第13話 6/5 天上天下唯我独尊
どう聞こえるかは、人それぞれ。真実とは厄介なもので御座います。「講釈師、見てきたような嘘をつき」弁が立つ者に翻弄されるのも事実。弱いものですなぁ人は。真実はパーツの欠けたパズルのようなもの。ああだ、こうだと考えを張り巡らせ、謎を解く。その際、思い込みは禁物。辻褄が合わないのは嘘の証。そうそう、ファンタジーに思いを馳せるのは、安易で危険な打開策。呉呉もご注意を。
羽柴秀吉は、明智光秀に山崎の戦いで勝ち、存在感をより高めていた。
「信長の後継者に、柴田勝家は、信長様の三男・織田信孝を推すとのこと」
「勝家め、動きよったな」
「如何なされます」
「勝家に思うようにさせぬは」
「して、その作は」
「ん…、おう、三法師様じゃ、そうじゃ、そうじゃ。織田家当主の信忠の嫡男で、信長様の孫だ。これなら、文句あるまい、当主の嫡男だからな」
「ならば、信忠様でよいのでは」
「ありゃだめだ、腰抜けの馬鹿、信長様に似ても似つかぬ、うつけ者ゆえ」
「しかし、三法師様は、幾らん何でも幼過ぎませぬか」
「だから、良いのではないか。赤子の手を捻るように、実権を握れるではないか」
清洲会議の結果、三法師を後継者にすることに成功した秀吉だったが、織田家勢力の均衡を図るためとして、後見人には、勝家の推す信孝が就くことになった。
「あぁぁぁ、面白くないは、胸糞悪い。今に見ておれ、目に物を見せてやるわ」
秀吉は、巧妙に信孝、信忠を対立させておいて、その隙に後見人である信孝の要である柴田勝家の息子、勝豊を攻め、降伏させた。これで思惑通り、信孝を擁護するものを排除し、孤立させることに成功した。結果、秀吉は、三法師を奪い取り、実質、当主代理を奪い取ったことになったので御座います。
「これで、実権は握ったも同然。後は、五月蝿い奴らを払うのみ」
天正11年(1583年)
秀吉は実権を確かな物にするため、柴田勝家と織田信孝を、賤ヶ岳の戦いで滅ぼし、滝川一益ら重臣を排除した。
秀吉は、前田利家と金森長近らを味方に引き入れ、磐石の体制を築いた。
「憎っき秀吉め、このままでは、捨て置かぬわ」
秀吉に不満を唱えた織田の次男の信雄が、動いた。
「家康殿、力を貸してくだされ、このままでは、織田家は、秀吉に乗っ取られてしまいまする」
天正12年(1584年)
織田信雄は、信長の盟友であった徳川家康と結託し、秀吉を攻め、小牧・長久手の戦いに挑んだ。
圧倒的に優勢な秀吉軍だったが、家康の巧みな戦術で、窮地に追い込まれ、そのまま破れてしまった。家康は、これを期に秀吉を排除し、地盤固めの画策を掲げた。
その矢先の出来事だった。家康の目論見が、崩壊する出来事が起こった。
「家康め、この借りはきっと、返すぞ」
秀吉は、家康の功績を認めつつ、諦めてはいなかった。寧ろ、闘争心に火を付けた結果となった。秀吉は、小牧・長久手の戦いの大義名分の意図を見抜き、相手を押さえ込む行動として信雄に着眼した。
「腸、煮えくり返るわ。信雄の奴め、私に逆らえば、どうなるか、見せてやる」
秀吉は、圧倒的な軍勢にモノを言わせ、織田信雄を攻めた。家康の密偵は、この戦いの全容を伝えるため、早馬を走らせた。
「殿、殿、一大事で御座いまするー」
織田信雄の密偵からの報告に、家康の重臣は、驚天動地とどよめいた。
「信雄様が、秀吉と講和なされたと、早馬が参りました」
「なんじゃとー、このわしに相談もなく、講和したじゃと…見縊ったわ信雄め~。それにしても…、くそ~、やりよったな秀吉め~」
家康は、自分の信雄への信頼と油断を恥じて、落胆の色を隠せなかった。
秀吉と戦う大義名分を失った家康は、無駄な戦いを避け、苦渋の思いで、秀吉との和睦の道を選んだ。強力な秀吉軍に、表立って逆らう者は、もはや、皆無だった。秀吉の果て無き野望は、歯止めが利かなくなっていた。秀吉は自らの地位を磐石のものにするため目をつけたのは朝廷だった。秀吉は天守閣から、城下町を眺めながら、参謀の黒田官兵衛に言い放った。
「官兵衛、わしは、関白になるぞ」
「関白…ですか」
「そうじゃ、奴らにはほどほど、腹が立つ。偉そうに口出しばかり、してきよる。一滴の血も流さず、働きもせず、公家というだけで、俗世間とは掛け離れた生活を保証されておる。こんな理不尽な事があってよいのか」
「確かに、異論は御座いましょうが、この国の制度は、それで成り立っておりまする。天下人の暴走を食い止める利点もあるかと」
「わしの暴走を食い止めると言うのか。今や、我らに逆らう者はおらん。武家出身者はそうかも知れんが、出自の明からざる者のわしには、関係ないは」
「関白は、公家しか就任できぬ習わし、いかに殿と言えど…」
「わかっておるは。そこで、妙案がある。わしが、公家になればいいのじゃ。ならば、文句はあるまいて」
「公家になると…して、如何にして、なられると」
「そこで、そなたに頼みがある。公家とて所詮は人。必ずや、弱みがある。それを徹底的に調べてくれ。借財、後継者、気弱な者、何でも良い。頼んだぞ」
「御意」
途方もない、依頼に戸惑いながらも、官兵衛自身も、登れぬ山はない、の思いで奇抜な発想を楽しむことにした。
官兵衛の報告を受け、近衛家と近衛前久が、強力な軍の鞭と、禄高の甘い汁で、動く可能性を秀吉は嗅ぎ取っていた。秀吉は、相手の弱みに付け込み、当初、内大臣から左大臣への昇進を望んでいたが、左大臣の近衛信輔が
「我が家では、大臣を辞職した後で、関白になったものは過去にいない」
と辞職前の関白就任を求めた。
「我が家では任期一年以内に関白を辞した者はない」
と、現職の関白・二条昭実は譲らなかった。もめて、多くを敵に回すより、属することを優先させた。秀吉は、藤原の名を得て、近衛前久の猶子となり、前久の子の信輔と、兄弟の契りを結んだ。直様、信輔と関白職を譲ると約束したにも関わらず、羽柴秀吉は、さっさと、豊臣姓を創始し、関白職を手に入れたのだった。秀吉は、近衛家に対し、1.000石の知行地を、前久個人に200石を配しただけで済ませた。
秀吉は、戦国の黒幕だった近衛前久を言い様に手玉に取り、憔悴させ、ついには隠棲までに追い込んだ。時は、天正13年(1585年)7月のことだった。
元来、関白職は、五摂家と呼ばれる公家しか、就任出来なかった。五摂家とは、近衛、鷹司、九条、二条、一条の公家を言う。
その関白職に秀吉は、強大な軍事力にものを言わせ、建前上、前関白の近衛前久の猶子として就任。公家出身ではない、秀吉の就任は、公家社会において、前代未聞の驚きの大事件だった。
天正14年(1586年)、朝廷より、豊臣を下賜された。
さらに、秀吉の傲慢さは、留まらず、豊臣氏による武家関白の永続を宣言する暴挙にもでた。朝廷と幕府という権力の分化を改善し、政権維持を確立した。その6年後には、養子の秀次に関白を譲って、新たな野望へと邁進するので御座います。
遡ること、天正11年(1583年)
信長の安土城を凌駕する難攻不落の巨城である大坂城を築城。天守閣に拘り、外観5層の大天守閣に。本丸内は、金銀の装飾に、各階は財宝の山など、空前の富を集積し、来訪者を驚嘆させた。秀吉は、領国の首都に、政治、経済、軍事、文化の中心として、城下町を建設した。
栄華を謳歌していた豊臣秀吉も、死期が近づき、豊臣政権を磐石にするための体制作りに勤しんだ。
徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(没後は上杉景勝)ら、有力大名を最高機関の五大老に任命。天下の諸事を合議で決定していた。
地検などの事務処理は、秀吉の子飼いの家臣、石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家ら五奉行が行っていた。
五大老と五奉行の調整・監視役として、堀尾吉晴、中村一氏、生駒親正からなる三中老を設けていた。
磐石に備えた体制も、秀吉が末期の思いを叶えた形であり、実質的に機能することはなかった。
慶長3年(1598年)に、豊臣秀吉は、息を引き取った。
豊臣氏を継いだのは、秀吉の嫡男の秀頼だった。まだ、6歳のことだった。
豊臣氏内部では、晩年既に、武闘派の加藤清正・福島正則と、文治派の石田三成・小西行長らの対立が表面化していた。
そこに、朝鮮出兵せず、戦力を維持していた徳川家康は、秀吉が禁じていた諸大名と婚姻関係を無断で伊達政宗らと結ぶなど、豊臣氏崩壊の足音は、着実に迫っていた。さらに、豊臣秀吉が亡くなり、表舞台に現れ始めたのが、天海僧正である。
天海として、新たな人生を歩んでいた明智光秀は、堺商人の越後忠兵衛に、江戸の別宅に招かれた。天海は、比叡山で勉学に勤しむ傍ら、京都所司代と裏で繋がり、宗派問題や警護などの問題に関わっていた。秀吉の死を受け、その名が表舞台に浮上してくる。
「お久しぶりですな、光秀様、いや、天海殿」
「いや、色々と世話になっておる。あれ以来、家康殿とも、そなたらのお陰で、上手く繋がっておるわ」
あれ以来…それは、本能寺の変の後、三河国に戻って、落ち着いた頃のことだった。それは、越後忠兵衛と通じていた、服部半蔵から、家康の命を救ったのは、光秀であったと、告げられた頃のことだった。
半蔵を通じて、家康は、忠兵衛と会い、本能寺の変の裏の経緯を聞かされ、驚嘆を隠せないでいた。それは、家康が、織田信雄(信長の次男)共に、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで、秀吉に兵を挙げ勝利した。しかし、信雄が秀吉の逆襲にあい、何ら相談もなく、勝手に秀吉と和睦してしまった。家康は、大義名分を失い、仕方なく、自らも秀吉との和睦をせざるを得なくなった時期のことが蘇っていた。
「あぁぁぁ、信雄の奴めぇー、腸が煮えくり返るは。どうしてくれようぞ。この期を逃しては、秀吉の天下に従うしかないではないか」
家康は、荒れ狂っていた。半蔵は、そんな家康を、気分転換にと、茶会に誘った。
「家康様、今日は、会わせたい者が御座いまして、この茶会を設けさせて頂きました」
「会わせたい者じゃと、誰じゃ」
「お入りくだされ」
半蔵に促されるように、小さな茶室の扉が開いた。茶室は、刀を持ち込むなど、無作法を許さない構造になっていた。
「お邪魔させて、頂きます、越後忠兵衛と申します」
家康は、怪訝な顔で忠兵衛を睨みつけていた。
「家康様、この方があの伊賀越の時、光秀の報告を受け、私や伊賀者、船便の手配などしてくださったお方で御座います」
「なんと、そなたが…あぁぁ、いや、世話になった。かたじけない」
半蔵の言うことは、家康は疑うことがなく、素直に対応した。
「あの時は、予想もしない追手に驚かされましたなぁ」
「そなた、大坂の者か」
「堺遊覧の手配もさして貰いました、海山物問屋を営んでおります。大坂言葉しか話せませんよって、ご勘弁くだされ」
「そんなことは気にするでない」
忠兵衛は改めて、首謀者として、詳細を家康に話した。家康にとっては、青天の霹靂といった内容であったが、それぞれに合点がいった。
家康は、己の知らない世界があることに、大きな興味を抱くようになっていた。
「信長殿は生きておられると」
「それは、ご説明したように、もはや、辿る術もないと言うか、もう宜しおますやろう。信長さんは信長さんの生きたいようにされれば。その時点で、私らが関わるのは如何なものかと思います。何処かでやんちゃの限りを楽しんでおられると思いまっせ」
「そ、そうじゃな」
「本日は、もう一人、是非とも、会わせておきたい者が御座います。別室に待たせておりまするので、そちらへ、ご案内申し上げます」
半蔵は、家康を用意した座敷に通した。
「さて、今度は、どんな趣向かな、楽しみじゃのー」
半蔵が促すと座敷の麩が、すーと開いた。そこには、一人の僧侶が、伏せていた。
「ほ~、曽呂か、して、どなたかな」
僧侶は、うつむき加減の顔を上げ、静かな声を放った。
「お久しぶりです、家康殿」
「そ、そ、そなたは、いやいや、まさか、ありえぬ、ありえぬは」
家康は、聞き覚えのある声に、大きな戸惑いを受けた。
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