第24話 10/5 決断の決めては、気を衒う事と見たり。

 二十八日、家康、秀忠が、京より大坂に向かう。

 手薄になった所を、大坂方は古田織部と申し合わせ、京、伏見を焼き払う…。

 御宿勘兵衛によって明かされた豊臣方の計画は、上洛案を拒まれた新宮行長の起死回生を狙う策だった。義父・古田織部を口説き落とし、ようやく掴んだ計画だった。

 それだけに軍略家の行長の落胆は、お押して図らずや。


 「もはや人力ではどうにもならぬ、豊臣家の式運の尽き」


と長い溜息を漏らすしかなかった。折角、占領した郡山城の箸尾勢に使者が飛んだ。


 「作戦を中止して帰城せよ」


 悲痛な指令が出されたのは、四月二十九日のことだった。二千の将士は、断腸の思いで足取り重く、帰路に就いた。

 元和元年(1615)四月末日、企てが露呈し、全てが白紙に戻された秀頼は落胆の中、諸将を集め軍議を開いた。そこで、秀頼は、意を決した。


 「城は、濠を埋め立てられ裸城となった。今となっては籠城は出来ぬ。さりとて、広大な野戦で大軍を相手にしては、勝算は乏しい。残るは、地の利を生かした戦う策のみ。家康は、冬の陣と同じく大和路から来るであろう。我が軍は、国分の先の天嶮で迎撃すべし」


 この決意は、後藤又兵衛の読みによるものだった。


 「籠城は不可能。敵は大和路から大坂城南を目指してくるだろう。亀瀬・関屋を抜けてきた徳川軍を国分辺りで叩く。山地の狭いそこを利用すれば十中の内、七・八は勝つだろう。先頭を破れば、後ろの隊は郡山に退くはず。その後のことはまたそこで考えれば良い」


というものだった。軍議は、徳川軍の襲来間近の大坂城で行われていた。

 軍議は、白熱していた。真田幸村は、大坂城南の四天王寺辺りで、集結した徳川軍を迎え撃つことを主張した。それに対し、後藤又兵衛(基次)は、交通の要所で山に囲まれ道が狭い国分周辺に陣を敷き、大軍の力を発揮できないようにするのが一番、と譲らなかった。結局は、冬の陣で又兵衛から真田丸の陣営を譲ってもらった幸村が、又兵衛に同意することで、国分方面への出撃を決意した。

 前衛は、後藤、薄田ら約6400が。本陣は、真田、毛利、福島ら約12000が。別働隊として、河内街道を南下する敵に備え、若江に木村の5000、八尾へ長曽我部ら6000が出撃し、側面を突くことに。豊臣秀頼は、兵たちを鼓舞した。


 「総勢30000に近く、全軍の精兵を傾けての第一決戦と伝えよ」


 5月1日、先ず、前衛の後藤又兵衛と薄田隼人(兼相)、井上時利、山川賢信、北川宜勝、山本公雄、槇島重信、明石全登隊ら約6400は、平野に野宿し、本隊を待っていた。本隊は真田幸村、毛利勝永、福島正守、渡辺糺・小倉行春(作左衛門)・大谷吉治・細川興秋・宮田時定隊、約12000は天王寺を目指した。真田幸村は、何としても本陣奇襲作戦を敢行したかった。


 「家康、秀忠の動向を詳細に探れ。本当に本陣に入ったか、どこから入るのか、ふたりが同行するのはいつか、漏らさぬよう綿密に探れー」


  幸村は、自らの忍者隊を八方に手配し、万全を軋た。5月5日、幸村と 勝永の二人は、又兵衛の陣を訪れた。


 「道明寺で合流し夜明け前に国分を越える。狭い場所に誘い込み、大軍を分散させ、兵力を削いで、それを討つ」

 「徳川軍を迎え討つ、これは、武者震いが致しまするな」

 「おー、我ら三人が死するか、家康・秀忠の首をとるか、どちらになるにせよ、思う存分、闘うまでよ」


と誓い、訣別覚悟の盃を酌み交わした。

 一方、徳川軍は、水野勝成を総大将とする大和路方面軍先発隊、約3800が5月5日の午後4時には国分に着き、宿営した。


 「勝成殿、陣営は、この先の小松山に置くのが良いかと」

 「小松山を陣営にすれば、狭き場所ゆえに敵襲を支えることは難しゅう御座るぞ。このまま国分に陣を敷、もし敵が狭き道の小松山を取ったのなら、回り込んで挟み撃ちにしようぞ」


と、水野勝成は、諸将の意見を一蹴した。夜になると、伊達政宗軍10000、本田忠政軍5000、松平忠明軍3800が到着した。勝成の意向を知った政宗は、家臣の片倉重長に


 「小松山の山下に一隊を伏せさせ、夜通し警戒なされよ」


と、指令を出した。この頃、この隊の後列である、松平忠輝軍の12000は、

まだ、奈良にいた。5月6日午前0時、豊臣方、後藤又兵衛隊2800は平野を出発し、夜明け頃には藤井寺に着いた。そこで、真田幸村隊らと合流を待つが、全く来る気配がなかった。実はその頃、真田隊らは濃霧のために時刻を誤った上に、寄せ集めの浪人が大半で行軍に慣れてなく、大幅に足並みが遅れていた。


 「遅い、遅いぞ。真田隊らは何をしておる。このままでは勝機を逃すではないか」


 後藤又兵衛は、思案した。そこで決意する。


 「このままでは勝機を逃す。我らは、真田隊らを待たずして、誉田経由で道明寺を目指そうぞ」


 ここで又兵衛が動いたことで、敵方徳川軍が国分まで進出していることに気づいた。それを見て、後藤又兵衛の隊は、石川を渡ると、水野勝成が避けた小松山を占領した。午前4時頃、片山方面から攻撃を開始した。一方、水野勝成が率いる徳川軍も午前2時頃には、後藤隊を発見していた。未明に徳川方、奥田忠次軍は小松山を登ろうとした所で、後藤軍と衝突。徳川方、豊臣方の戦いの火蓋が幕を切った瞬間だった。徳川方、奥田忠次軍は、小松山を登ろうとした所で、後藤又兵衛軍と衝突し、激しい銃撃戦が勃発した。挨拶代わりの銃撃戦は直ぐ様終息し、槍での戦いに移った。

 地の利を得た後藤軍は、その勢いで奥田忠次を討ち取った。続いて北から攻撃してきた松倉重政軍と衝突。松倉軍は、後藤軍の平尾久左衛門ら200を討ち取った。

 しかし、松倉軍も力尽き、全滅の危機にさらされた。そこへ徳川方の水野勝成・掘直寄が援軍として駆けつけて来る。そのお陰で、辛うじて、松倉軍は救われた。後藤軍が、山を下り銃撃戦を再開。それを受けてたったのが伊達政宗軍だった。政宗は、予め伏せさせていた片倉重長隊を起き上がらせ、銃撃戦に応対した。

 午前9時頃、伊達政宗本隊も小松山に登り攻撃に参戦。次いで、松平忠明軍も東からの攻撃を開始し、山を登った。徳川方の猛攻撃にあい、後藤軍の先鋒隊は壊滅した。後藤軍は隊を立て直しつつ徳川軍を撃退し、70~80人を倒した。しかし、北・東・南の三方向から迫る来る10倍近い敵を相手に苦戦は、続いていた。


 「もはや、勝ち目はない」


 そう悟った後藤又兵衛は、究極の決断をした。


 「死にたくない者は今から去れー」


 又兵衛は、勝敗が軋た今、無駄死にを好まなかった。しかし、又兵衛を慕う兵達の殆どがその場に留まっていたのです。


 「有り難き者達よ。ならば思う存分、戦おうぞ」


 又兵衛は、最後の戦いと受け止めつつ、徳川軍手薄の西を下って、平地に出ると、

隊を二分し、徳川軍に突撃した。捨て身の後藤軍は、徳川軍1~2隊を打ち破る。そこを丹羽氏信軍に側面を攻撃され、対陣を崩されてしまう。再度、分断された隊陣を立て直そうと奮闘するが、伊達軍の数千もの鉄砲隊の前に壊滅してしまう。後藤又兵衛もまた、隊を立て直す為、先頭に立った際、鉄砲隊に胸を撃たれてしまった。

 倒れこむ又兵衛を近くにいた金方某は、連れ去ろうとするが重たくて動かせない。

最後を悟った又兵衛は金方某を案じ


 「構うな、首を刎ねろ」


と、金方某に命じた。死して恥を晒すより、首を刎ね、身元を隠蔽することが、又兵衛を守ることと金方某は、自分に言い聞かせていた。金方某は、無念の思いで又兵衛の首を刎ねた。その首を陣羽織に包んで、涙ながら土に埋めた。

 正午、将を失った後藤軍の残党は、道明寺方面へ退却。それを追って、徳川軍も川を渡り、追撃した。後藤隊の敗残兵を収容したのは、豊臣軍の第二軍だった。第二軍には、薄田兼相(隼人)・井上時利・山川賢信・北川宣勝・山本公雄・槇島重利・明石全登隊がいた。第二軍に助けられた後藤隊は、追ってきた徳川軍も連れてきた。薄田兼相は誉田で徳川方・水野勝成軍と戦い討ち死に。井上時利も討たれた。

 午前10頃、やっと第三軍の毛利勝永隊が藤井寺村に姿を見せた。


 「単独で戦うは、又兵衛殿の二の舞。ここは真田隊を待とう」


 毛利に遅れること1時間、真田隊が到着した。幸村は、勝永が待機しているのを怪訝に感じていた。


 「毛利め、またもや徳川の前に尻込みしておるのか、腰抜けが」


 真田幸村隊は、渡辺糺隊と合流すると、毛利隊に気にも止めず、傍を摺り抜け、苦戦している北川宣勝隊の救出に向かった。真田軍の援軍により、徳川軍は、劣勢を舐める。まんまと幸村は、北川隊の救出を遂げた。徳川軍は、深追いを止め、体制を整えるべく、退去した。幸村は、新たな徳川軍の追尾に備えて、隊を整え、敵を待った。この様子を見ていた伊達隊の先鋒・片倉重長(重綱)は家臣に問うた。


 「どの隊に相反したいか」


 すると家臣の一人、丹野某が口を開いた。


 「真田隊の中に伊達家から大坂に入城した者がおりまする。願わくば、そちらを討たせて下され」

 「よし、分かった。そなたの願い、聞き申そう」


 片倉重長は、伊達家自慢の騎馬鉄砲隊を真田隊に向かわせた。

 徳川方・伊達政宗隊の片倉重長は、騎馬鉄砲隊を含む、騎馬と歩兵を二分し、突撃させた。鉄砲隊を真田隊の左右に配し、射撃。真田隊は、正面から突撃してくる部隊には、兵を折り敷かせ、敵が接近してから一斉に攻撃。左右の鉄砲隊には、鉄砲隊で対抗。両軍の戦いは、入り乱れた戦いとなった。乱戦の末、真田幸村隊の戦力が、片倉重長を上回った。重長は、戦況不利を悟った。


 「このままでは、持ち応えられぬ、撤退じゃー」


 「敵陣は引くぞー、追えー、追うのじゃ」


 真田隊は、片倉隊壊滅させるため、追撃した。


 「幸村様、徳川軍の援軍が参りまするー」


 現れたのは、他の伊達隊の援軍だった。


 「援軍だと…手負いの隊では新たな戦いは不利じゃ、ここは、一旦、隊を立て直そうぞ」


 真田幸村隊の戦力が、片倉重長を撤退に追い込んだ。そこに現れたのが、伊達隊の片倉への援軍だった。


 「殿、徳川の援軍が迫ってきております」

 「何と、歯がゆいことよ。後一歩まで追い込んだのに…ええい、このまま戦うは、我が軍の不利である。隊を立て直し挑もうぞ」


 幸村隊は、仕方なく、西へと退いた。その頃、豊臣軍に伝令が入った。


 「八尾・若江の戦いは我らの不利に終わった。ついては、隊を立て直すため、急ぎ、城へ戻られよ」


と。現場の諸将は傷心の面持ちで、現状を憂いていた。


 「このまま戦うは、八尾・若江の二の舞になる。ここは、城へ戻り、体制を立て直すが、宜しいかと」


 話し合いの結果、撤退を決め、大阪城を目指した。


 「見よ、豊臣方が撤退を致すぞ」

 「この期を逃すではない。一機に討ち倒しましょうぞ」

 「そうだ、この期を逃すな、攻めるぞ」

 「一網打尽じゃ、攻めるぞ」


 徳川軍の水野勝成、松平忠輝、一柳直盛、本多忠政は、一斉攻撃を主張した。


 「いや、待たれー」


 意気上がる将を怒涛のごとく、引き止めたのは、伊達政宗だった。


 「このまま、深追いすれば、我らにも多くの犠牲者が出る。見よ、朝から戦い、兵たちの疲れは尋常ではない。ここは、兵たちの回復を一番と考え、我らも、体制を立て直すのが、次なる戦いを有利にするものなり」


と、政宗は、断固、追撃を拒否した。本多忠政らは、意気上がる気持ちと裏腹に、兵たちの疲労度を改めて見ると、酷使できぬは必定かと、思えた。結局、幾多の戦場を指揮してきていた政宗の判断に、諸将は、渋々ながら従い、追撃を諦めた。


 豊臣軍敗北の伝令がでた、八尾・若江の戦いとは…豊臣方・木村重成隊4700兵は、霧の道明寺方面から激しい銃声が轟く中、闇夜の中をか細い提灯の灯りを頼りに進軍していた。玉串川に陣営を敷いたのは、日の出間近だった。一挙に家康本陣を突き、死に花を咲かさんと覚悟し、敵を待った。

 河内口の徳川軍は総勢十二万の大軍。重成の判断通り、前夜、家康は星、秀忠は砂田に泊まっていた。夜明け前には、国分方面で銃声が轟き、八尾・若江方面でしきりと人馬の動きがあった。

 藤堂高虎は、徳川秀忠の指令を仰ぐ為、砂田に向かった。その時、霧が晴れた。

そこに高虎が見たものは、八尾・若江一帯の豊臣方が、徳川方の側面を突かんとする姿だった。直ちに高虎は、右先頭の良勝、高吉や氏勝、左先頭の高刑ら藤堂勢に


 「右転し、攻撃せよ!」


と命じた。藤堂勢の戦力は、部将、騎士将校・440、鉄砲隊士・500、弓・50張、総計5000。鉄砲の数は、木村隊の倍というものだった。

 木村重成もまた、若江の本陣から藤堂勢を見ていた。重成は、隊を三分して、右翼隊は藤堂勢に備え、本隊と左翼隊は、十三街道を進んで来る井伊直孝隊・3200を攻撃する事を命じた。圧倒的に不利だった右翼隊だったが、死を覚悟した戦いは、藤堂良勝以下の大半を討ち取った。


 「勝ち運は我らにあり、これを逃すまい、進撃じゃー」

 「いや、待てぇー、進撃はならん。勝ち続けるためにも、ここは、午後からの決戦の為、休息せい」


 重成は、無理はせず、確実な戦いを優先させた。木村隊に続き、久宝寺から八尾を目指していた長曽我部盛親隊6000は、藤堂が迫るのを見て、長瀬川堤に兵を伏せさせ、槍を備えて、待ち構えた。八尾一帯は冬の陣で豊臣方によって焼き払われ、僅かに家康の侍僧・金地印崇伝ゆかりの地蔵堂(常光寺)だけが残っていた。戦いの中心は、長瀬川と地蔵堂で、展開された。長曾我部盛親勢の先鋒を、鉄砲隊で撃破した藤堂高刑は、その勢いに乗じて、残りの盛親勢を追撃した。そこにいたのが、長瀬川堤に伏せて待つ盛親勢だった。一気盛んな藤堂高刑隊は、目先に目を取られ、足元に気を配ることはなかった。そこを、足元から、一斉に槍で突き上げられた。真っ先に討たれたのが、元、盛親の家臣だった桑名一考だった。

 藤堂勢は、高刑、氏勝以下、多数を失って、敗走する嵌めに。高吉らは、本隊から遠く離れた地蔵堂で孤立していた。

 大坂勢は、藤堂勢の名のある将6人、騎馬60、兵200余りを討ち取った。更に藤堂の援軍も打破し、長瀬川堤上で凱歌も高らかに、午後の戦いに備えていた。

 午後の緒戦で、木村隊らは、井伊直孝隊3200の勇将・川手良則、山口嘉平治を討ち取った。しかし、続々と南下してくる大軍の徳川勢に、徐々に押され始めた。

 木村隊も10時間に及ぶ激戦に、敗色を深めていた。木村隊の重臣は、兵たちの疲れを実感していた。


 「今日はここまで。明日に備えて城に引揚げを」

 「何を申す、家康の首を取るまでは断じて引かぬ」


と、重成は重臣の意見を跳ね除けた。重成は、ここを死に花を咲かせる場所と決めていた。しかし、敗色は衰えることはなかった。


 「引けー、引けー」


 部下を引かせ、重成は、孤軍奮闘で挑んだ。気力に体力が、ついて来ない。振るう刃が空を切る。周りへの注意力がない。不意を疲れ、危うく、痛手を負う危機を幾度となく逃れた。しかし、遂に、力ここに尽きた。最期は、名も無き若者に首を捧げることになった。重成の首は、出陣前、新妻の青柳が、涙ながらに香を焚きしめた兜に覆われていた。芳香の漂う美し首を見た家康は


 「生かして置けば天晴な名将となったであろうに。何とも惜しい若者を死なせたものよ」


と深く嘆き讃えた。家康は、重成が和議の使者として来たのを覚えていた。

 渡辺勘兵衛は、敵を追って辿りついた平野を占領した。この場で、道明寺から退却してくる西軍を襲撃しようとした。しかし、これに藤堂高虎は、激しく反対した。


 「兵は疲れておる。深追いなどせず、八尾へ戻られよ」

 「あああ、何故じゃ、こんな好機を、みすみす逃せと言うのか」


 勘兵衛は、膝を叩き割らんばかりに、悔しがった。しかし、指揮権は高虎にあった。不服でも、その支持に従わざるを得なかった。

 渡辺勘兵衛は、悶々とした苛立ちを抑えていた。夜には、地蔵堂の縁に500余りの敵の首を並べ、実見した。


 「敵とは言えこれ程の亡骸を前にすると、我が運命を恨めしく思う」


 勘兵衛は複雑な思いで、戦没将兵の冥福を祈り、通夜を営んだ。兜首は取ったものの、名のある士はなく、不貞腐れていた。


 「これ程の思いをして、この成果か。割が合わんわ」


 旧知の仲だった高虎は、これを見て気軽に話しかけた。


  「こりゃ勘兵衛よ、えらく不貞腐れ居るがのう、年を考えて見よ。互いに60になろうが。わしも久しぶりに槍を取って泥田の中を飛び廻ったがこれ、この通りじゃ」


と、脚の槍傷を見せて、さらに続けた。


 「小事は大事と諺にも云う。襲撃せんとした、あの兵を誰だと思う。あの兵こそが、あの家康公さえ危うかった真田幸村じゃ。なまじ目先の勝ちを誇ってかかって見ろ、今頃はその首が飛ぶ大事に至っておったのに違いないぞ」

 「ほーあれが幸村か…」

 「そうじゃ、冬の陣で真田丸で我らを手こずらせたな」

 「猪口才な…窮鼠猫を噛む、と云うからな」

 「口が減らぬのう」


 傷を負いながら戦った戦国武将ならではの戒めだった。伊達軍援軍の参戦を尻目に、西に退去した真田幸村。とは言え、道明寺決戦で一万余りの伊達の鉄砲隊を完敗させた。


 「関東百万の兵の中に一人の男児なきか」


と豪語して悠々と引き揚げてきた真田隊は、天王寺茶臼山に陣を構えた。幸村は激戦の疲れも見せず、将士を労うために陣地を回った。そこに総司令官と云うべき大野治長が、慌ただしく姿を見せた。


 「今こそ最後の戦いになろうぞ。そこで皆の意見を聞きたい」


 日頃、温和な幸村が、激しい口調で口火を切った。


 「最後の決戦となり申そう。なれど敵は、百戦錬磨の老将に率いられた我に三倍する天下の大軍だけに、容易な事では勝利は望めませぬ。その為には是非とも秀頼公の出馬を願い、大馬印を四天王寺の城頭に揚げて、親しく将士に激励を賜る事が絶対必要と思われます。恐らく敵は、天満や船場から攻めず、全軍ことごとく城南の平野方面から襲来する事は必定。よって、我が軍は天王寺、岡山口に集結して、可能な限り敵を手元に引き寄せる。そこを船場に配した明石殿の精鋭が、今宮から瓜生野に潜行し、狼煙を合図に、全軍一斉に家康・秀忠の本陣を挟み撃ちし、両将の首を挙げる策以外に勝算はありませぬ」


と、強く主張した。それに対して大野治長は小さく頷いた。


 「流石は真田殿の軍略、確かにその他の方策はありますまい。宜しい、身共はこれより直ちに帰城し、必ずや、秀頼公の出馬を願い申そう」


と、固く約束し、席を立った。真田幸村の挟み撃ちによる家康・秀忠、両将の首を挙げる策に、


  「おーおー、これで我らの願いは叶えられるぞ」


と、総司令官と云うべき大野治長も賛同した。諸将も意気揚々、持ち場に急ぎ、戻っていった。岡山口の総指揮官・大野治房は直ちに配下の部将を集めた。


 「みなの者、最後の決戦じゃ。決して茶臼山、岡山口より前に兵を出してはならぬぞ。充分に引き寄せて、一斉に猛撃し、敵本陣を突くのじゃ。諸将はよく軍法を守り、決して勇に逸して、軽はずみな抜け駆けはせぬよう、部下にしかと申し聞かせー。万が一、軍法に背く者あらば、直ちに切って捨てー」


 大野治房は、鬼の形相で、自信に満ちた厳命を言い渡した。新宮行朝も最前線の陣地に帰ると、治房の厳命を将士に強い言葉で伝え、聞かせた。


 「今となれば、戦機の至るのを待ち遠しい限りじゃ」


 諸将も皆、同じ気持ちで、機運は高まりを見せていた。この頃、家康は、松岡を出立して道明寺戦跡を見て、平野へ進軍していた。


 「茶臼山には儂が参ろう」


 茶臼山は、最も難戦と思われる戦場だった。用意周到な家康は、


 「万が一、自分が討たれても秀忠がいる」


 そう自分に言い聞かせ、自らがその難所に出向くため、桑津に向かった。

 一方、西軍は隊伍整然と開戦の時を待っていた。だだ、豊臣秀頼の姿はそこにはなかった。大野治房・真田幸村らの悲願虚しく、つむじ風。家康は、秀頼出陣による結束強化を警戒していた。


 「半蔵、本腰を入れたはずの秀頼は、まだ、出馬しておらぬのか」

 「そのようで、御座います」

 「あ奴、戦いを前に怖じ気づきよったか」

 「それは何とも…」

 「まぁ良い。奴に使者を出せー。いま、講和に応ずるなら、国、二つを与えるとな」


 側近にそう指令を出すと、不敵な笑みを浮かべた。家康は、戦い回避の術は打った。それに従わぬは、豊臣方に非がある。万が一にも、講話に応じてくれば、それこそ、豊臣の終焉を天下に知らしめることになる。兵力で優勢に立つ家康は、豊臣方への牽制を怠らなかった。自分にとっての利益、相手を追い込む術を、幾多の戦いで家康は、学んでいた。


 一方豊臣方では、焦りの色を隠せないでいた。


 「秀頼公はまだか」


 痺れをきたした幸村は、秀頼公出馬の要請を長男の大助に託した。


 「父上、大助は父上と共に死にとう御座います」

 「よく、言ってくれた。父はうれしいぞ」

 「ならば、父上…」


 大助は嗚咽を漏らしながら、言葉を絞り出していた。


 「だからこそ、重要な役目を申し渡すのじゃよ」

 「…」

 「いくがよい、大助。必ずや秀頼公にご出馬願うのじゃ、頼んだぞ」


 幸村は大助の無念さを心に刻み込んでいた。息子と力尽きるまで戦う。武士身寄りに尽きる思いを抑え、秀頼の傍でその思いを遂げることを願った。大助には、父の気持ちが痛いほどに沁みてきていた。


 「承知…、必ずや秀頼公の御出陣を叶えると共に、お守り致しまする。父上におかれましては、心置きなく…、家康の首を討たられることを…、では」


 大助は、自分自身の気持ちを強靭な力で、奮い起こし、その勢いで、振り返ることなく、一心で大坂城へと急いだ。


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