第16話 7/05 狐と狸の化かし合い、女神の微笑むのは?
徳川秀忠は、本軍に合流する前に、途中にある真田軍の上田城の陥落を企てるが、真田昌幸・幸村たちの防戦に苦戦。その結果、関ヶ原の戦に間に合わないという、大失態を犯してしまうので御座います。
秀忠の軍勢の数、三万八千人。家康の率いる東軍の半数にも及んでいた。その誤算はそのまま、家康自身を蝕み始めていた。家康の自信は一挙に先細りし、臆病風が首筋に冷たく巻き付き、死神の声の幻聴に凄まじい怯えを感じていた。
「落ち着きなされ、家康様。他方面の戦は順調で御座いますよ。そもそも、西軍より東軍への協力者が多いではありませぬか」
「それは、そうじゃが…」
「尾張、美濃と相次いで、西軍に味方した武将の城は陥落しております、落ち着きなされ、家康様」
天海は、声を張り上げ、動揺を隠せない家康を叱咤激励した。天海には、家康の気持ちが分かっていた。自分の軍、すなわち明智光秀の軍に堺で家康が追われたとき、自害を視野に入れていたことを。家康という男は、窮地に陥ると、人格が一変する悪い癖のようなものを持っていたのだ。
ここが、信長や秀吉の違いであり、天海という男を受け入れているのも、弱気になる自分を誰よりも、家康自身が知っていたからであることを、天海は熟知していた。
これを危惧し、戦場復帰を言い訳に、この戦に天海は、家康の側に居て、支えることを目的として、参画していたので御座います。
一方、石田三成側にも誤算があった。
それは、美濃にある岐阜城の陥落だった。美濃は、織田家の後継とされる、三法師こと秀信が守っていた。しかし、東軍の攻めは多勢に無勢もあったが、この城は、織田家や豊臣家に使われていた為、内部の構造が熟知されており、あっさり陥落されてしまった。さらに、三成が戦力として考えていた豊臣五大老の大名家である毛利家、宇喜多家の軍勢の動きが極めて鈍い点にあった。
その原因のひとつが、武将の多くが、二代目であり、戦国時代を生き抜いた経験豊富な武将がいなかったことは否めなかった。
三成を悩ませた問題は、それでけではなかった。
家康が、せっせと大名や武将たちに送り続けた手紙が、功を制していたのだ。家康からの再三の寝返り要請は、豊臣家との関わりから何となく西軍に味方していた者や、三成不人気側にいる居心地の悪さを感じていた者からすれば、やる気を削ぐ武器として、大いに力を発揮していたのです。それ以外にも問題はあり、決して、西軍は一枚岩ではなかった。
石田三成は、徳川軍の京都・大坂への進軍を止めるため、関ヶ原付近の大垣城に入った。東軍は、大垣城付近に布陣していた。
時は、1600年09月14日のことだった。
待ち受ける西軍は、集結する東軍の本隊兵数が、思いのほか多く、多くの者が現実を目の当たりにし、浮き足立ち始めていた。
「まずい、これはまずいぞ。戦う前に戦意を喪失しまう。左近、何か術はないか」
「左様で御座いますな。ここは、一手打ってみましょうか」
「何をするつもりだ」
「まぁ、上手くいけば、西軍の意気も上がりますでしょ」
そう言って、島左近は、席を立った。島左近とは、三成に「私の知行の半分以上を渡すから家臣に」と言わせた、勇将・名将だった。左近は、兵を率いて東軍の陣に出向いた。
「ぐたぐた、集まっておらずに、かかって参れ。怖気付いたか」
と、東軍を挑発した。
「猪口才な。お望みなら、目にもの見せてやるわ」
先陣にいた血気盛んな一部の軍勢が、すぐさま反応し、左近率いる西軍に襲いかかっていった。
「食いついたわ。者共、手筈通りに、宜しいかな」
「おー!」
左近軍は、東軍の攻撃を受け止めた。東軍の怒りに任せた戦意は、左近軍を折檻する勢いだった。じりじり、左近軍は後退していく。東軍は、西軍をどんどん、追い詰めて敵陣へと入って行った。
「まんまと、引っかかたわ。いまだ、かかれー」
左近の合図で、東軍の背後に別部隊の西軍が襲いかかった。東軍は、完全に本陣と離され、孤立してしまった。包囲網の中で、ついに東軍は壊滅させられてしまった。
「してやったり。えいえいおー、えいえいおー」
左近軍の勝どきは、萎え気味になっていた西軍の意気を、一気に高揚させた。
「やってくれましたな、左近殿」
三成は、左近を味方にしたことを改めて、感じ取っていた。この戦いは、その後、関ヶ原の前哨戦とされ、杭瀬川の戦いと呼ばれた。
09月14日。
島左近が仕掛けた杭瀬川の戦いの裏で、後に、関ヶ原の勝敗を決める大きな動きがあった。軍勢一万五千の大軍を率いる小早川秀秋が、突然、関ヶ原近くの松尾山に移動したのだ。この動きは、西軍の三成の度肝を抜く、突発な動きだった。
西軍・三成からすれば、自分が配置した部隊を許可なく、退かせ、陣取る小早川の動きは、不安以外の何者でもなかったのだ。
松尾山は、西軍のいた大垣城の西にあった。側面を取られ、三成は、心穏やかではなかった。いまでこそ、西軍に就いているが、いつ寝返るか分からない挙動不審な所が、小早川秀秋にはあったからだ。その不安が、現実になったかも知れない恐れは、
拭い切れないでいた。しかし、移動した小早川は、その後も、何ら動きもしない。それが、両軍の不安を掻き立ていた。
「小早川の奴、何をしておる。勝手な行動をしよって。ええい、すぐさま、秀秋に、この真意を問い糺して参れー」
一方、東軍・家康も、幾度となく、寝返るように使者を送ってはいたが、色好い返事は得られないでいた。
「あの若造目、何を考えておる」
家康もまた秀秋の動きに、苛立ちを覚えていた。
小早川秀秋は、豊臣秀吉の養子であり、秀吉からのご寵愛を受け、豊臣家の後継者として名前が上がった程の人物だった。秀秋は、元・豊臣五大老の一人、小早川隆景の養子となり、大名であった小早川家を継いだ。中国地方を納めている、西軍総大将とされた毛利家の家臣でもあった小早川家。
小早川秀秋自身は、自分の意志に関係なく、血筋や立場上、西軍に組み込まれたと感じていた。
「爺、この戦いは何事か。家康が豊臣家崩壊を企んだ謀反か。違うであろう。要は、三成派と三成に不満を抱くものを束ねた家康との戦いではないか。ならば、私は、東軍にいても可笑しくないではないか」
「そのようなこと、軽々しく口に出してはなりませぬ」
「わかっておる。爺だから、話すのだ」
「心中お察し申し上げます」
「なぜ、私は、西軍におる。爺も知っておるだろう。私が三成を嫌っておることを。朝鮮出兵時の失態を秀吉様に逐一報告され、秀吉様から大目玉を食らったことを。その結果、信頼を失墜し、領地まで取り上げらえたではないか。そんな時、秀吉様との仲裁に入り、失意のどん底にいた私を、救ってくれたのは家康様ですぞ。その家康様を敵に回して戦うなど、腑に落ちませぬ。戦う相手は、三成であろう」
「また、お口が過ぎまするぞ。誰が聞いいておるか分からぬではありませんか。ほら、壁に耳あり、障子に目あり、と申しまする」
「こんな山奥に壁や障子などありませぬ」
「油断はなされるな、山奥だからこそ、会話が筒抜けになることも御座います」
爺の懸念は、見事に的中していた。茂みの中には、家康の家臣、服部半蔵が差し向けた伊賀者が、その会話の全てを聞いていたのだ。
島左近の策略に、誘いだされた東軍は、陣営を深追いし、手薄になった後方を取られ、完全に包囲され、壊滅した。島左近の仕掛けた戦いは、東軍の兵力の多さに、蒼白の西軍の意気を高揚させた。この様子を高台で見ていた天海は、嘆いて言った。
「愚かな。相手の挑発に乗るとは…。家康様、指示なき行動を慎むように、お伝え下され」
「分かった、皆の者、聞けー。勝手な行動は慎めー。和を乱すでなーい」
家康は、雷鳴のごとく、声を張り上げた。
「おおー」
軍勢は、自分を鼓舞するかのように、気を引き締め直した。その後は、両軍、膠着状態が続いた。天海と家康は、黙って膠着状態を受け入れていた訳ではない。舞台裏での情報線を、頻繁に行っていたのだ。
「さて、家康様、西軍を大垣城から、追い出さねばなりませんな」
「そうじゃな。曖昧な情報を流して、炙りだしてやるか」
「東軍は、大垣城の包囲し、足止めさせ、その隙に、大坂方面に進軍し、京都・大坂制圧を図っている、と、噂を流してやりましょう」
「三成の慌てる顔が、思い浮かぶのぉぅ、ふふふ、あはははは」
刃音はせぬも、噂話という、人の心揺さぶる戦いに、天海と家康は挑んでいた。
その夜は、雨で見通しが至極悪かった。西軍の島津軍や、島左近など武将は、三成に進言した。
「三成殿、西軍の士気は上がっております。この期を逃す手は御座いませぬ。幸いにも、雨で見通しも悪い。密かに城を出て、夜襲を掛けましょう、一気に攻め込むのです」
「それはならぬ、相手の動きが分からぬ今、時期早々よ」
と、却下されてしまった。この夜は、どう戦うかの迷路の出口を、双方が模索していた。膠着の迷路は、ある武将の不可解な動きで、音を立てて崩れ落ちた。どすん、どすんと、俄かに不穏な足音が、闇夜に響いた。小早川秀秋が、何ら前触れもなく、動いたものだった。
「三成様、小早川秀秋様が、配置していた軍勢をどかせ、松尾山に陣取りました」
「なんと。何を考えておる秀秋は…。また、勝手な真似をしよって、真意を確かめて参れ。ええーい、早く参れ」
石田三成は、不穏な空気に押し潰されそうな重圧に、血の気が引く思いだった。寝返るかも知れないという噂があった、小早川秀秋の動き。秀秋軍が、西軍の大垣城を監視できる松尾山に移動したことは、西軍、東軍に大きな動揺を与えた。
三成の西軍には、まさかの疑心暗鬼として。
家康は、この機会を見逃すものかと。
直様、東軍にとって、有利な噂をながした。その噂は、秀秋が寝返り、大垣城を監視していると、また、東軍が、西軍の大垣城を無視して進軍するのを監視するための移動だ、とか。西軍の和を乱すのに格好の行いとして利用した。
小早川の動きの真意は、分からなかった。それは、西軍も同じと、天海と家康は考えた。この膠着状態でのこの動きは、いかなる知略を持ってしても、ありえない札の切り方だったからである。天海と家康は、天の恵みと考えた。この期に付け込まぬは、勝利を手元から逃すようなものだ、と思えた。勝機の流れを読む。経験値は明らかに東軍に追い風をもたらしていた。
「三成様、申し上げまする。秀秋様に真意を尋ねるも、無言にての返答。真意が分かり申しませぬ」
「あやつ、何を考えておる、ええーい、秀秋に伝えよ。この戦に勝った曉には、最高位を与えよう、領地も多分に与えよう、そう伝えー」
三成は、戦々恐々の筵に座らされ、なりふり構わず、秀秋の顔色を伺う術にでた。
東軍もまた、秀秋の心情に訴えかけた。
「秀吉の怒りを買い、大坂城を追い出され、領地も奪われた。それもこれも、三成の成せること。我らと共に、その恨み晴らさいでか。我ら、同じ思いぞ。一緒に闘おうぞ」
小早川秀秋の裏工作にひと役かっていたのが、家康から高い信頼を得ていた黒田長政だった。長政は、家康が東軍を結成する小山評定の折に、武将たちの心を射止めた福島正則の発言をお膳立てした人物。朝鮮出兵で三成と反目。三成とは反りが合わなかったというより、戦闘能力と知略に自信を持っていた長政は、豊臣から徳川へと時代が変わると、読んで、徳川の東軍に活躍の場を見出したのに他ならなかった。
「家康様、ここは長政殿にお任せしましょう」
「天海、それは私の台詞だ。任せたぞ、長政殿」
「有り難き幸せ。必ずや、秀秋殿を寝返らせまする」
天海と家康は、武将の気持ちをよく分かっていた。信頼する事とは、思い切って任せること。それを、意に感じて任せられた者は、力を発揮する。踏ん切りが付かず悩む小早川には、報酬ではなく、熱きものが必要だと感じていた。そこに、天海と家康は、賭けてみた。
小早川秀秋の元には、西軍・東軍からの熱き恋文・使者が頻繁に届いていた。西軍・三成は心情穏やかでなく、疑心暗鬼の魔物に飲み込まれていった。
「このままでは、大坂が制圧される。皆の者、東軍の大坂制圧を許してはならぬ。
城を出て、関ヶ原に出陣じゃ」
三成は、夜の雨に紛れて、大垣城を出て、小早川秀秋のいる松尾山へ移動し始めた。絶対不利な城責めを避けたかった東軍は、ついに、三成たちを城から這い出させた。西軍移動の知らせを受け、東軍はすぐさま、後を追った。
関ヶ原は、四方を山に囲まれ窪んだ地形だった。
西軍は山上に布陣し、東軍を見下ろせる有利な条件を得ていた。それに加え、石田三成は、本陣の前に杭瀬川の戦いで能力を発揮した島左近を、すぐ近くに戦国最強と呼ばれた本多忠勝や井伊直弼など、勇将・猛将を控えさせていた。
戦いの火蓋は、夜と共に開けた。東軍方からは、小山評定で名を馳せたこの男が名乗りを上げた。
「この福島正則に、先鋒を任せてくだされ」
「頼んだぞ、正則殿」
西軍からは、最も大軍を率いていた豊臣五大老の一人の男が指名を受けた。その男は、明石全登を勇将とする、宇喜多秀家だった。
一方、東軍、福島正則の部隊には、槍の名手・可児才蔵がいた。軍力に優れた福島軍であったが、多勢の前に一進一退の攻防を余儀なくされていた。
「我らも続こうぞ」
「積年の思い、今晴らそうぞ」
「行政方に戦とは、どのようなものか見せつけてやるわ」
東軍の小山評定の黒田長政、自害し東軍の気持ちを一つにした細川珠のちのガラシャの夫・細川忠興、槍七人衆の一人で武断派の家康に同調した加藤嘉明などが、石田三成の本隊に攻撃を開始した。
この三人、実は石田三成暗殺未遂事件の実行者であり、三成への積年の恨み抱いていた者たちだった。
家康は、三成の前面に配置していた。前面に配置された誰もが、その家康の配慮に意気を感じていた。東軍は侮っていた。
西軍は、実戦に乏しい集団と甘く考えていた。しかし、思いの他、善戦され、寧ろ、押され気味の戦況に、家康の苛立ちは痺れを来たしていた。一方、西軍、三成は善戦に気を良くしていた。
「今じゃ、畳み掛けるのじゃ。さあ、島津義弘殿、お頼み申~す」
三成は、戦況を有利に進めるために、本陣に控えていた島津義弘の部隊に攻撃を依頼した。しかし、島津義弘は、腰を上げるどころか、全くやる気を示さないでいた。
島津義弘は、南九州・鹿児島からはるばる援軍に駆けつけてきていた。その兵力の強さは、日本中に轟いていた。義弘は豊臣家に義理立てし、西軍に参加したが、三成の行政重視の政権を嫌っていた。要は、立場上、西軍にいるだけで、三成に従う意志など、毛頭なかったので御座います。
「くそー島津めー、ならばなぜ、そこにおる。ええーい、もう頼まぬは」
三成が、次に白羽の矢を立てたのは、毛利軍だった。
毛利軍は、家康の後方に位置する南宮山に大軍を率いて布陣していた。この軍団は、西の総大将の名目で毛利輝元によって、派遣された無頼だった。
「毛利軍の方々、お頼み申す」
「あい分かった、者共、出陣じゃ」
「おお」
しかし、部隊は一行に動かなかった。
「どうした、なぜ進軍せぬ」
「それが…それが…」
「どうした、はっきり申せ」
「あ、はい、吉川広家殿が、その…その…」
「はっきり申せ」
「あ、はい、弁当を食べているからダメだ、と」
「なんとふざけた事を」
のちに、これは、宰相殿の空弁当、と呼ばれた。
吉川広家は、毛利軍の前を塞いだまま、動こうとはしなかった。実は、毛利軍は味方同士の戦いを避けたいがため、身動き出来ないでいた。
「毛利軍は何をしておる」
「それが、吉川広家殿が、毛利軍の行く手を阻んでいるとか」
「何があったのじゃ、どいつもこいつも」
三成の焦りは、最高潮に達していた。
毛利軍には、小早川隆景と吉川元春という二大重臣がいた。二人は、考え方の違いにより、疎遠になり、内部も二分されていた。毛利軍を西軍に参加させた僧侶・安国寺恵瓊は小早川派だった。
「家康様、毛利軍が三成の攻撃依頼に応じておりませぬ」
「そうか、そうか」
家康と天海は、お互いを見、不敵な笑みを浮かべていた。家康は毛利家のそ内情を知り、早い段階から、吉川元春の子である広家に接近し、東軍側に引き込んでいたのだった。吉川広家は、東軍が勝った曉には、毛利家の責任は問わないこと、領地もそのまま保障すると、家康と密約を交わしていた。
「やりおったわ、広家の奴。さあ、どうする、島津も毛利も動かぬぞ、さぁ、どうする三成」
西軍には、毛利家の領地近くの、四国・土佐の戦国大名の長宗我部家も参加していた。長宗我部家は、東軍へ参加しようと向う途中、毛利家に関所が封鎖され、東軍に合流できず、仕方なく、西軍に参加していた。そんな状態だったから、最初からやる気など全くない部隊だった。
「一体、どうなっているんだ、どいつもこいつも」
「三成様、こうなれば、小早川秀秋様に再度、攻撃要請を致しましょう」
「仕方がない、恥も外聞もないは、謝れと言うなら誤ってやるわ、領地も、地位も、望み通りじゃ。何が何でも、秀秋の首を縦に振らせよ」
しかし、小早川秀秋は、大の石田三成嫌いだった。黒田長政に任せた秀秋の交渉も、長政が三成への攻撃に参加したことで、天海と家康に有利に働いていた。家康は、秀秋の尻叩きに懸命になっていた。
「みんなが寝返ったり、東軍指示の立場での静観など、もはや、何ら躊躇せずとも、寝返る状況は出来ておる。早く、決断なされよ。このまま、決断なされないなら、こちらも考えを変えねばなりませぬぞ。そのようには、支度はない。決断なされよ秀秋殿」
小早川のいた松尾山からは、関ヶ原を一望できた。その戦況を見て、有利な方へつこうと目論んでいたが、一進一退の攻防が続き、優劣をつけられないでいた。
秀秋も、西軍・東軍からのやんやの要請にこれ以上、決断を遅らせるのも、自分に不利に働くと、思い始め、焦りを覚え始めていたので御座います。天海が、提言を申し出た。
「家康様、秀秋様は引くに引けない状況に追い込まれていると感じまする。ここは、背中を押してやりましょう」
「どうするのだ」
「ちょっと、脅かしてやりましょう」
「脅かすとは…うーむ、それは面白い。鉄砲隊よ聞けー。小早川秀秋に向け、鉄砲を放て。しかし、当てるではないぞ。脅かすのじゃ。分かったな」
鉄砲隊は早速、陣を成し、秀秋目掛けて威嚇射撃を。銃弾が、秀秋を襲った。
「わー、鉄砲を撃ってきたー。家康様が怒っている。もうだめだ、者共、出陣じゃ、敵は西軍じゃ、かかれーかかれー」
天海と家康の思惑は、見事に功を奏した。
「天海殿、秀秋の寝返りに自信があったのか」
「あり申した。秀秋は実践不足に小心者。犬と同じと見た。吠えて叶わぬと見ると、尻尾を腹の方へ丸めて、服従を誓いまする。気概があれば、歯向かって、東軍に怒りをぶつけるでしょうが、小心者は、叱られたら、叱った者の言うことを聞きまするからな」
「なるほど、秀秋はそれだけの男と言うことか」
「若さか、性格か、我らからすれば、頼りなき武将ということです。しかし、秀秋の一万以上の兵力は魅力がありまするからな」
「食えぬ奴じゃな、そなたは」
天海と家康は、大笑いした。戦場でのほんの息抜きの場面となった。
小早川秀秋は、寝返りを宣言し、目前の西軍に襲いかかった。これを予想して、手立てを打っていた者がいた。その人物は、石田三成が、急速に親交を深め、盟友とも言わしめる大谷吉継だった。彼は、西軍でありながら、揺らいでいる秀秋の姿を見、
寝返るに違いないと踏んでいた。その時の為の布陣を用意していたのだ。
小早川の軍勢は、迎撃され、いきなり押し戻されてしまった。その大谷吉継に、災難が降り注ぐ。大谷吉継の軍勢と共に、小早川を迎える位置にいた部隊が、やや後退したように吉継は、感じた。敵は、前方の小早川軍。気にする程の事ではないと、気に止めないでいた。大谷吉継は、その時である、後方で信じがたい号令を聞いた。
「かかれー」
突然、共に行動していた部隊が、自分たちに襲いかかってきたのだから、堪らない。大谷吉継とにって青天の霹靂、大誤算だった。
実は、寝返った部隊は、開戦前に既に、家康からの使者と合意していたのだった。
大谷吉継の軍勢は、たちまち包囲され、集中攻撃を受け、孤軍奮闘するも、壊滅。大谷軍の消滅により小早川軍も立て直し、寝返った者同士、西軍への進軍を始めた。
関ヶ原前線は、一進一退の攻防が続いていた。
石田三成は、徳川家康の本陣を襲うと迂回部隊を差し向けるが、そこには、戦国最強と呼ばれた本多忠勝が立ち塞がった。
戦術、戦力的にも三成の軍勢は、歯が立たず撃破されてしまう。西軍・宇喜多秀家は、実践経験の浅い二代目武将ながら、東軍の福島正則に対して、善戦を続けていた。そこへ、大谷吉継を壊滅させた小早川秀秋の軍勢が、側面から参戦してきた。攻防の視野が広がったことで、戦力は散漫となり、隊列は崩壊していく。
「このままでは、持ち堪えることさへ叶いませぬ。包囲される前に、退去を」
「仕方ない、一旦、引けー」
結果、勇将・明石全登をしんがりに、宇喜多軍は、戦場から退却を余儀なくされた。豊臣家への義理を果たすために西軍に参加していた島津義弘の部隊もまた、善戦していた。しかし、取り巻く、戦況は芳しくなかった。
「西軍が、次々と崩壊・退去しております。このままでは、援軍が押し寄せてきまする、殿、ご決断をー」
「うぅぅぅぅ。敵に背中を見せろと言うか。島津藩は、そんな腰抜けではないわ。
皆の者、前面・強行突破じゃ。島津藩の心意気をみせてやろうぞ」
窮鼠猫を噛む、如く、東軍は呆気にとらていた。奇をてらった敵中突破は、東軍を蹂躙し、側面にいた福島正則の部隊も防ぐことが出来なかった。
追撃した井伊直政は、負傷してしまう。
島津軍は無謀とも思える退却方法で、大きな犠牲を払いながらも東軍を突破し、そのまま鹿児島へと帰還した。
戦は、呆気なく終焉を迎えた。
関ヶ原の敗者の処理も、粛々と進められていた。
石田三成、毛利家を西軍として参加させた僧侶・安国寺恵瓊は、計画の首謀者として。真っ先に自首してきた小西行長は、武将たちへの見せしめ的に。京都引き回しの上、処刑されたのは、この三人だけだった。
豊臣五奉行の長束正家は、自害の道を選んだ。
豊臣五大老の宇喜多秀家は、数年間逃亡し、捕獲された。その頃には、戦いの熱は、冷めていたのと、元々、人望が厚かった秀家は、著名な武将からの嘆願書もあり、島流しとなった。
秀家の妻・豪姫との別れは、戦国の悲恋物語として後世に残されることになる。
極刑の処罰対象者には、特徴があった。参謀的な人物に特化していた点だ。
家康、天海ともに、知略あっての武力という考え方。刃物も使いよう、ということだ。料理の道具にもなれば、殺人の道具にもなる。使い方次第で、味方にも敵にも、善にも悪にもなる、ということだ。
西軍に参加した武将たちは、領地を大幅に縮小され、地位も降格させられたことは言うまでもない。武将たちを規模は縮小させるも、存続させることで、敢えて恩義を感じさせ、彼らの領土を管理させる。仇討のような反目を、限りなく抑えることが目的だった。恩義と恐怖を与え、昨日の敵は、今日の味方、の如く。
例えは悪いが、戸外の犬のように、飼いならす。そうしておいて、裏切りの意思を削ぎ、反逆の防止に役立てた。
豊臣五奉行で、西軍の軍事計画を立てていたひとり、増田長盛は、戦前から家康と内通し、東軍へと、軍事計画を流していた。東軍は、西軍を情報戦で圧倒していた。
東軍に協力した他の西軍の者は、領地は保障され、形ばかりの謹慎処分とされた。
弁当を食べているからと、後に宰相殿の空弁当と呼ばれる理由で、三成の進軍命令に突然反逆した毛利軍の吉川広家。
領地の保障を取り付けて、東軍に肩入れしたが、約束は破棄され、毛利家の領地は大幅に縮小された。吉川広重の反逆は、毛利家存続が目的だった。
東軍家康の勝利を予想するも、西軍につく毛利家のことを思っての行動だった。
密約は、東軍の黒田長政と井伊直弼との間で取り交わされ、毛利家の重要な人質を送ることで、家康の承諾を得て、成立する予定だった。
しかし、人質を差し出す前に戦いは終わって仕舞い、家康との約束とはならなかった。毛利輝元に相談せずに、お家大事で起こした密約行動。当然のように輝元の怒りは買うが、毛利家のことを思っての行動として、厳重注意でことを得ていた。
東軍に参戦した武将達は、西軍から取り上げた領地の中から、多くの領地を与えられ、殆どが大名として出世した。
彼らは、同時に近隣の西軍・武将たちへの睨みを効かせる役としても、一躍を成していた。
敵中突破で退却し、薩摩に戻った島津義弘の島津軍。
それを待ち受けていたのは、元軍配師、黒田如水こと黒田官兵衛だった。この軍勢と一触即発の状態に。しかし、家康から停戦命令が届き、合戦には至らないで済む。
元々、島津家は、豊臣家への義理で参加しただけで、寧ろ、三成を嫌っていた人物。そこを配慮され、お灸を据えた数年後には、家康は、領地を与え、傘下に治める道を選んだ。
上杉軍と伊達・最上軍との東北地方の合戦は、西軍敗北の報告を受け、上杉軍が撤退。後に、徳川家に謝罪し、領地は大幅に失うが、大名家としては存続した。
東軍の伊達家・最上家は、領地の増加を獲得。
ただ、伊達政宗は、家康と開戦前、伊達100万石の領地を約束されていたが、叶わなかった。政宗の野心を悟っていた家康は、後に脅威になる者に領地を持たせることを嫌い、傍に置くことで政宗の立場を保持しつつ、管理下に置いたので御座います。
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