に対し、裸城と僅か五万の兵では…」と、皆が落胆の色を隠せないでいた、それが現実でした。

 秀頼は、窮状打開の手として、自ら筆を取り、故太閤と縁の深い浅野長晟に参戦を要請した。しかし、浅野長晟は今では家康の婿だった。浅野長晟はその文を読むにつれ、顔が紅潮した。


 「何と参戦せよと申されるか、馬鹿げたことを。今の大領主となれたのは、家康公のお陰なり。秀頼殿、血迷ったか」


 家康の気性を思えば、反逆児とも成り兼ねない秀頼からの接触に、浅野長晟は、躊躇うことなく、使者をその場で切り捨てた。浅野長晟は、冬の陣の和睦後も、家康から北山一揆の徹底討減を厳命され、熊沢兵庫に兵を増派していた。熊沢兵庫は、北山、西山郷一円の残党を追求。主要な人物の首級数十を若山にいた浅野長晟に送り、

鎮圧の報告としたのです。それを聞いた家康は、熊沢、戸田らに恩賞を与えるほどに上機嫌。しかし、湊、津守ら残党の多くは、巧みに追手の目を逃れ、大坂に帰り着いていたので御座います。

 逃れた者から、まだ多くの同士がいることを聞いて、豊臣方の大野治房は、


 「これで、秀頼様の許しを得て、作戦を敢行できる。今となっては、許してくだされ、(新宮)行朝殿。あの時、(小幡)景憲にまんまといっぱい食わされ、そなたの意見を取り上げなかった。本当に申し訳ない。そなたの作戦をいま、この治房が、敢行致しまする」


と、喜ぶと共に希望の膨らみを実感していた。


 四月二十六日の夜、突如、暗峠を夥しい篝火で埋られた。筒井定慶陣営は、闇夜の炎花に度肝を抜かれていた。


 「大変で御座います定慶様。峠を大坂勢と思われる大軍が迫ってきております」

 「な、なんと…大野治房か…。おのれー豊臣方への参戦要請を断った仕打ちかー」


 大野治房軍は、大和郡山城(一万石)を一機に包囲した。大野軍は、城下町に火を放ち、退路を絶つ作戦にでた。


 「このままでは、太刀打ちできませぬ。敵は二千余りの軍勢、当方は与力三十六騎。これでは、戦いようも御座いません」

 「…」


 筒井定慶らは、たちまち臆病風に吹かれ、戦わずして、大和郡山城を放棄し、逃亡。定慶らは、福住城に落ち延びたので御座います。

 大和郡山城は、大野軍の箸尾勢によって、攻略された。大野軍をその勢いのまま二十七日には、東北の村々を焼き立て、次に奈良を目指していた。それを知った奈良の町人たちは、驚愕した。


 「これは一大事。手立てを打たねば、この都が…」


 町人衆は、長を立て、焼き討ちせぬように直談判を試みた。それこそ、命懸けの申し立てだった。名酒十樽を献じて、「何かとご勘弁を」と懇請するのが精一杯。その足で恐怖の余り、春日山に逃げ込んだ。

 秀頼の大坂勢の勢いは、目を見張る物があった。この勢いで、秀頼が大軍を率いて上洛して、京、伏見、奈良を一時的にも制圧するのは容易だったかも知れない。

 その頃、家康は、大坂城一点に目標を絞っていた。

 豊臣方は、周辺を制圧することにより、家康軍の合流路を断ち、兵力を押さえ込めれば、また朝廷への申し入れで、存続の道を手繰り寄せることも十分に考えられた。

 織田一門の裏切りがなければ…、士気の低下がなければ…、軍配の行くへは変わっていたかも知れない。僅かな綻びが、勝機を決める。大事の前の小事、その小事を見極める目が、武将の資質を顕していた。


 戦わずして大和郡山城を放棄し、福住城に落ち延びた筒井定慶は、後に自らの逃亡を恥じて、切腹した。しかし、切腹の真意は闇に葬られていた。

 一説には、福住村に逼塞したとも伝えられている。

 武士として恥ずべき行為。それに対して家康が見向きもしていない。ましてや不自然なほどの敗退。それもその筈、実は、家康が豊臣方の出方を見るために、家康の指示による、仕組まれた敗退だったからだ。それは、筒井定慶の辞世の句に見え隠れしている。「世の人のくちはに懸る露の身の 消えては何の咎もあらじな」後に、筒井家は、尾張国に行ったとも言われている。

  では、なぜ筒井家は、捨て駒のように扱われたのか。それは、冬の陣にまで遡る。冬の陣の折、大坂勢が射放った矢の中に、筒井の紋の入った矢があったのが理由だった。用心深い家康は、筒井家への疑心を深めていた。

 これを知った者たちは、筒井家に深く同情する者もいた。郡山城を攻略した箸尾勢の細井兵助もそのひとりだった。

 箸尾勢には細井以外にも筒井家の旧臣が多く参加していた。郡山城の城下町を焼き立てたのも、大袈裟にし、「逃げるのも仕方なし」と思わせる温情から来るめくらませの可能性が否めない。勿論、家康の指示によるかは定かではない。二千の兵力と与力三十六騎。圧倒的な兵力の差がありながら、見す見す城主を取り逃すはずもなく、火事の喧騒を利用して、逃したのではないか…。筒井定慶のその後が不明瞭なのは、

幾多の思惑が交錯しての出来事だったのだろ。


 四月中旬、大野治房、新宮行朝は、極秘で後藤又兵衛と真田幸村を呼び寄せた。


 「今度の戦いは、思い切った詭道を取らねば万に一つの勝算はない。そう考えている。秀頼様に郡山城攻略の承諾を得たが実は…」


 大野治房は、すくっと立ち背中を向けた。


 「実は、なんで御座りまする」


 真田幸村は、目を輝かせ、期待感を滲ませた。


 「ここからは私目がお話申す」


 話を引き継いだのは、筒井浪人だった。浪人は、秀頼が難色を示すのに悩む治房の心境を察し、自らの考えを述べ、士気を削がれるのを逃れた。


 「この流れで一機に、伊賀上野を落とし、更には家康、秀忠出陣後の伏見城、二条城を焼き討ちするつもりで御座る」

 「それは面白い」

 「既に古田織部(茶人大名)らに承知して頂き、家老・木村宗喜を将とする五百余人で留守の伏見城・二条城を焼き討ちして頂く」

 「ほーそれでそれで、我らは何を致せば」


 背中を向けていた大野治房が振り返り、続けた。浪人の配慮に治房も意を決した。


 「後藤殿、真田殿には、大坂城から精鋭二万の兵を率いて、迫り来る家康、秀忠を挟み討ちにして頂きたき申す」

 「それは、痛快で御座いますなー」

 「ほんに痛快で御座る。奇襲作戦は、是非とも身共らに」

 「おお、しかとお引き受け致しまするぞ」


 後藤又兵衛と真田幸村は、満面の笑みでお互いを見合わせ、胸を躍らせていた。

古田織部の次男・九八郎は、秀頼の寵臣として仕え、織部の娘は、新宮行朝の妻だった。それだけに今回の家康の余りに卑劣なやり方に我慢ならず、古田一族を挙げて、太閤の恩に報いることを約束していた。そこに吉報が入った。


 「取り急ぎ、ご報告申す。大和郡山城を攻略。上野も同夜決行の予定であったが、折り悪く大雨のために二十八日夜に伸ばし申した。しかし、成功は疑いなしと」


 その知らせを受け、一段と大野治房らは、勇み立った。大野治房らは、地元郷土と呼応して、東軍の先鋒として佐野を目指している浅野勢・五千を潰滅させようとしていた。

 28日早暁

 治房は、塙団右衛門、新宮行朝らの勇将と共に出撃した。一方、後藤又兵衛と真田幸村は、家康らの首を討ち、一挙に勝利を手に入れんと、綿密に偵察活動を展開していた。出撃前夜、新宮行朝の心は高ぶっていた。


 「裏切り者は全て去った。今、将兵の団結は固く、雄心まさに勃々」


 これが成功すれば、戦局は一変する。その手応えを新宮行朝は、噛み締めていた。

後藤、真田らの偵察活動は、柳生十兵衛ら伊賀・甲賀の謀略部隊に「動きあり」を印象づけた。

 柳生十兵衛は、直ちに謀略部隊に情報収集の強化を命じた。不穏な動きありの情報を得た十兵衛は、敵方の泣き所を探った。世に出せぬお家事情、不義密通、借金、何でも良かった。火のない所に煙は立たず。非がなければ、非へと誘う。噂をばら撒き煙を立てて追い込む。手段は、選ばなかった。

 情報に基づき、関わりある人物を洗い出した。その結果、浮かび上がってきた人物が、御宿勘兵衛だった。御宿勘兵衛は、豊臣秀頼から、戦に勝ち天下を取り戻せば、

越前一国を与える、との書付を貰っていた。気を良くした勘兵衛は、この時より、越前守を名乗っていた。御宿勘兵衛は冬の陣において、蜂須賀への夜討など、大いに活躍していた老将だった。御宿勘兵衛は、行灯の明かりの元、書物を読んでいた。その時だった。


 「御宿勘兵衛殿とお見受け致しまする」


 どこからか、声がした。


 「何者ぞ」


 と、辺りを見渡したが誰もいない。天井を見ようとした時、再び声がした。


 「そのまま、身動き、なさりませぬように。動かれればお命なきものと、お覚悟なされよ」

 「そなたは何者じゃ」

 「私は柳生十兵衛と申す」

 「何と柳生十兵衛とな」

 「名を明かした以上、返答次第ではお命、頂き申す」

 「こんな老兵の命を奪って、何の得があると言うのじゃ」

 「問答を繰り返している時間はありませぬ。

 単刀直入に申し上げまする」

 「なんじゃ」

 「御子息が、江戸で禁獄され申した」

 「なんと」

 「御子息の身元が明らかになり、即刻、斬首のご沙汰が出る次第」

 「なんとか、助けられぬのか」

 「それには、それ相応の見返りがなくてはなりませぬ」

 「ご覧の通り、金数などは用意できませぬ」

 「そのような物は要りませぬ。金数目当てであれば、勘兵衛殿を松平忠直様に引き渡せば良いだけ」

 「それは、どういうことか」

 「勘兵衛殿が越前守を名乗っているのを忠直様がお知りになり、大変なご立腹のようす。勘兵衛殿の首に五万石の賞金を出されておりまする」

 「そのようなことが起きておるのか…」

 「作用で御座います。ですから金数などお気遣いなきように」

 「ならば、この老兵に何を求めると言うのじゃ」

 「はっきり申します。大坂勢の動きを然るべき所で、然るべき方に明かして頂きたい」

 「私は何も知らぬ、買いかぶるのも程になされよ」

 「そのようなやりとりは、御無用になされよ。

 こうして、私が出向くは、確信があってのこと。

 調べはついておりまする」

 「…」

 「勘兵衛殿の面子も御座いましょう。一晩、お考えになり、明日、早朝に京都所司代の板倉勝重殿をお尋ねくだされ。それを見届け次第、御子息のご沙汰を憂慮致しましょうぞ」

 「京都所司代へ参れと申すか」 

 「はい」

 「そのような、まどろっこしいことを言わず、そなたが今ここで聞けば良いではないか」

 「お話頂けるのですか」

 「それは…」

 「これでも私なりに敬意を表しているつもりで御座います」

 「敬意とな」

 「家康様がこうおしゃっておりました。大坂勢で侍らしいのは、後藤又兵衛とあなただと。その敬意で御座います」

 「家康公が…そのようなことを」

 「後は貴殿にお任せします。一晩ごゆるりとお考えくだされ」


 御宿勘兵衛は、徐に立つと障子を開け、中庭に目をやった。獅子落としの水たまりに月が、映し出されていた。その月をしばし見つめて、天を見上げた。月は、凍りつくような光を放ち、何事もないように、静観していた。


 「十兵衛殿、月が美しく御座るぞ」


 その問いかけは、虚しく夜風にさらうれていった。


 四月二十七日、御宿勘兵衛は、京都所司代の前にいた。周りを見渡しても、誰もいなかった。しかし、十兵衛は言っていた。見届ければ、ご沙汰の停止を進言すると。

大きく息を吸い、意を決して、門をくぐった。


 「頼もう、御宿勘兵衛と申す。板倉勝重殿に、お目通り致したい」


 板倉勝重は、何も聞かされていなかった。勘兵衛は、昨夜のやりとりを、十兵衛から固く口止めされていた。捕縛し、自白させるより、自らが出向き、告白する。そうしなければ、家康からの好印象を得られないと、十兵衛は考えていたからだった。勘兵衛は、十兵衛の心使いに感謝し、約束を守ることにした。板倉は、勘兵衛に自分の所に来た仔細を聞いた。


 「私は子にほだされてここに参った。私の子が江戸で放埒な事を仕出かし、禁獄されたと聞き及んだ。どうか我が子をご赦免頂きたい。その為に私は、侍として相応しくないことをこれより述べ申す」

 「はてさて、何で御座いましょう」

 「大坂勢の動きで御座います」

 「何と」


 板倉は、体が震え、驚きを隠せないでいた。そんな板倉を尻目に、御宿勘兵衛は坦々と話始めた。


 「明日二十八日、家康公、秀忠公の両御所様が、京より大坂に向けて御動座なされると聞く。これにより防御が手薄になった所を、大坂方は古田織部と申し合わせ、京、伏見を焼き払う計画を立てている」


 板倉は、体の震えが止まらなかった。突然、現れた御宿勘兵衛の告白によって、京都所司代・板倉勝重は、驚嘆の時を過ごしていた。


 「秀頼公より過分の御恩に預かっておりながら、このような密告をするのは武士の本意でないこと、よく分かっております。しかし、これは我が子を救いたい一心でのことで御座いまする」


 御宿勘兵衛は、正座した袴の膝頭を強く、握り締めていた。その拳は、しわがれながらも、板倉には、赤鬼のように思えた。


 「勘兵衛殿のお心、お察し申す。御子息の事は、私から家康様にお伝え申し、願い叶うよう、取り計らいましょうぞ」

 「忝(かたじけ)なく、存じまする」


 そう言うと、御宿勘兵衛は、その場に泣き崩れた。板倉は、その姿を見て、勘兵衛の密告を信用に値すると確信した。勘兵衛を京都所司代で丁重に匿うよう家臣へ支持を出し、直ぐ様、家康公の元へ早馬を飛ばし、馳せ参じた。


 「大変で御座います。取り急ぎお伝えしたき事が御座います」

 「何事ぞ、勝重」


 家康は、板倉から事の次第を聞き、血の気が一機に失われた。直ちに、家康は出兵の中止を命じた。次いで、柳生十兵衛の率いる謀略部隊に探らせていた大阪勢の動向を元に、伊賀城下の二十余人、二条城、伏見城を狙っていた古田勢の五十余人を一網打尽にすべく、厳命を出した。それを聞いた藤堂高虎は、驚愕しつつも、直ぐ様、伊賀上野に部隊を走らせ、辛くも全員を捕らえた。古田家の家老・木村以下も間一髪でことごとく検挙された。


 「これにて、天運、尽き申したか」


と、古田織部は、無念の涙を飲んだ。京都所司代・板倉重勝は、御宿勘兵衛の身を案じていた。


 「家康様、この度の危機回避、御宿勘兵衛殿の大義で御座います。何卒、何卒、寛大なご配慮をお願い申し上げまする」


 家康は、不思議と、勝重の訴えが心地よいものに思えていた。敵方の突然の申し出をここまで信じるには、ふたりのやり取りが尋常ではなかったのに違いなかろう。もちろん、柳生十兵衛から、ふたりのやりとりは、聞き及んでいた。十兵衛とて、勘兵衛が寝返るという確信などなかった。また、勘兵衛の願いを勝重が真摯に受け取るかもだ。十兵衛は、勘兵衛に掛けていた。

 勝重の心を打たねば、情報の真実性に影を落とす。そう十兵衛は考えていた。勘兵衛の悲哀は、見事に勝重の心を打ち抜いた。その願いは、子を思う親の心を改めて思い起こさせるものだった。

 親子、兄弟であっても、無情に戦わなければならない戦国の世。凍りつくような戦国の世の中を、一縷の熱き川のように、不信感を無条件に払拭させる血の通ったやりとりだった。感化された勝重の熱意は、家康の心にも充分に浸透していた。お家の為とは言え、今は敵方の大将となった豊臣秀頼に嫁がせた千姫のことを重ねたからで御座いました。


 「御宿なら小田原にいた頃から存じておる。この度の忠節、息子だけでなく御宿本人も許し、このまま我が陣に留まり、奉公させよ」

 「寛大なご判断、悼み致しまする」


 その言葉を胸に抱き、板倉勝重は、急ぎ、京に戻った。


 「御宿勘兵衛殿、この度の大義、家康公にもご理解頂き、許しのみならず、このまま奉公せよ、と申されておりました」

 「お気遣いは有り難いが、私は秀頼公より深い恩顧を頂いておる。この上はせめて秀頼公のため、この身を捨てるしかないと…。願わくば、私の代わりに息子を召し抱えてやって欲しいのですが」

 「それで宜しいのか」

 「宜しくお願い申す」

 「しかと、お聞き申した」


 板倉は、これからの勘兵衛の立場を思うと、目頭が熱くなった。裏切り者となっても、恩顧を重んじる。この門を出れば、また敵側の者として合間見れることに。それを承知の別れだった。

 勘兵衛は、息子の身を案じながら、重き足取りを伴って、大坂へと帰っていった。

 その年老いた背中は、悲哀の重圧に押しつぶされん如く、低く小岩のように、勝重の目には映っていた。


 五月七日、御宿勘兵衛は、天王寺・岡山合戦で、最後の忠節を全うし、討たれ、亡き人となった。かつて豊臣に仕え、藩政が意に沿わぬと浪人となった。再度、高待遇で取り上げられ、うつつを抜かし、松平忠直の怒りを買い、多額の賞金を掛けられる嵌めに。結果として、敵方ではなく、怒り収まらぬ、越前松平家の手の者に打たれるとは、これも因縁の成せる態か。

 御宿勘兵衛によって、計画が露見し、新宮行朝は仕方なく、山口など周参を兼ねて、気落ちする遊撃隊を励まして廻った。その後、落胆の色を隠せない大野治房と大坂へと帰った。帰坂した行朝を待ち受けていたのは、「伊賀上野、二条城焼き討ち計画が露見し、伊賀、木村以下五十余人が捕まり、茶道大名の古田織部父子も伏見に曳かれた」という悲報だった。

 家康の命を受けた京都所司代・板倉勝重は、柳生十兵衛と忍びの者を中心に情報収集の編みを張った。それを元に、計画に携わった浪人たちを、徹底的にあぶり出し、

容赦なく、粛清を行っていた結果だった。

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