第22話 9/5 擬態とは、敵を欺くのに宜しいようで。

 豊臣方は幸村らを、浪人ごときが偉そうに意見するな、という風潮が紛れもなくあった。幸村は仕方なく大坂城の外に真田丸という砦を築いて戦った。闘いの才能は、父譲りのものがあった。大坂城内では、


 「幸村の兄・信之は、家康の重臣。幸村は、家康方の回し者ではないのか」


と、疑われる始末。周りの目の冷たさに増して、折しも、季節は冬。寒さは、兵の気力を容赦なく、萎えさせていった。

 家康と天海にも疲れが、見えていた。


 「思っていた以上に抵抗しよりますな。もうこれ以上の長引かせるわけには避けねばなりますまいて」

 「このままでは、兵の気力がもたぬわ。力攻めはやめ、敵方の戦意を喪失させるため、慌てさせてやるか」

 「それは宜しいですな。兵力に物を言わせて、あちらこちらから攻めるぞ、と脅してやりましょう」


 家康は、イギリスから買い入れた大砲をこれでもかと、大坂城に打ち込んだ。大砲といっても、石を飛ばし、城壁などを壊すというもの。

 天海らは態とく、豊臣方から見えるように、地下通路工事を大坂城に向けて開始しさせた。連日の砲撃と、多人数での地下通路工事。豊臣方の要にいた淀君たちは、迫り来る恐怖に怯えが増していた。豊臣方の様子は、密偵からの報告で掌握していた。


 「そろそろ、宜しいのでは」

 「そうじゃな、寒さも増しておる、この辺りで和睦を申し出てやるか」


 その誘いに、案の定、淀君たちは、飛びついてきた。

 家康方からは、腹心の本多正純、家康の側室・阿茶局。

 豊臣方からは、淀君の妹・常高院(浅井初)が出席し、調印。

 常高院にとっては、感慨深き関わりだった。淀君は姉、徳川秀忠の正室・小督こと、お江与は妹。皮肉にも、姉と妹の間を取り持つ調印となった。


 世間は、徳川方が豊臣方を攻めきれず、尻尾を巻いたように映っていた。


 家康と豊臣方で結ばれた和睦の条件とは、

 家康からは、本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めること。

 豊臣方からは、秀頼の身の安全を保障すること。豊臣方に味方した者達への責任を問わないこと。


などが主な合意条件だった。ここに家康の強かな罠が、敷かれていた。家康からの条件には、「誰が」二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めるかを敢えて、示さずにいたことだった。

 受け手側の豊臣方は、すっかり自分たちの都合で行えるものと、安易に受け取っていた。家康は間髪を入れず、難攻不落の大坂城を腑抜けにするための行動に出た。

 あれよあれよという間に、三の丸の破壊に取り掛かり、二の丸も破壊した。これに淀君は、驚きを通り越し、激怒を覚えずにはいられなかった。


 「約束は守りまするが、我らに断りもなく行うは、無礼千万。そなたらの手を煩わせるものではありませぬ。即座に引き上げられよ」

 「これはこれは、失礼、致し申した。私としては、無理な条件を受けて頂いて、

更にお手を煩わせるのは、忍びないと…これは出しゃばった真似を致しましたな」

 「解かれば、即座に引き上げられよ」

 「まあまあ、そうお怒りになさるな。折角、手配も済、着々と約束事を形にしておりまする。ここは、この家康にお任せになり、ゆるりとお休みくだされ」


 やめろ、やめないの凌ぎ合い。激怒の淀君たちを、あれやこれやと理由を付け、

時間を費やす家康。

 しかし、豊臣方は抗議はするが、実力行使に移れず、破壊工作は、着実に進められていった。


 「家康のやつ、聞く耳を持たず、勝手な真似を…ああ、憎らしい」


 豊臣方は、苦虫を潰した思いで、砂煙を眺めるしかなかった。


 思い起こせば、方広寺の再建が時代を動かす要因になった。方広寺は、豊臣秀吉が、京の町づくりに、宗教の力を借り、人を集め、人員を掌握しようと手掛けたもの。その計画と権力の象徴となるものを建立しよとしたのが、方広寺だった。

 秀吉は、方広寺に奈良の東大寺に倣って、大仏殿と大仏の造営を始めた。しかし、ほぼ完成し、開眼を待つだけという時に起きた大地震。木製金漆塗坐像の大仏は、粉々になってしまった。その後、大仏は秀頼により完成を見るが、放火されて消滅。

 そして、三度の完成を間近に控えていた時の出来事だった。


 「家康様、私が方広寺を訪れたのは、佛の導きかと存じております」

 「佛の導きとは…」

 「知っておられますか、秀吉が作った大仏の話を」

 「どんな話じゃ」

 「町づくりに宗徒、宗教を利用し、民衆を掌握するのは、見習うべきところですが、秀吉は、ちと気が短すぎたようですな」

 「分かるように説明せい」

 「方広寺の鐘銘に奇しくも、国家安康と書かれたことが、火種に」

 「そなたが言うか」

 「そうでしたな。そもそも元を辿れば秀吉の時、完成を間近にした大仏は、開眼前に、京の大地震に見舞われ、倒壊してしまうのです。無残にも崩れた大仏を見て秀吉は、落胆と怒りを覚えたのに違いありませぬ。そのあとがいけませぬ。激怒した秀吉は「おのれの身さえ守れないのか」。そう言い放つと、大仏の眉間に矢を放ったのです。大仏を冒涜した秀吉への罰(ばち)が、時を超えて、災いとなったのでは…私にはそう思えてなりませぬわ」

 「そんなことがあったのか、くわばらくわばら」

 「神仏を冒涜するものは、天に唾を吐くようなもの。いずれは、自らに降りかかって参りまするゆえにな」

 「そうじゃな」


 ふたりは、神妙な心持ちに悲哀を感じていた。


 「湿っぽくなりました。気分を変えるためにも、念願成就のお経でも唱えて参りましょう」

 「おお、それは良い、頼んだぞ天海」


 止む終えず急ぎ歩むことを、悔やみつつも、改めて、気を引き締めていた、ふたりだった。


 冬の陣で和睦案が持ち上がった時、豊臣方は混迷の中にあった。


 「戦局は我に有利であり、和議など家康の偽りなり、抗戦すべし」


と、真田幸村や新宮行朝らが言えば、


 「家康は、老齡なれば和を結び時を待っておる」


と、豊臣秀頼や大野治長は、反論。


 「この堅城で義を守り一致協力して戦えば、何年でも守り抜ける。苦しんでいるのは敵方である」

 「その通り。和議など以てのほか。家康の手に乗ってはなりませむぞ」


と、大野治長の弟、治房や後藤又兵衛も、抗戦を訴える。苦汁を飲まされた武将や浪人たちは、抗戦を望み、高飛車の豊臣家陣営は、争いを拒むという、丁々発止の議論がなされていた。


 「淀君様、聞こえて参りましょう。意見が真っ二つに分かれておりまする。一枚岩でない限り、このまま戦えば、惨めな敗戦が待ち申しておりまする。今なら和睦が叶い、秀頼様、淀君様の命と豊臣家は生き延びましょう。しかし、このまま戦を続け万が一があらば、お二方の命は勿論、豊臣の名も失せるでしょう。ここは豊臣家の為、和睦をなされましては如何でしょう」


 家康が土を掘り、地下から侵入しようとしている。淀君は、地下から家康がぬぼーっと現れ、命を奪いに来る、という恐怖に押し潰されていた。その脅えを、織田信長の弟である有楽とその子頼長に匠に突かれ、淀君は和睦を受け入れる決意をした。

 親孝行の秀頼は、母の淀君の苦悩解消に同意した。織田有楽・頼長父子は、既に、家康と内通していた。そう、家康には、抜かりはなかったの御座います。

 和睦の条件の内、二の丸は豊臣家が。三の丸と外濠を家康方が、の約束事だった。家康は間髪を入れず、数万人の人夫を大名たちから集め、三の丸を壊し、外濠を埋め立てた。その勢いで、豊臣家の承諾なく、二の丸まで取り壊し始めた。これには、淀君も怒りを顕にした。


 「約束が違いまする。二の丸は我らの役割」

 「そうであったな、申し訳ない。しかし、手間取って見受けるゆえ、お手伝いをと思い、まぁ、気になさるな。我らが立ち替わりお引き受け申す」


 勝手な言い分を言い放つと、抗議などは一切受け付けず、のらりくらり交わされるまま、二の丸も倒壊の憂き目に遭ってしまった。


 「奴らは何をしておる」


 真田幸村たちは、二の丸の破壊を目の当たりにし、血が遡った。


 「あれをご覧なさい、奴が約束など守るはずがない。最初から機を見て、こうするつもりだったのだ」

 「こうなれば我らとて、黙って折れませぬぞ。ここは、家康、秀忠を夜襲して討ち取り申そう」

 「約條に背ことは出来ぬ」

 「約條を破りしは、家康方ではありませぬか」


 不毛な議論をしている内に、二の丸は倒壊させられてしまった。難攻不落の名城も今は、裸の城と成り果てていた。この工事の総監督を買ってでたのが、藤堂高虎だった。突貫工事を命じたものの当初、進捗状態が芳しくなかった。高虎は、責任者の官平右衛門を呼びつけ叱責した。


 「なぜ、工事が捗らぬ」

 「工事が工事だからのう。力が出んのじゃろう」


と、官平は、騙し討ちのような卑劣な仕事を非難して、にやりと笑ってみせた。すると高虎の顔は、一機に赤みを帯びた。


 「関ヶ原で救ってやったのを忘れたか」


と、怒涛が響くと、ビシュッと音がした。官平の足元には、にやりと笑ったままの官平の首が転がっていた。それを聞いた家康は、我意を得たり、とにんまりしていた。


 大坂冬の陣のあと、豊臣贔屓の巷の浪人や庶民たちは、徳川の非を口々に唱え、入城を希望する者達が城門に列をなす程だった。

 これを重く見た京都所司代の板倉勝重は、直ちに家康に報告した。それと並行して冬の陣で東軍に参加していたが、真田幸村が築いた真田丸で敗戦し、浪人となっていた高名な軍学者・小幡景憲を呼び寄せた。


 「全軍が大坂に参集するのに五十日はかかろう。その間、秀頼が京の帝に訴え、天下に義軍を募れば一大事になる。何かとこれを阻み、浪人たちを散じる策を取れ」


と、景憲に勝重は命じた。勝重が景憲を使うのは、家康から厳命を受けてのことだった。この大役を任せる人物を家康は、探していた。そこで、勝重が白羽の矢を立てたのが、小幡景憲だった。


 「のう、景憲よ。そなた名誉挽回の機を欲するとせんか」

 「それは願ってもないこと」

 「そうか、それなら豊臣方に入り込み、一泡吹かせて見ぬか」 

 「なんと豊臣に参れと申されるか」

 「そうじゃ、平たく言えば、密偵じゃ」

 「裏切り者の汚名を着てまでやることか…」

 「そうでなければ、志、叶わぬ。その代わり、悲願達成の折には、将軍の軍学指南を用意申そう」


 小幡景憲は、現状の身の程を嘆いていた。それを払拭する絶好の機会と景憲は捉え、勝重の申し入れを、背に腹変えられぬ思いで、了承した。小幡景憲は、板倉勝重の依頼を「これぞ、家康の窮地を救い、着せられた汚名返上の好機ぞ」と捉えた。

 小幡景憲は、何食わぬ顔で、豊臣方・大野治房の配下となった。治房は、景憲の才覚を高く評価していた。今では、浪人と変わらぬ身分。きっと家康を憎んでいるだろう、と豊臣方への寝返りを治房は、景憲に打診していた。それを知っての板倉勝重の小幡景憲への依頼だった。

 まんまと豊臣方に潜入した景憲は、そこで得た情報を、京都所司代・板倉勝重に事細かく流した。大坂勢が十万に達するや否や、焦りを隠せない家康。


 「大坂を明け渡し、大和か伊勢に移れ。それが厭なら浪人共を悉く追放し、元の家中だけにせよ、それさえ聞けぬとあらば直ちに攻めかかるぞ」


と、露骨に挑発を始めた。これに対して、大野治房は、三月半ば、新宮行朝を始め、

岡部、塙、布施らの他に新たに召抱えの小幡をも列席させて、軍議を開いた。 


 「かねて予期した通り、家康の肚は豊臣家の断絶にある。此際直ちに右大臣・秀頼を奉じて上洛し、二条城の京都所司代・板倉らを追討し、帝に挙兵の次第を奏上して、天下に家康の非道を明らかにし、迎撃体勢を確立すべし」


と、新宮行長は主張した。他の者も賛同する中、小幡景憲だけは違っていた。


 「百戦錬磨の家康に城を出て一戦を挑むのは万に一つの勝算もありませぬ。城に籠って固く守り時を待つのが上策である」


などの景憲の意見を悉く、行長は論破していく。


 「宜しい、それでは秀頼公に進言し、直ちに出撃せん」


と、小幡景憲の雇い主の大野治房までもが行長を支持する始末。景憲は、肝を冷やしながらも反論を続けた。形勢不利の中、景憲は方針を変更。治房が反対に回る以上、執拗な反論は裏目に出ると読み、支持を得ている案の脆弱な点を突くことにした。

 「出撃するにあたって先ず第一に為すべきことは、強固な一枚岩の軍勢にすること。それを達成するには、仕度金目当ての兵や実戦の役に立たない老弱兵を篩にかけ、少数精鋭で上洛を計るべし」と、解いてみせた。


 経緯はどうであれ、結果として、自らが礼を尽くして招いた景憲だけに、その力説に治房は、翻弄される。家康にとっての最悪な状況を避けるための景憲の熱意は、治房にとっては我らの軍を思ってのことと、捉えさせるほどの鬼気迫る力説となった。

 小幡景憲の提言を取り入れたことは、くしきも、家康の浪人追放の要求に応じることにもなった。結果、浪人や老幼兵、素性の知れぬ百姓兵を大量解雇することになった。十万の兵は五万ほどになり、大野勢の中でも勇猛で知られた武藤丹波守などは、二百名の兵が百五十名までになっていた。想像以上に縮小された軍勢を数え、内心

「してやったり」と、小幡景憲は、ほくそ笑んでいた。

 

 そんな折、秀頼に心を寄せる妙心寺長老から急報が入った。


 「大変で御座います秀頼様。小幡景憲は、家康方の内通者で御座います。急ぎ、急ぎ、手を打たれなさいませ」

 「何と、誠か…ええい、景憲を捕えよ」


 しかし、時、既に遅し。大野治房が急報を受ける以前に、密偵から自らの危機を知らされた景憲は、急ぎ、伏見城に避難していた。慌てたのは、大野治房だった。


 「直ぐ様、軍縮を止めー、改めて兵を募れー」


 それに対し、立ちはだかったのは、他ならぬ兄・治長だった。


 「待たれー。そのような事、叶わぬわ。どこにそのような蓄財があろうか。緊縮財政の折、再募集など叶わぬこと」


 再募集の足枷になったのは、金銭面だけではなかった。


 「また、兵を募っておるようじゃな」

 「何を今更」

 「そうじゃ、都合のいい時だけ、雇入れ、要らなくなれば、お払い箱」

 「本当だ、馬鹿にしやがって、やってられるか」


 解雇された者達の中には、豊臣家に不信感、反感を抱く者もいた。命を預けている。なのに、これでは、忠義を果たせる訳がない。そう思う者も、少なくなく、再参加を躊躇する者もいた。

 豊臣家への不信感。

 家康側もこの好機を見逃すはずはなかった。

 京都所司代の板倉勝重は、各藩に厳命して、再募集への警戒線を張り巡らせた。徒党を組んでいた兵も、各地に拡散していた。その兵が再集結するという情報を掴んでは、網を張り、その網にかかった者は容赦なく、切り捨てていった。

 豊臣方は、不用意に、小幡景憲を参入させてしまった。それにより、家康への攻めの好機を逃しただけではなく、兵力を半減させる嵌めになってしまったのです。


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