第14話 6/15 奇想天外・天海暗躍 

 「0は何を掛けても0。何の役にも立たない」「0はスタートの0」と誰かが言った。零がなければ、何もないとあるが見過ごされる。見えないところに真実の種が隠れている。全てに始まりがある。終わりの後に。そう、違った意味での終わりの始まりである。終わらせることで新たな道が生まれる。そこには悲壮感より、希望があるもので御座います。慣習に束縛されず、時には奇想天外、はしゃいでみては。


 「お久しぶりで御座います。天海と申します」 

 「いや、光秀殿か…そうだ光秀殿だな…、生きておったのか」

 「いえ、光秀と呼ばれた者は、この世にはおりませぬ。ここに居ますは天海という、僧侶で御座いまする」


 家康は、忠兵衛と半蔵を交互に見、何が真実で、虚偽なのか、困惑の色を隠せないでいた。


 「家康様、細かいことは、宜しおますやろ。ここにおる者は、家康様を天下人にする為に、集まった者、それで宜しおますやろ」

 「しかし…」

 「天海様には、僧侶として、あらゆる知識を身につけて頂いております。豊臣の動きも、私たちの配下から得た情報で掌握されております。家康様におかれましては、この天海を懐刀としてお使い頂ければ、幸いです。ご存知かと思いますが、天海様は武家社会の生業にも精通されておりますゆえ、必ずや、お役に立つと存じます」


 家康は、半蔵は元より、謎の堺商人・越後忠兵衛から、家康の命を救えたのは光秀のお陰であると刷り込まれていた。光秀は家康にとって、礼を言うべき、命の恩人となっていたので御座います。

 何故、家康が忠兵衛や半蔵の言うことを信じたかって?それは、人は上に立つほど

自分にとって害がなく、何事も話せて、指示を伺い、相談できる者を欲するもので。

この思いに忠兵衛、天海、半蔵が匠に突いたもので御座いますよ。


 「それは有難い。しかし、何故ゆえに、私なのじゃ」

 「それは、この天海から、お話致しましょう。この越後忠兵衛は、先見の目と財力を持っておりまする。光秀なるものが謀反とされる本能寺の変を起こした時も、裏で動いておりました。信長なき後は、秀吉が、その後は、家康様が天下人になられると、豪語しておりました。ゆえにお助け申した訳です。秀吉の独裁は秀吉あってのこと。もう少し、泳がせましょう。その間に、家康様は関東を制圧なされよ。秀吉亡き後を見据えて。それまで、ここにおる者同様、力を蓄えましょうぞ、如何かな、家康様」

 「それは、有り難いこと。一度は刃を交えた相手。いつ何時、私を狙ってくるか分からぬ針の筵から、回避できるのであれば、申し出は願ったり叶ったりじゃわ。そなたらの情報収集力、行動力は、下剋上の世にあって、得難いものじゃ」


 半蔵の度重なる根回しが功を制してか、家康からの信頼度は思いの他、上手く取り込めた。天海が、口火を切った。


 「早速ですが、この度の織田信雄の件で御座いますが、ご意見のほどは宜しいか」

 「あ奴の裏切りの件か。許されるな兵力を上げ、再び、秀吉を滅ぼしに掛かりたい思いよ。しかし、信雄の馬鹿が和睦などしおって、大義名分がなくなってしまったわ。この怒りの矛先をどこに向ければ良いか、思案に頭が痛いは」

 「単刀直入に申しまする。秀吉とて、貴方と今、戦いたくは御座るまい。ここは、来る時期の為、和睦をなされよ。ここで、仮に戦われて勝たれても、常に貴方様の命を脅かす輩を作るだけ。安息の日は御ざりませぬ。仕掛け処ろは、高齢の秀吉がなくなった時で御座いまする。今は、豊臣の中枢に食い込むこと、それに、ご尽力なされることを、お薦め申す」

 「和睦とな、腹立たしいこと、この上なし」

 「ほれ、そこをぐっと堪えなされ。機は熟しておりませぬ。豊臣の手足をもぎ取るにはまだまだ、時間が掛かり申す。じっと、我慢の時。秀吉とて、今の貴方をぞんざいには扱いませぬゆえ、ここは、我慢なされよ、家康様」

 

 家康の怒りは収まらないではいたが、自分をも取り込む奴らの自信有り気な言い方に、何やら言えぬ企みがあるのでは、と思う様になっていた。


 家康は、血気盛んな家臣をなだめ、時期を待つ、道を選んだ。突然、現れた自信に満ち溢れた二人。ひとりは、得体の知れない、闇の匂いがする豪商。ひとりは、過去と決別し、ある意味、悟りを開いた知識人。そのふたりの懐の深さに、元々臆病な家康は、陶酔していった。

 正直、戦国の世の疑心暗鬼の渦に飲み込まれ、耐える自信など、家康にはなかった。勢力を拡大するにつれ、命を狙われる恐怖が増していた。そんな折に現れた、絵図を引き、動かす者たちの存在は、得難いものであった。


 天海は、比叡山より、日光へ移り住んだ。事が起こりそうになれば、また動かす時は、忠兵衛の江戸の別宅を利用していた。そうして、家康とは密に連絡を取るようになっていた。


 「天海、秀吉の奴、五大老とか言って、秀頼の子守役を押し付けてきよったわ」

 「五大老ですか、一筋縄では参りませぬな。家康様の勝手にはさせぬということですな。さて、家康様、どうなされる。大人しく子守宜しく、豊臣氏を支えますか、秀吉亡き後、秀頼など、赤子の手をひねるようなものと、お受けするか、どちらかな」

 「誰がガキの相手などできる、これを期に反乱でも起こしたい気分じゃ」

 「反乱で御座いますか、それも宜しゅう御座いますな。秀吉信仰の壁は分あつ~御座いますぞ。力もある。勝てますかな」

 「ならば、どうしろと申す。いいなりになり、子守か」

 「さようで御座いますな。ここは、角隠しですかな」

 「猫を被れと申すか」

 「何を被ろうが、勝手ですが、牙を剥きすぎるな、ということです」

 「苛立ちを覚えるわ」

 「牙を剥きすぎるな、と申しましたが、牙を剥くなとは言っておりませぬ」

 「言ってる意味が分からんわ」

 「ほら、城を攻めるなら、お堀からと申すではないですか」

 「どうしろと、申すのじゃ」

 「五大老、五奉行は、秀吉が用意した豊臣氏の権威を守るための悪あがきでしかない。そもそも、秀吉の灯火が消える間際の機関など機能しますまい。ましてや、この政策には、最大の欠点がありまする」

 「欠点とは」

 「お気づきになりませぬか」

 「何じゃ、早う言え」

 「人材構成で御座います。五大老は、家康様を筆頭に、戦場で命の危険をまのあたりにする武断派。五奉行は、戦場で命を賭けることなく、理想論ばかり押し付ける、石田三成を中心とする文冶派。このようなものが上手くいくはずがない。常に、衝突すること必至で御座います」


 家康は、秀吉の晩年の体制を静観することを承諾した。天海の読みは、時間を経て現実味を帯びてきた。秀吉の一番の側近であった石田三成は、職務を忠実に遂行していた。その結果、武将たちの失態は、情け容赦なく秀吉に伝えられ、処罰された。釈明の余地さへ、与えなかった。武将たちからは、「戦場に出て戦わぬは、武士ではなし。秀吉の腰巾着め」など、陰口を叩かれることは、少なくなかった。

 三成の報告によって、厳罰を受ける者も少なからず。武将たちからは、明日は我が身か、の不安や不満が、積年の思いとなり、反発心を芽生えさせていった。


 1598年8月18日、

 伏見城で豊臣秀吉は、天下統一を果たし、亡き人となった。秀吉亡き豊臣氏は、武断派にも慕われていた前田利家が揉め事の仲裁役を行い、体制の均衡を辛うじて保っていた。その前田利家も、翌年1599年3月に亡くなった。仲裁役を失った五大老と五奉行の対立は、三中老に抑えられるはずがなかった。


 「いよいよですな、家康様。石田三成の評判は、かなり、宜しくないもので御座いますな。絶対君主、仲裁役を失った豊臣氏は、もはや、船頭を失った船と同じ。いつ崩壊しても可笑しくありませぬ。しかし、それをもっと確実なものにしなくては、なりませぬ。上手の手から水が漏れるの、例えもあるように、慎重に参りましょうか」


 家康は思っていた。秀吉の病死に次、仲裁役の厄介な者も立て続けに他界。いや、意図的に葬られたのでは。奴らの自信は、秀吉、利家の死を踏まえたものであったのでは。それを確かめる方法も、勇気もなかった。《藪をつついて蛇を出す》下手に奴らを怒らせば、次は自分が…。その思いは、信じることで払拭するしかなかった。


 「さて、何を仕掛ける。戦には、まだ早いぞ。敵味方が見えにくい。どんな裏切りに合うか分からぬからな」

 「戦は戦でも、戦わずして、戦う方法を取りましょうぞ」

 「何を言っておる、分かるように言え」

 「これは、失礼。秀吉の威光の陰りを如実に見せつけるのです」

 「そのようなことをすれば、孤立する恐れがあるまいか」

 「孤立せぬように、味方を作りましょうぞ。秀吉の遺言を破ってやりましょう」

 「それは面白い、して、何をする」

 「秀吉が、謀反を恐れ禁じていた、諸大名間の婚姻を家康様が率先して、推奨するのですよ」

 「なるほど、婚姻か。私の勢力図をこの婚姻を用いて拡張すると言うことか」

 「そうで御座います。この戦国の世、唯一信じられる関係は、血の系列ですからな。下克上の世に置いて、確かでなくとも、安心の糧となりましょう。賛同する諸大名も多いはず。これならば、戦わずして、津津浦浦まで、勢力を広げられましょう」

 「確かに。しかし、五奉行が黙っておらぬだろう。特に三成がな」

 「それも、思う所で御座います。さらに、諸大名がどちらに付くか、の仕分けにも役立てましょうぞ」

 「揉めさせて、混乱に紛れて、利を得るか。抜け目がないのう」


 思わぬ事件が起こった。石田三成暗殺未遂事件だ。家康の暴走を三成は、咎めようと五奉行を動かそうとするが、告げ口奉行として、信頼を失っていた三成に同調しようとする者は、いなかった。武断派は、その兆候を感じ取り、三成の暗殺を企てた。それを三成の密偵が嗅ぎつけ事前に知ることに。文治派の五奉行に相談するも、戦になれた武断派を相手にしようとする者はいなかった。そこで恥を捨て、命を拾う為、武断派筆頭の家康に助けを求めたので御座います。


 この事件の本筋は、三成にあり。信頼されるべき立場の三成が、その信頼を失った。ゆえに三成の起こした混乱として、家康は片付けた。石田三成は、家康の命により、謹慎処分とされた。三成は実質、失脚することになったのです。

 家康は、これを期に大坂城に乗り込み、政務を掌握した。これに対し、今度は、五奉行を支持していた、前田利長と浅野長政が、家康暗殺を企てる。

 半蔵、忠兵衛の密偵がそれを見逃すはずがなかった。忠兵衛の密偵には、寝物語りを聞く、くノ一が多くいた。くノ一の役処は、密偵の探りに遺憾無く発揮された。

 家康暗殺は、事前に発覚し、浅野長政は失脚させられた。前田利長は、次なる手の為にお咎めなしとされた。その決めては、天海の申し出だった。


 「なぜ、前田利長も成敗せぬ。わしを暗殺しようとしたのじゃぞ」

 「お待ちなされ、豊臣氏の兵力と財力を使わせねばなりませぬ。それを家康様がなされば、要らぬ反感を買う恐れがありまする。危険は承知。前田利長を豊臣氏の衰退の旗頭に祭り上げるほうが、有効的かと存じまする」

 「祭り上げるか、それは面白い」


 天海の絵図は、予想外の展開で綻びを見せた。


 「まあ、前田利長は、奥方の芳春院に救われ申したな。自ら人質となり、前田家が徳川家に従うと、申し出るとは、この天海も驚きを隠せませぬわ」

 「確かに、おなごにして見事な内助の功であるわな」


 一連の流れに、石田三成の憤りは、収まらなかった。三成は、上杉謙信と連携して、起死回生を画策していた。

 上杉謙信には、家康からの年賀の挨拶要請を断った「直江状」の出来事があった。それは、家康が謙信の動きに不信を抱き、年賀に来るようにとの返事に、年賀に行けない理由として、《軍勢を集めるは、東北からの攻撃に備える為。子供じみた疑いは、甚だおかしい》と小馬鹿にした返事を行ったものだった。


 「上杉家の謀反の疑い、もはや確実。討伐するために出陣する」


と、大軍を率いて、家康は大坂城を後にした。


 時は1600年、6月のことだった。

 奇しくも、大坂城は、一時的に徳川家がいない状態になっていた。この期に、石田三成は、秀吉に「百万の軍勢を率いさせたい」と言わせたほどの名将である大谷吉継を館に招き、今後の事を相談していた。

 大谷吉継は、ハンセン病により、膚がただれ腐っていく状態にあった。三成は吉継の病状に気後れすることなく、親交を深め、家康を倒すことを決断した。

 1600年、7月、徳川討伐を宣言。

 「内府ちかひの条々」

を交付して、諸大名の集結を呼びかけた。内府は、家康のこと。ちかひは、ちがうと言うこと。そこには、秀吉の方策に悉く、暴走する家康像が明記されていた。即ち、家康と考えが違う者への呼びかけであった。


 中国地方の大名であり五大老の毛利輝元は、徳川討伐の総大将となった。


 「軍勢を整え~、関所を設けよ。西側の援軍を阻止せよ」


 その翌日には、徳川軍勢がいなくなった伏見城を総攻撃した。伏見城には、鳥居元忠ら1800人程しか居なかった。多勢に無勢。攻撃軍は一万以上。伏見城は炎上し、鳥居元忠も戦死した。その報告は、上杉家から進軍中の徳川軍に伝えられた。家康は、小山に諸大名を集め、評定を開き、徳川軍に付くことを約束させる。この小山評定に大きな役割を果たしたのが、福島正則と加藤清正だった。

 ふたりは、石田三成が真面目で融通が効かないという理由から、毛嫌いしていた。

 豊臣氏を三成に任せるくらいなら、家康に託した方がましだ、とぐらいにしか考えていなかった。その家康が、豊臣氏を滅ぼそうなどと考えていたは知る由もなかった。小山評定をお膳立てしたのが黒田長政だった。長政は秀吉に恩義があった。信長から少年時代の長政を討ての命令に逆らい保護された過去があった。しかし、反旗を翻したのは、その恩義ある秀吉が重宝したのが三成だったからだ。三成とは、朝鮮出兵で対立。戦闘能力、知略を自負していた長政は、自分を活かすために徳川家を選んだのだ。後に12万石から50万石に禄高を上乗せ、貢献度は高かった。先見の目を持った黒田長政にとっては、小山評定は、まさに人生の分岐点となった。

 小山評定において、徳川家康は口火を切った。


 「伏見城陥落において、人質を取られ困っている者もおるだろう。ここで大坂に帰っても構わない。道中の安全は保証する」


 石田三成暗殺未遂の実行者でもある猛将、福島正則が強い口調で言い放った。


 「残してきた妻子を犠牲にしても、憎き、石田三成を討伐いたす」

 「私も、三成討伐に賛同する」


と黒田長政が続いた。それを受け、織田家の旧家臣であった山内一豊が続いた。


 「城と領地を全て差し出しても、家康様に協力致す」


 これらの発言から、徳川軍の意志は揺るぎないものになった。


 「上杉より、三成討伐を優先する。皆の者、大坂に戻るぞ」


 この時点で、三成の西軍と家康の東軍という、陣容が決定された。


 三成は、家康が上杉謙信討伐に向かったことを知ると、動いた。家康に賛同する大名の中には、大坂城下に屋敷を構える者もいた。その大名から人質を取って、家康への反旗を強要した。その中には、細川忠興の妻、珠(ガラシヤ)もいた。

 父、光秀の謀反により、京の丹後国の味土野に2年ほど、隔離・幽閉されていた。

 その後、秀吉の許しを受け、大坂・玉造に移り住んでいた。そんな珠の外出を忠興は、一切許さなかった。それは、宿敵の娘であることの命の危険さとキリシタン信仰への疑いが拭いきれなかったからだ。忠興が九州遠征時に、珠が初めて、裏門から抜け出し、教会に出向く。時同じくして、天正15年に秀吉は突如バテレン追放令を発令した。珠は、忠興の心配を他所に、急ぎ洗礼を懇願し、恵みという意味のガラシャを受けた。それ以来、キリスト教への思いはより深まっていたので御座います。


 家康についた諸大名の側室を人質に取る企ては、三成自身の運命に、大きな陰を落とすことになる。幽閉を解かれていた珠は、大坂城下玉造の細川家屋敷に居た。そこへ、三成は軍勢を差し向けた。


 「珠様、忠興殿が家康側につき申した。よって、珠様においては、我らの人質として投降して頂き候」

 「私が人質となっては、夫の邪魔になってしまいまする」


 そう言い残すと、油を撒き、火を放った。キリスト教徒のガラシャが自害という戒律破りを犯す。それも潔すぎる形で…。たちまち、細川邸は火の海と化した。

 細川ガラシャは、自己の尊厳と人間愛を貫き、女性の誇りを守り、平和を愛した。

 辞世の句として、《ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ》を残している。死を前にし、全ての欲から解き放たれた姿こそ、真の姿で美しい。周りの束縛から解き放たれた姿で、生きられる幸せを悟った唄と読み取れる。


 武将の正室として、誇りを貫き通し、自ら死を選んだガラシャの姿は、東軍の結束をより強固なものにすると共に、三成への敵対心を煽る要因ともなった。

 人質を取り、優位に進めるはずだった石田三成にとって、逆効果となった。

 石田三成の西軍と徳川家康の東軍。

 そもそも、豊臣の家臣同志の戦いは、単なる内部分裂なのか。黒田官兵衛、加藤清正や福島正則など、豊臣親派の家臣が、秀吉の側近ともいうべき石田三成につかず、家康についたのか。それは、政治的思想の違いが、如実に噴出したからで、決して、豊臣倒幕ではなかった。

 三成は、秀吉の朝鮮出兵のように、常に突き進み、世界を広げようとする思想と、

家康の天下を統一し、国内に戦のない平和と調和をもとにした発展を目指す思想との違いにあった。

 歴史とは、結果と、当初の志が必ずしも、一致しないこともある。その象徴の定が、関ヶ原の戦いになる。この段階では、家康は豊臣家を取り込むことを考えていた。倒幕などは、まだ考えていなかった。考えていたのは、家康を動かし、新たな天下統一を目論んでいた、黒幕たちだった。

 下剋上で明日をも知れぬ世に、一部の有力な商人たちは嫌気が指していた。権力による搾取にもだ。決まり事さへ、定をなさない不安定さに気を揉んでいた。殺し合い、覇権争いばかりし、生産性のない武士たちの行いに、商人たちは、憤りを禁じ得なくなっていた。商人たちは、財力と先見の目で、新たな世を作ろうと動き出した。決して、歴史には残らない黒幕として…。


 ほんの些細な思惑の行き違いで、時代は、大きな唸りの渦に、巻き込まれていった。西軍と東軍というより、三成への賛否で軍勢が分かれていった。


 天海は、大坂に戻ってくる家康を訪ねるために、近江の比叡山に戻っていた。天海は、これまでの経緯を、閻魔会、服部半蔵の配下から収集し、整理していた。情報を整理した後、大坂近くに、閻魔会の越後忠兵衛が用意した船宿に家康は出向いた。側近に服部半蔵もそこに居た。屋形船には既に、天海は乗り込んでいた。半蔵は、船首に鎮座し、警護にあたっていた。


 「挨拶は、宜しかろう。動きましたな。この歪は、思っている以上に複雑に大きく動きまするぞ」

 「確かに、上杉景勝が、橋や道を無許可で築いたことに、陰口を叩く者がおった。

わしも大坂城に乗り込むも、何かと見下げた口ぶりの三成にむかっ腹がたっておった。そこへ、上杉家の重臣の直江山城守兼続からの返事に日頃の不満に火がついたわ。苛立つ所へ、諸大名を冷遇する三成と、諸大名の気持ちが分かる、わしとの対立が加わるとはな。大河も、元を正せば、山頂の湧水一滴の如く、大火の火種とはそのようなものよ」

 「確かにそうで御座いますな。日頃、規則に厳格な三成が口を挟まず、好き勝手に規則をお破りになる家康様が、規則だとお怒りになる。外からみていれば、目糞鼻糞のなじり合いで御座いまする」


 そう言うと天海は、大笑いした。


 「いくら、天海殿でもそれはなかろう」

 「これは、これは」

 「そもそも、秀吉が定めた規則破りは、天海殿の進言ではないか」

 「そうであった、そうであった」


 また、天海は笑って答えた。

 家康は、憎たらしそうに、天海を睨みつけていた。


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