わらべうたの終わり
憂杞
♩
とおい昔に聴いた調べに、年老いた旅人の足が止まる。歌を紡ぐ
とおい昔に聴いた拍子の、とおい昔に聴いた音階の、とおい昔に聴いた言葉が、気流とともに耳を打つ。
旅人は鮮明に覚えていた。七十年を超える生涯のなかで見聞きしたことはおろか、生まれ落ちる前の胎内の景色さえも。旅人は物覚えが良かった。昔々に流れた音と聞こえた時刻を、事細かに記憶してしまうほどに。
周囲に聞こえぬ嗄れ声が、独りでに子どもの聲をなぞる。不思議なことはない。懐かしさに連れられたなら、気紛れさえも必然となるのだろう。
その歌は、生まれながらに忌子とされた旅人にとって希望であった。
育ての母が一度きり、とおい昔に聴かせた歌。旅人は鮮明に覚えていた。歌に込められた祈りの一言一句を、音に乗せる母の歌声を、自らの心打たれた瞬間を。
その歌が紡ぐ
今と狂わぬ拍子の、今と違わぬ音階の、今と変わらぬ言葉が、今も頭の中を渦巻いている。
年老いた旅人の足が止まる。歌を紡ぐ主は子どもなれど、嗄れ声は独りでに聲をなぞる。とおい昔と同じように、一度きり聴いた幼き頃のように。
しかし。
歌い終えたはずの旅人の耳を、聴き覚えのない聲が震わせる。
聴き覚えのない詞を、されど聴き覚えのある歌声で。
聴くに堪えない呪いの言葉を。されど聴き覚えのある音色で。
両の目が見開かれ、霞んだ視界がひらけていく。
旅人は絶望していた。とおい昔のわらべうたには、続きがあった。幼き頃に母からは聴かされなかった、祈りと裏腹の蔑みに満ちた二番の歌詞が。
とおい昔と狂わぬ拍子の、とおい昔と違わぬ音階の、されど言葉のみ異なるわらべうたが、聴こえる。旅人の嗄れ声は揺れるが、つられたまま独りでに聲をなぞる。
歌詞の意味を知ってか知らずか、子どもの歌声は続く。子どもの歌声は続く。歌の結末を知る無邪気な聲が、気流とともに耳を揺らす。
年老いた旅人の足が動く。
周囲に聞こえぬ足音で、叢を踏みしめる。年老いた旅人は
伝えなければ。
旅人には宛があった。自らのように忌まわれる者達を、旅人は識る。今宵のように人知れず蔑まれる者達がいると、旅人は識っている。
旅人は鮮明に覚えていた。ゆえに、伝えることを望んだ。今宵のようにとおい昔を打ち砕かれると知りながら、同士に聴かせることを希った。自らの無知を恥じるがゆえに、旅人は周知を希った。
年老いた旅人の足は進む。今しがた抱えた祈りの一言一句を、事細かに心へ留めたままに。
わらべうたの終わり 憂杞 @MgAiYK
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